【ぬらりひょん】
「パパー! トイレまだー!?」
「体操服どこ行ったの!?」
「アキー! 起きたー!」
朝。
慌ただしい声が家中を飛び交う。
キッチンでは母のミフユが弁当を詰めていた。
卵焼き。
ウインナー。
冷凍食品。
手を止める暇もない。
トイレに籠る父のナツオ。
高校生の娘、ハルは洗面所を占領している。
小学五年生の息子、アキは二階で寝たままだ。
いつもの朝。
いつもの騒がしさ。
ガチャ。
玄関でもない。
廊下でもない。
食卓へ続く扉が開いた。
「おはよ」
知らない老人が入ってきた。
禿げ上がった頭。
細い身体。
和服姿。
まるで、昔から住んでいるかのような顔で部屋に入る。
だが、ミフユは振り向きもしない。
「おはようございます」
弁当を詰めながら答える。
老人は当然のように、食卓の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
手を合わせる。
食卓に並んでいた朝食へ箸を伸ばした。
ハムエッグ。
サラダ。
トースト。
何の疑問もなく食べ始める。
ガチャ。
トイレの扉が開いた。
新聞を片手にナツオが出てくる。
眠そうな顔のまま椅子に座った。
老人が顔を向ける。
「おはよ」
ナツオは新聞を広げながらパンをかじった。
「おはようございます」
自然だった。
何もおかしくない。
「アキ起きた!?」
ミフユが二階へ向かって叫ぶ。
返事はない。
「ったくもう……」
老人は黙々と朝食を食べ続ける。
やがて、箸を置いた。
「ごちそうさん」
椅子から降りると、居間のソファーへ移動する。
テレビを点けた。
ニュース番組が流れ始める。
その頃になって、ようやくハルが部屋に入る。
「皆おはよ~」
スマホを取り出すハル。
「おはよ」
コーヒーと茶を淹れるミフユ。
「おはよ」
新聞を読むナツオ。
「おはよ」
テレビを見る老人。
そこに居る全員が挨拶を交わす。
ハルは席に座ると、スマホを見ながら朝食を食べ始めた。
ミフユは、茶を居間のテーブルへ置いた。
「ありがとう」
老人が礼を言う。
「はいはい」
ミフユは気にも留めない。
そのまま、天井を見上げた。
「アキは?」
「まだ寝てる~」
ハルがスマホを触りながら答える。
「もうっ!」
ミフユは階段を駆け上がった。
ソファーでは、老人がのんびりテレビを見ている。
湯気の立つ湯呑みを手に取り、一口すすった。
「午後から雨が降るぞ」
その言葉を聞いたナツオがテレビを見る。
「そうですか。午後から雨だってさ、ハル」
コーヒーを飲みながら言う。
「傘を忘れるでないぞ」
老人が忠告する。
「はーい」
ハルが適当に返事をした。
ドタドタと階段を下りる音。
ミフユがアキの腕を引っ張りながら降りてくる。
「いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」
寝癖だらけのアキが目を擦る。
ふらふらと食卓へ向かった。
そして椅子に座る。
しばらく沈黙。
アキが首を傾げた。
「僕のパンは?」
目の前には空の皿。
綺麗に食べ終えられた食器だけが置かれている。
「え?」
ミフユが固まった。
「さっき……食べてなかった……か?」
ナツオも顔を向ける。
訝しげな顔。
「何?」
ハルもスマホから視線を外した。
「僕の朝ご飯」
アキが不満そうに言う。
「そこに……置いてあったでしょ?」
ミフユの確認する問い。
誰も答えない。
食卓には、ミフユが用意した家族三人分の食器しかなかった。
いつものように用意した。
夫。
娘。
息子の分。
なのに。
誰かが食べた。
確かに食べた。
空の皿だけが置かれている。
ハムエッグも。
サラダも。
トーストも。
誰が?
アキ以外の視線が、ゆっくりと居間へ向く。
釣られてアキも見る。
ソファーには誰もいなかった。
テレビだけが流れている。
湯気の立つ湯呑み。
ついさっきまで誰かが座っていたように、ソファーがわずかに沈んでいた。
テレビのニュースキャスターが微笑む。
『本日は、午後から広い範囲で雨になる見込みです』
『次のニュースです』
誰も喋らない。
静まり返った居間。
カタン。
テーブルの上の湯呑みが、ひとりでに小さく揺れた。
まるで――誰かが最後の一口を飲んだように。
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