江戸の日記
或る日、那津が寺の物置を掃除していると、古い日記が出てきた。
年老いて仏門に入った男が残したものだ。
自分が関わった事件のことがいろいろと書いてあるが、名前などは伏せられていた。
かつては、同心だったらしいその男の記述の中には、何故か、事件とは関係ない話もあった。
姑となる女に身請けされ、何処かで子供を産んだ遊女の話。
強欲な楼主にしては、破格の金額での身請けだったそうだ。
もしかして、これは咲夜か? と那津は思った。
あの男の子供を、何処かで産んだのだろうか。
今となっては、わからない。
そこに、もう一人、遊女の話が載っていた。
当時、吉原で評判だったその女は、まるで何かの義務のように、遊女で居たいからと言って、どんな身請け話も受けず、引退後も妓楼に残り、番頭新造となったあと、吉原を出た。
風の便りに聞いたところによると、町の小さな道具屋の女将になったという。
これが桧山かはわからないが。
でもまあ、あいつ、あの手のきつい性格の女が好きだと思ってたんだよな、と思った。
今もだし、といつの間にか人んちの庭先に現れて、談笑している、いつぞやの警官を見る。
うちに訪ねてきている明野と楽しげに話していた。
それは人妻だ……。
現代でまで問題を起こさないで欲しいもんだが、と思いながら、二人の姿を眺めていた。
あのとき、自分に咲夜を救えと言ったのは、桧山ではなかった。
桧山は今、生きていて、いつか、この男か、長太郎の前に現れるのかもしないし。
まったく別の人生を歩んでいるのかもしれない。
ナマエ ヲ 呼ンデ
咲夜ヲ 助ケテ
自分にずっとそう呼びかけてきていた霊は、恐らく、周五郎だったのだろう。
まだ魂に深い恨みを宿したままのあの美容師が咲夜と接触したことを知り、自分に警戒するよう促していたのだ。
周五郎はまだ生まれ変わることもせず、咲夜の周りを漂っているのだろうか。
彼女を守るために――。
「見てー、焼けた焼けた」
咲夜が自分で焼いた菓子を手に、縁側に出てきた。
気に入った男が側に居て、ちやほやしてくれるので、今は機嫌のいい明野がそれを食べ、咲夜の腕前を褒めちぎっている。
相変わらず、現金な女だと苦笑した。
だが、自分はその甘い菓子の匂いを嗅ぎながら、あの密閉された隠れ家に漂っていた強い香の香りを思い出していた。
咲夜は狭い場所を嫌い、強い匂いを嫌う。
以前は、それが何故なのか、わからないと言っていた。
あれが本当に自分たちの前世なのか。
そして、前世が何処まで、今に影響を及ぼすものなのかわからない。
それでも、いつか訪れる来世のためにも、少しはまともな今を生きたい。
そう那津は思っていた。
了




