第十九話 掃除屋は光を捕まえる
記憶は常に、しあわせな光輝に満ちている。
人間が言う「時間の経過」は、精霊にとってはささいなもの。
あの日見つけた少年は、誰よりも誰よりも儚く、凛としてうつくしかった。薄暮の空の一欠を映し取ったような紫の瞳で。やわらかな白銀の髪はさらさらと風に揺れ、複雑な夕暮れ時の光をたたえ、虹色を宿していた。
ラルク。
わたくしだけの、虹の君。
ティリエルは、わたくしが覚えている限りの昔から、古き闇の精霊の加護をうけている。
精霊の名はシェイド。
そう易く呼ぶわけにはいかず、わたくしたちは便宜上「常闇の君」と呼ぶけれど。
同じように、わたくしは永く東の精霊郷で「日の入り姫」と呼ばれていた。
遠く、遠く離れた西の地へ訪れたのは、父精霊から使命を下されたため。
『幸せの妖精ローザリッテ』と、そなたを垣間見ておとぎ話にしてしまった人間たちの国がある。このままでは縛られてしまうから、どうにかしておいで、と。
名を付けること。名を呼ぶこととは、すなわち相手を存在ごと縛ること。
わたくしは、ティリエルの民のこういうところが昔から怖いもの知らずだと思う。
◇◇◇
「ラルク様がまだご生母のもとでお暮らしだったころ。わたくしは、わたくしを『幸福の妖精ローザリッテ』と認識する多くのティリエルの民の記憶を曖昧にして、最後に王宮へ参りました。けれど、幼いあなたはわたくしと“目”を合わせたのです。そうして、はっきり呼びました。『ローザリッテ』と。……わたくしたちは、窓辺でいくつかの約束をしました。心で会話までできたのです。稀有なかたでした」
要因としてはおそらく、ラルクが既に「ティリエル第一王子」として闇の精霊と潜在的な契約下にあったこと。また、卓越した魔力の持ち主だったこと。
それらが彼の“目”を契約者と同等にさせ、空舞う真の精霊体だった『日の入り姫』を見抜かせた。
見つかった。
歓喜とともに、捕まってしまったのだ。
「あのときは、本当にびっくりしましたわ」
「いや……こっちこそだ」
愕然と言い返すラルクに、ローザリッテはしみじみと頷く。
幼いラルクは純粋で邪さがなく、相手を使役しようなどとは露ほども考えなかった。そのことも好ましかった。
「そのとき、あなたはみずから名乗ってくださいました。『ラルク・ウィル・ティラーゼ』と」
「うん……?」
「精霊にとって、これは結婚の仮契約。でも、ラルク様はまだお小さくいらっしゃったので……。大きくなって、妻としてわたくしを求めてくださるなら、改めて『名』を呼んでくださいとお約束しました」
「――あ!」
「ふふ。ラルク様は、呼んでくださいました」
「あのときか!!」
「あら? 人間仕様の釣書きとやらは、先にセイン陛下にお渡ししたはずですが」
「「……」」
「まぁ、いいでしょう」
たちまち口をつぐむ王室の兄弟に、ローザリッテは華やかに微笑む。
すると、それまで押し黙っていた小姓姿のシェイドがちくりと皮肉った。
「はーあ。実力行使もいいとこだな、『日の入り』。精霊郷の縁談はどうした? どうせ、相手はかなりの大物だろう。火の粉はごめんだぞ」
「それについてはさんざん言ったでしょう? 大丈夫よ。約束をした殿方がいるからと」
「〜〜〜〜ッで? 勝手にはぐれの精霊になったってことか。だからってな!? マスターが寝てる間に堂々と部屋来んな!! 僕は大迷惑だ! 暮れ時だろうと光はキライだ!!!!! ご丁寧に精霊郷の花まで撒きやがって。片付けめちゃくちゃ大変だったんだぞ?」
「まぁ、なんて心が狭い。あの花はわたくしの権能のひとつ。魔除けにもなるのだから良いでしょう? おとなになったラルク様はずいぶんと翳りを背負ってらしたもの。あなたのせいではなくて?」
「それは……っ。契約の内容が内容だから仕方ない。最低限の澱みは代々の第一王子の生母が神殿入りすることで祓えてる」
「それでは足りないと言っているのよ」
「じゃあ、お前には何が視えてるんだ?」
「「!!」」
はっ、と目をみひらくラルクとセイン。
そう。そのことをシェイドは言っていたのだ。
ローザリッテは、ふう、と肩を落として語りだす。
それは『日の入り姫』として、ティリエルの客分として、彼女だけに見えた世界……――
「わたくしには、何代にも渡る貴方がたの業が、とぐろを巻いて弱き心を狙っているように見えたわ。『粛清の黒騎士』と呼ばれるまでの果断を、なんども行ったのでしょう」
「まあ。ちょっと前までは」
「歪はいろんなところに出るものよ。とくに、目についたのはヘデラ侯爵ね。あのかた、ずっと娘を王妃にと狙っていたのよ。未来の国王の祖父として、やがては国王陛下を弑して王家の乗っ取りまで考えていた」
「! 本当ですか」
たまらずセインが口を挟む。
「ええ。わたくしには人間のあらゆる【望み】が視えるから」
「なんてことだ。まったく気づかなかった……」
「それで? まだあるだろ」
促しつつ、さり気なく紅茶のお代わりを注いでやるシェイド。
ローザリッテは、ありがとうと会釈してからカップをとり、唇を湿らせた。
「アイビーさんだったかしら。あのかた、門番の精にわたくしを運ばせたあと、『殿下から離れなさい』と命令してきたわ。ラルク様を婿にすることで得られる、あらゆる誉れと血脈を望んでいた。……お家の繁栄を願っていたのは確かだけれど。もう、国難そのものになりかけていたのよ。まじない織物のタペストリーだって、絨毯だって、王室に献上するつもりでいたの。いざというとき使えるように」
「そんな」
「だから」
ムッ、と口の端を下げたローザリッテは、呆然としたラルクを見つめた。
やがてラルクの心の奥底に光る、本人さえ気づけずにいる【望み】に辿り着く。
身を乗り出し、そっと、微動だにせず聞き入っていた彼の左手に触れた。
「あなたは、すべきことをなさいました。――自分を責めないで。あなただから防げたんです。わたくしの、今生ただひとりの愛しいかた」