甘い想い
三学期が始まってから、しばらくが経った。
窓の外には、冬らしい冷たい風が吹いている。教室の中では、昼休みを知らせるチャイムと同時に、あちこちから賑やかな声が上がっていた。
「なあ、今日の数学の課題やった?」
弁当箱を机に置きながら、蓮が晴に尋ねた。
「やったけど」
「マジ? 見せて」
「自分でやれよ」
「いやいや、親友だろ!?」
「親友なら自分でやれ」
「そこは助け合いだろ!」
いつものように言い合う二人を見て、美咲がくすっと笑った。
「もう、蓮。晴に頼ってばっかりじゃ駄目だよ?」
「美咲までそんなこと言うのかよ!」
「だって本当のことだもん」
「遥もそう思うよな?」
突然話を振られた遥は、箸を止めて顔を上げた。
「えっ? あ……うん。自分でやったほうがいいと思う」
「なんでだよー」
三人のやり取りに、遥も思わず笑みをこぼした。
こうして四人で昼食を食べる時間にも、すっかり慣れた。
転校してきた頃は、教室で晴たちと話すだけでも緊張していたのに、今では自然に笑い合える。
そんな何気ない時間が、遥は好きだった。
「そういえば、もうすぐバレンタインだな」
蓮が思い出したように言った。
「……あ、そうだね」
美咲が反応する。
「今年もチョコもらえるかなー」
「蓮は毎年もらってるだろ」
「まあな。俺、結構人気あるから」
「自分で言うなよ」
晴が呆れたように返すと、蓮は得意げに笑った。
「晴だって人のこと言えないだろ。顔よし、頭よし、運動よし。しかも性格までいい。そりゃモテるわ」
「なんだよ、それ」
「事実だろ?」
「そんなことねえよ」
晴は面倒くさそうに弁当のおかずを口に運んだ。
「でも、晴って本当に気づいてないよね」
美咲が苦笑する。
「何が?」
「女の子から見られてることとか」
「そうか?」
「そうだよ。去年だって、何人かに告白されてたじゃん」
「……ああ、そういえば」
「忘れてたの!?」
「晴って、そういうところあるよね」
遥も笑いながら言った。
「そうか?」
「うん」
遥が笑顔で頷くと、晴も少し照れくさそうに笑った。
「まあ、でもチョコは好きだけどな」
その何気ない一言に、美咲と遥の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……チョコ、好きなんだ?」
遥が尋ねる。
「おう。甘いもの、結構好きだぞ」
「へえ……」
美咲は何でもないように相槌を打った。
けれど、頭の中ではすでに、今年のバレンタインのことを考え始めていた。
晴に、何か作ってあげたい。
いつも一緒にいる幼なじみとして。
それだけではない気持ちを、少しだけ込めて。
遥もまた、静かに考えていた。
晴に何を渡そう。
それ以前に、晴に渡していいのか。
「……二人とも、どうした?」
晴の声に、美咲と遥は同時に顔を上げた。
「えっ?」
「いや、なんか急に静かになったから」
「な、何でもないよ!」
美咲が慌てて笑う。
「私も、何でもない」
遥も小さく首を振った。
「ふーん?」
晴は不思議そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
その隣で、蓮だけが二人の様子を見て、意味ありげに口元を緩めていた。
「……なるほどねぇ」
「蓮、何?」
「いや、別に?」
「蓮ったら」
いつものように始まった言い合いに、四人の笑い声が重なった。
けれど、二人の胸の中には、それぞれ小さな秘密が生まれていた。
放課後。
写真部の活動を終えた遥は、部室で撮影した写真を整理していた。
まだ肌寒い冬の校庭。
誰もいない廊下。
夕日に照らされた窓。
何気ない風景ばかりだったが、遥は一枚一枚を丁寧に確認していた。
「……やっぱり、いいな」
写真の中に残る景色を見つめ、遥は小さく呟いた。
そのとき、部室の扉が開いた。
「遥、まだ残ってたのか」
顔を上げると、そこには晴が立っていた。
「晴? どうしたの?」
「いや、ちょっと通りかかったら、まだ明かりがついてたから。何してるのかなって」
「写真の整理。今日撮ったものを確認してたの」
「へえ。俺も見てもいい?」
「うん、もちろん」
遥がカメラの画面を見せると、晴は隣に立って写真を覗き込んだ。
「おお、すげえ。これ、校庭?」
「そう。雪が降った日の次の日に撮ったの。朝、少しだけ残ってたから」
「全然気づかなかったな」
「晴は朝、バスケの練習で忙しいからね」
「まあ、そうだけど」
晴は次の写真へと目を移した。
窓から差し込む冬の日差し。
机の上に落ちる影。
誰もいない教室。
「こういう普通の景色も良いんだよな」
「うん。何でもない景色って、そのときは何とも思わなくても、あとから見ると懐かしくなることがあるでしょ?」
「……確かにな」
「だから、残しておきたいの。今しか見られない景色だから」
遥は写真を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「いつか見返したときに、こんなこともあったなって思えるように」
「遥らしいな」
「そう?」
「うん。遥って、写真を撮ってるとき、なんか更に先のものを見てるような感じがする」
その言葉に、遥は少しだけ目を丸くした。
「……そうかな」
「そうだよ」
晴は迷いなく頷いた。
「いい顔してる」
「……っ」
遥は思わず視線を逸らした。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「……ありがとう」
小さく返すと、晴はいつもの笑顔を見せた。
「なあ、今度は俺にも撮らせてよ」
「え?」
「いつも遥が撮ってるだろ。たまには俺が撮ってみたい」
「……私を?」
「ああ、せっかくだし」
遥は一瞬、返事に迷った。
自分が写真を撮ることには慣れている。
けれど、晴に撮られるとなると、何だか落ち着かない。
「……変な顔になっても知らないよ?」
「大丈夫だって」
晴はカメラを受け取ると、遥に向けた。
「じゃあ、そこに立ってみて」
「こ、こう?」
遥は少しぎこちなく立った。
「もっと普通でいいって。いつもみたいに笑ってよ」
「いつもみたいにって……」
「ほら、笑って」
晴が楽しそうに言う。
遥は困ったように笑った。
その瞬間、シャッター音が響いた。
「……撮れた」
晴が画面を確認する。
「どれ?」
遥が隣から覗き込むと、そこには自然に笑う自分の姿が映っていた。
「……あ」
「いいじゃん」
晴は満足そうに頷いた。
「今の笑顔、めっちゃ遥らしいから」
遥の頬が、じわりと熱くなる。
「……晴は、そういうことを簡単に言うよね」
「え?」
「……何でもない」
遥は誤魔化すように、もう一度画面を見た。
二人の肩が、そっと触れ合う。
晴は気づいていないのか、そのまま写真を眺めていた。
「またいつか撮ろうな」
「……うん」
「ありがとな」
晴はカメラを返すと、鞄を肩にかけた。
「そろそろ帰るか。もう暗くなるし」
「そうだね」
部室を出る前、遥はもう一度、晴が撮ってくれた写真を見た。
そこに映っているのは、今の自分。
晴の隣で、心から笑っている自分だった。
「……私にとっては、普通じゃないよ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、遥は呟いた。
この時間も、この笑顔も。
遥にとっては、何より大切なものだった。
二月に入ったある日の昼休み。
「よし、今年のバレンタインも楽しみだな!」
蓮が弁当を食べながら、満面の笑みを浮かべた。
「また言ってる」
美咲が呆れたように言った。
「まだ二週間近くあるだろ」
晴が言った。
「いやいや、準備期間も含めてバレンタインだからな」
「何だよ、それ」
「お前も楽しみだろ?」
「チョコは好きだけど」
「そういうことじゃねえんだよ!」
蓮の言葉に、美咲と遥が笑った。
「蓮は本当に楽しそうだね」
「そりゃそうだろ。去年も結構もらったし」
「自慢しないの」
美咲が軽く注意する。
「はいはい」
蓮は悪びれずに笑った。
「でも、晴も今年はすごいんじゃないか? 去年より人気出てるし」
「だから、知らねえって」
「無自覚って怖いなあ」
「うるせえ」
晴は蓮の肩を軽く小突いた。
そんな二人を見ながら、遥はふと考えた。
晴は、どんなお菓子が好きなんだろう。
チョコが好きなのは知っている。
でも、せっかくなら、自分で作ったものを渡したい。
今の晴にとって、自分はまだ友達だ。
だからこそ、重くなりすぎないように。
それでも、少しだけ特別だと伝わるように。
でも、渡していいのかな……
「ねえ、遥」
美咲の声に、遥は顔を上げた。
「今年、チョコ作る?」
「……うん。作ろうかなって思ってる」
「そっか。実は私もなんだ」
美咲は少し照れくさそうに笑った。
「よかったら、一緒に作らない?」
「えっ、いいの?」
「もちろん! 一人で作るより楽しいし」
「……うん。ぜひ」
遥の顔がぱっと明るくなった。
二人でお菓子を作る。
それだけでも、楽しみだった。
けれど、そのお菓子を渡す相手を思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「何作るか、考えないとね」
美咲が言った。
「うん。晴、けっこうグルメだもんね」
「……そうだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を見ていた蓮が、にやりと笑う。
「お、二人とも誰かに渡すのか?」
「蓮には関係ないでしょ」
「冷たっ!」
「蓮、余計なこと言わないの」
晴も苦笑しながら、蓮をたしなめた。
「はいはい。まあ、俺も楽しみにしてるからな!」
「蓮にも作るね」
美咲が言うと、蓮は嬉しそうに顔を輝かせた。
「マジ!? やった!」
「友チョコだけどね」
「それでも十分!」
そのやり取りに、遥も笑った。
晴にも、蓮にも。
そして、美咲にも。
大切な友達に、自分の作ったお菓子を渡したい。
そう思えることが、遥には嬉しかった。
二月十三日。
放課後、遥の家。
キッチンには、チョコレートの甘い香りが広がっていた。
「……これ、結構難しいね」
美咲がボウルの中を覗き込む。
「うん。でも、もう少し混ぜれば大丈夫だと思う」
遥は泡立て器を動かしながら答えた。
二人は今日、明日のバレンタインのお菓子を作るために集まっていた。
晴と蓮に渡すもの。
そして、お互いに渡すもの。
テーブルには材料やラッピング用品が並んでいる。
「美咲は、晴に何を作るの?」
遥が尋ねると、美咲は少しだけ頬を赤くした。
「……カップケーキとマカロンにしようと思ってる」
「わあ、すごい! マカロンって難しくない?」
「ちょっとね。でも、晴に喜んでほしいから」
美咲は照れくさそうに笑った。
「遥は?」
「私は、マフィンとバウムクーヘン作ろうかなって」
「いいね! 晴、絶対喜ぶよ」
「……そうだといいな」
遥は小さく頷いた。
美咲は材料を量りながら、ふと口を開いた。
「ねえ、遥」
「ん?」
「遥は……晴のこと、どう思ってる?」
遥の手が止まった。
聞かれるかもしれないと思っていた。
けれど、いざ尋ねられると、すぐには答えられなかった。
「……大切な人だよ」
「うん」
美咲は優しく頷いた。
「それは、分かってる」
遥は目を伏せた。
本当は、もっと深い気持ちがある。
晴と過ごした時間。
いつかの記憶が頭によぎる。
晴の笑顔も、声も、何気ない癖も。
遥は、そのすべてを覚えている。
けれど、今ここでそれを話すことはできない。
「……でも、まだ自分でも、うまく言葉にできないんだ」
遥は正直に答えた。
「晴と一緒にいると、嬉しいし、楽しい。もっと一緒にいたいって思う」
美咲は黙って聞いていた。
「でも、それがどういう気持ちなのか……まだ、ちゃんと整理できてなくて」
嘘ではなかった。
今の自分の気持ちをどう扱えばいいのか分からない。
美咲は少し考えてから、穏やかに微笑んだ。
「そっか」
「……美咲は?」
遥が尋ねる。
美咲は手元の生地を見つめた。
「私はね……もう、分かってるんだ」
「……うん」
「私、晴のことが好き」
美咲は、はっきりと口にした。
「たぶん、ずっと前から。気づいてなかっただけと思う」
言葉にすると、胸の奥にあった気持ちが、より確かなものになった。
「晴が他の女の子と話してると、ちょっと気になるし。遥と楽しそうにしてると……羨ましくなることもある」
美咲は困ったように笑った。
「こんなこと思うなんて、びっくりしたし、自分が嫌になる時もあるの」
「……美咲」
「でもね、遥と仲が悪くなるのは嫌なんだ」
美咲は顔を上げた。
「遥のこと、友達として大切に思ってるから。だから、晴のことが好きでも、遥と敵同士みたいには絶対になりたくない」
遥は胸が締めつけられるような気持ちになった。
美咲の言葉は、真っ直ぐだった。
晴への想いも。
遥を大切に思う気持ちも。
どちらも本物なのだ。
「……私も、美咲とずっと仲良くしていたい」
遥はそっと微笑んだ。
「美咲と一緒にいる時間、好きだよ」
「……うん。私も」
美咲は嬉しそうに笑った。
二人はそれ以上、無理に答えを求めなかった。
それぞれの気持ちを抱えながらも、友達でいたい。
その想いだけは、同じだった。
「よし! じゃあ、そろそろ仕上げよ!」
美咲が明るく声を上げる。
「うん!」
二人は再び、お菓子作りに取りかかった。
カップケーキにクリームを飾り、マカロンを丁寧に仕上げる。
遥はバウムクーヘンとマフィンを作り、ひとつひとつ形を整えた。
蓮に渡す分も、それぞれ用意する。
美咲は晴のためのお菓子を、特別な箱に詰めた。
遥もまた、晴に渡すお菓子を、丁寧にラッピングした。
同じ相手を想う二人。
けれど、その気持ちは少しずつ違っている。
そして、その違いを知っているのは、今のところ二人だけだった。
「……そういえば」
お菓子を片づけていた遥が、ふと思い出したように言った。
「明日って、美咲の誕生日だよね?」
「あ、うん。そうだよ」
「せっかくだし、明日みんなでお祝いしない?」
「えっ?」
美咲が顔を上げる。
「みんなで?」
「うん。実は、晴と蓮とも話してたの。せっかくの誕生日だし、四人でお祝いしたいなって」
美咲は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「……嬉しいな。ありがとうね」
「うん。あと、どこでする?」
「私の家でいいよ!後でお母さんにも聞いておくね」
その日のうちに、晴と蓮にも連絡をした。
翌日の放課後に美咲の家へ集まることになった。
バレンタイン。
そして、美咲の誕生日。
明日は、きっと楽しい一日になる。
遥はそう思いながら、窓の外に目を向けた。
夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていた。
二月十四日。
朝の教室は、いつもより少しだけ落ち着かない雰囲気に包まれていた。
「神崎くん、これ……よかったら!」
「えっ、俺に?」
蓮は女子生徒からチョコを受け取ると、いつもの調子で笑った。
「ありがとう! 嬉しいよ」
相手の女子生徒は顔を赤くして、友達のもとへ戻っていった。
「……朝からすごいな」
晴が呟く。
「まあな!」
蓮は得意げに笑った。
「晴も、ほら」
「え?」
別の女子生徒が、晴の前に小さな包みを差し出した。
「桐谷くん、これ……バレンタイン。受け取ってくれる?」
「……あ、ありがとう」
晴は少し驚きながらも、丁寧に受け取った。
「わざわざありがとな」
女子生徒は嬉しそうに微笑み、教室を出ていった。
「お前、もっと喜べよ」
蓮が肩を叩く。
「いや、嬉しいけど……びっくりした」
「相変わらずだなあ」
晴は受け取ったチョコを鞄にしまった。
その様子を、少し離れた席から美咲と遥が見ていた。
美咲は胸の奥に、小さな緊張を感じていた。
自分が作ったお菓子を、晴は喜んでくれるだろうか。
遥もまた、ラッピングした包みのことを考えていた。
渡すと決めたのに、いざその日になると、少しだけ怖くなる。
自分の気持ちが、晴にどう受け取られるのか。
それでも、渡したい。
二人はそれぞれ、胸の中でそう思っていた。
昼休み。
四人はいつものように机を寄せて、昼食を食べていた。
「朝からチョコもらってたね、二人とも」
美咲が何気なく言う。
「まあな。俺様は人気者だからな!」
「蓮、調子に乗らないの」
「はいはい」
蓮は笑いながら、弁当を口に運んだ。
「晴ももらってたじゃん」
遥が言うと、晴は少し照れくさそうに頬をかいた。
「……ありがたいよな。わざわざ用意してくれたんだし」
「晴らしい返事」
遥は少し笑いながら言った。
「そうか?」
「うん」
遥が微笑む。
美咲は二人を見て、そっと視線を落とした。
今日、晴に渡す。
そう決めていた。
けれど、いざとなると、どうしても緊張してしまう。
「……そうだ。今日の放課後予定大丈夫だった?」
美咲が尋ねた。
「ああ、もちろん」
晴が答える。
「俺も、大丈夫だぜ!」
蓮も頷いた。
「じゃあ、四時に美咲の家でいいんだよな?」
「うん。待ってるね」
「了解!」
蓮が元気よく返事をした。
遥は少しだけ晴を見つめた。
今日は写真部の活動がある。
そのあと、晴に渡そう。
そう心に決めた。
放課後。
教室には、帰り支度をする生徒たちの声が響いていた。
「晴、俺ちょっと先に行ってるわ」
蓮が鞄を肩にかけた。
「おう。あとでな」
「美咲、誕生日プレゼント楽しみにしとけよ!」
「もう、何それ。自分でハードル上げないでよ」
美咲が笑う。
蓮は手を振りながら、教室を出ていった。
その場には、晴と美咲の二人だけが残った。
「……晴」
「ん?」
美咲は鞄から、小さな箱を取り出した。
淡い色の包装紙に、かわいらしいリボンが結ばれている。
「これ……バレンタイン」
「えっ、俺に?」
「うん。いつもお世話になってるし…」
美咲は少し照れながら、箱を差し出した。
「手作りなんだけど……よかったら、食べてね」
晴は驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「マジか! ありがとう、美咲!」
「……うん」
「これ、全部作ったのか?」
「そうだよ。カップケーキとマカロン」
「すげえな! マカロンって作るの難しいんだろ?」
「ちょっとだけね」
美咲は照れくさそうに笑った。
「晴、甘いものいけるって言ってたから」
「覚えててくれたんだな。ありがとな。大事に食べるよ」
「……うん」
晴の笑顔を見て、美咲の胸が温かくなった。
喜んでくれた。
それだけで、十分嬉しかった。
けれど、もう少しだけ。
ほんの少しだけ、特別な存在になれたら。
そんな気持ちが、心の奥から湧き上がる。
「……美咲?」
「えっ?」
「どうした?なんか顔赤いぞ」
「な、何でもない!」
美咲は慌てて首を振った。
「ちょっと暑いだけ!」
「そうか?」
晴は不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
美咲はほっと息をついた。
本当は、伝えたいことがある。
でも、今はまだ言えない。
「……晴」
「ん?」
「喜んでくれて、よかった」
「もちろん!ありがとな」
晴はもう一度、笑顔で答えた。
美咲はその笑顔を、そっと胸にしまった。
放課後の写真部の活動を終えた遥は、カメラを片づけて部室を出た。
廊下を歩いていると、昇降口の近くに晴の姿が見えた。
「あれ、晴?」
「お、遥。終わったか?」
「うん。待っててくれたの?」
「いや、ちょうど帰るところ。よかったら一緒に帰ろうぜ」
「……うん!」
二人は並んで歩き始めた。
校門を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。
「今日も寒いね」
「だな。まだまだ冬って感じだ」
晴は空を見上げた。
「そういえば、遥。今日も写真撮ってたの?」
「うん。部室の窓から見える夕焼けがきれいだったから」
「へえ。今度見せてよ」
「もちろん」
何気ない会話を交わしながら、二人は駅へ向かう道を歩いた。
遥は鞄の中に手を入れた。
そこには、晴に渡すためのお菓子が入っている。
「……晴」
「ん?」
「これ、あの……」
遥は小さな包みを取り出した。
「バレンタイン。晴に」
晴は足を止めた。
「……俺に?」
「うん。手作りなんだけど……よかったら」
遥は少し緊張しながら、包みを差し出した。
晴はそれを受け取ると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ありがとう、遥!」
「……どういたしまして」
「これ、何が入ってるんだ?」
「バウムクーヘンとマフィン。頑張って作ったんだ」
「すげえ! 遥も作ってくれたんだな」
晴は包みを大切そうに持った。
「美咲からはもう貰ったの?」
「ああ、ちょうどさっき、教室でな」
「そっか」
美咲も渡せててよかった。
「……嬉しい。ありがとな」
その言葉に、遥の胸がきゅっと締めつけられた。
何度も見てきた晴の笑顔。
何気ない贈り物を喜んで、優しい言葉をかけてくれた。
「……晴が喜んでくれたなら、よかった」
遥は微笑んだ。
「大事に食べるよ」
「うん」
晴は少し照れくさそうに笑った。
「なんか、手作りって特別な感じがするな」
遥は思わず顔を上げた。
「……特別?」
「うん。自分のために時間かけて作ってくれたんだろ? そう思うと、嬉しいじゃん」
晴は何気なく言った。
その言葉が、遥の心に深く残った。
「……そっか」
遥は小さく頷いた。
「そう言ってもらえて、嬉しい」
二人は再び歩き始めた。
しばらくして、晴が口を開いた。
「そういえば、今日の四時、美咲の家だったよな」
「うん。誕生日のお祝いだね」
「プレゼント、喜んでくれるといいな」
「……きっと喜ぶよ」
遥はそう答えながら、晴の横顔を見つめた。
晴は美咲のことを大切に思っている。
それは、幼なじみとしての気持ちなのかもしれない。
でも、美咲の想いは、きっとそれだけではない。
遥は、そのことを知っていた。
だからこそ、少しだけ胸が痛む。
それでも。
晴の隣を歩ける今が、嬉しかった。
午後四時頃。
美咲の家に、三人が集まった。
「お邪魔しまーす!」
蓮が元気よく玄関を開ける。
「もう、蓮。インターホン押してよ!」
美咲が笑いながら出迎えた。
「悪い悪い、誕生日会だからテンション上がっちまって」
「何それ」
晴と遥も続いて家に上がった。
リビングには、テーブルの上にケーキが用意されていた。
「わあ……!」
遥が目を輝かせる。
「おいしそう!」
「でしょ? みんなで食べようと思って」
美咲は嬉しそうに笑った。
四人が席につくと、蓮が手を叩いた。
「それじゃあ、主役に一言!」
「えっ、何?」
「美咲、誕生日おめでとう!」
晴と遥、蓮の3人で言った。
「……みんな、ありがとう!」
美咲は少し照れながら、笑顔で答えた。
「こうしてみんなに祝ってもらえるの、嬉しいな」
「じゃあ、早速ケーキ食べようぜ!」
蓮が待ちきれない様子で言う。
「じゃあ、もう切っちゃうね」
美咲はケーキを切り分けた。
四人でケーキを食べながら、学校のことやバレンタインのことを話す。
蓮は朝にもらったチョコの話を面白おかしく語り、晴は少し困ったように笑っていた。
遥は二人の話を聞きながら、美咲の笑顔を見つめた。
今日の美咲は、いつもよりずっと嬉しそうだった。
大切な友達の誕生日を、みんなで祝える。
そのことが、遥にも嬉しかった。
ケーキを食べ終えると、プレゼントを渡す時間になった。
「じゃあ、まず俺から!」
蓮が紙袋を差し出した。
「美咲、誕生日おめでとう。これ、よかったら使ってくれ」
「ありがとう、蓮!」
美咲が袋を開けると、中にはおしゃれなベレー帽が入っていた。
「わあ、かわいい!」
「だろ?美咲に似合いそうだと思って」
「嬉しい。大切に使うね」
美咲はベレー帽を両手で持ち、嬉しそうに微笑んだ。
続いて、遥が小さな包みを差し出した。
「美咲、私からも。誕生日おめでとう」
「ありがとう、遥!」
美咲が包みを開けると、小さなフォトアルバムが入っていた。
ページをめくると、そこには四人で過ごした日々の写真が並んでいた。
体育祭で笑っている写真。
文化祭の準備中に撮った写真。
雪の中で遊んだときの写真。
何気ない昼休みの一枚まで。
「……これ、全部遥が撮った写真?」
「うん。今まで撮った写真をまとめてみたの」
美咲はページをめくりながら、目を細めた。
「……すごい!ありがとう!」
「本当?よかった」
「うん。私たち、こんなにたくさん一緒にいたんだね」
「そうだね」
遥は優しく微笑んだ。
「これからも、たくさん撮ろうね」
「……うん!」
美咲はアルバムを大切そうに抱きしめた。
最後に、晴が立ち上がった。
「じゃあ、俺からも」
「……晴?」
晴は小さな紙袋を差し出した。
「誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
「ありがとう……!」
美咲は袋を受け取り、中を覗いた。
そこには、淡い色合いのかわいらしいポーチが入っていた。
「……えっ」
美咲は思わず声を漏らした。
見覚えがあった。
以前、晴と駅前を歩いていたとき。
店のショーウィンドウに飾られていたポーチを、何となく気に入って眺めていた。
ほんの少しの間だった。
自分でも、すぐに忘れてしまうようなことだった。
「……これって」
「この前、遊んだ時駅前で見てただろ?」
晴はいつも通りの調子で笑った。
「なんか欲しそうに見てたからさ。それに美咲に似合いそうだなって思って」
美咲はポーチを見つめた。
「……覚えててくれたんだ」
「ああ。違った? もしかして、もう持ってた?」
「ううん! 違うよ!」
美咲は慌てて首を振った。
「そうじゃなくて……」
胸がいっぱいだった。
自分が何気なく見ていたものを、晴は覚えていてくれた。
自分が口にしたわけでもないのに。
「……ありがとう、晴」
美咲は顔を上げて、精いっぱい笑った。
「すごく嬉しい。大切にするね」
「おう! 気に入ってくれたならよかったぜ」
晴は満足そうに頷いた。
その笑顔は、いつもと何も変わらない。
美咲にとっては、忘れられないほど嬉しいことなのに。
晴にとっては、ただ幼なじみが喜んでくれたことが嬉しいだけなのかもしれない。
それでも、美咲はポーチをそっと抱きしめた。
「……本当に、ありがとう」
「何回言うんだよ」
晴が笑う。
「だって、嬉しいんだもん」
美咲も笑った。
その笑顔の奥にある気持ちに、晴はまだ気づいていなかった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
夕方。
四人は美咲の家を出て、駅へ向かった。
「いやー、ケーキうまかったな!」
蓮が満足そうにお腹をさする。
「蓮、食べすぎだよ」
「誕生日会くらい、いいだろ?」
「まあ、そうだけど」
美咲が笑う。
駅に着くと、蓮が手を振った。
「じゃあ、俺こっちだから。また明日な!」
「うん。また明日」
美咲も反対方向へ歩き出す。
「じゃあね、遥。晴も!」
「またね、二人とも」
遥が手を振った。
二人の姿が見えなくなると、晴が遥のほうを向いた。
「遥、家まで送ってくよ」
「えっ、いいの?」
「もちろん。さすがにもう暗いしな」
「……ありがとう」
二人は並んで歩き始めた。
夕暮れの空には、薄いオレンジ色が残っていた。
「今日、楽しかったな」
晴が言った。
「うん。美咲、すごく嬉しそうだったね」
「ああ。プレゼントも喜んでくれてよかった」
「……晴、ちゃんと覚えてたんだね」
「ん? 何を?」
「美咲が前に見てたポーチ」
「ああ、まあ、たまたま覚えてただけだよ」
晴は何でもないように笑った。
「美咲には、いつも世話になってるからな」
「……そっか」
遥は小さく頷いた。
晴らしいな、と思った。
誰かが何気なく口にしたことを覚えていて。
誰よりも美咲のことを気にかけている。
そんな晴だからこそ、遥は好きになった。
そして、そんな晴だからこそ、失いたくなかった。
「……晴」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「え? 何が?」
「一緒に帰ってくれて」
「なんだ、そんなことか」
晴は笑った。
「気にすんなって。また一緒に帰ろうぜ」
その言葉に、遥は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……うん。約束ね」
「ああ、約束」
晴は迷いなく頷いた。
二人はそのまま、ゆっくりと歩き続けた。
何気ない一日。
バレンタインにお菓子を渡して、友達の誕生日を祝って、一緒に帰る。
そんな普通の時間が、遥にとっては何より大切だった。
晴の隣を歩けること。
晴が笑ってくれること。
また一緒に帰ろうと、約束してくれること。
そのひとつひとつが、胸に刻まれていく。
「……晴といる時間って、やっぱり好きだな」
遥は心の中で呟いた。
けれど、その想いを言葉にすることはなかった。
今はまだ、この気持ちを隠しておかなければならない。
晴の隣を歩きながら、遥はそっと横顔を見つめた。
いつか、この想いを伝えられる日が来るのだろうか。
その答えを、今の遥は知らない。
ただ、願っていた。
この時間が、少しでも長く続きますように。
そして、いつか。
晴と一緒に歩く未来を、どうか迎えられますように。
冬の夕暮れの中、そっと想った。




