その手の平に残ったものは
眼を開いた智也は、自分の目を疑った。そこはいつもの石畳の世界ではなかった。ただただ暗い世界。何の明かりもないただの闇。智也はいたずらに足を進める。
「典子。ラスティ。どこだよ…!」
その声に応えるものは居ない。
何分歩いただろうか。ずっと遠くにうっすらと明かりが見える。ラスティ。典子。自然と足が早まる。
しかし、明かりの元に居たのはイルと「智也の本体」だった。智也が二人に走り寄るのを待って、イルが口を開く。
「イマジン。だいぶ予定とは違ってしまいましたが、目的は達成できました。ご苦労様です。もう、お眠りなさい。」
「…典子とラスティはどうした?」
「典子、という女性には元の世界に帰ってもらいました。」
イルの事務的なその口調に、却って少しほっとする智也。しかし、イルから差し出された手の平に乗っている物を見て智也の表情は一変する。
イルの手の平には、ラスティのピアスが乗っているのである。智也はそれを奪い取り、二人を睨み付ける。
「ラスティ…。お前ら…!」
イルは口調を変えずに答える。
「ラスティは、元々あなたのイメージで作られた人形です。あなたが生きている限り、死んではいませんよ。少々邪魔だったので眠って頂いてはいますが。」
智也はイルの言葉を遮るようにイメージをはじめる。強力な力。目の前の二人を消し飛ばしてしまえるほどの大きな力。雷。いや、違う。もっと大きく吹き飛ばす力を。竜巻。竜巻を思い浮かべた時、それは現実のものとなり、轟音を上げながら二人に迫る。しかし。
「…無駄だ。お前の考えていることは分かる。」
智也の本体が軽く手をかざすと、竜巻は見る見る小さくなり、数秒後には何も無かったかのように消え去ってしまった。
「イマジン。可愛そうな子。本来持つはずのない自我などを持ってしまったばかりに苦しむことになる。あなたで最後です。大人しく眠りを受け入れなさい。」
「俺がお前の言う「眠り」を受け入れたら、俺の経験はどうなる?」
「どうにもなりませんよ。あなたの自我自体が本来おかしなものなのですから。それごと消去してしまいます。」
やはり事務的な口調で言い切るイル。
「…俺の考えが分かると言ったな。」
智也は、ごく静かにそう口にし、イメージを始める。自分の体が風化していくイメージ。塵となり、誰にも復元できないものとしてこの世界に飛散するイメージ。
「止せ!」
智也の本体が飛び出し、消滅する寸前の智也を辛うじて頭から抱え込んだ。智也の本体に抱え込まれた部分は、まだこの世界に身を留めている。
しかし、左腕、腰から下は既に塵となって消滅していた。顔も左半分はむき出しの白骨となっている。頭蓋を剥き出しにした左の眼窩で本体を睨み付けながら言う。
「そうだよな、ここまで「眠り」に拘るんだ。あんたにとっちゃ俺は死なれる訳には行かないもんな。」
「…なぜそこまでする?」
智也の本体の問いには答えず、智也は続ける。
「それよりこうくっついてて大丈夫か?あんたにも影響が出るぜ?」
抱え込んでいる智也の本体の両腕の表皮が剥がれ始めている。本体は智也を放し、慌てて飛び退く。
智也の半身は、この暗黒の空間に放り出され、どさ、と小さな音を立てた。そして、残っていた身体の全てが風化し、ラスティのピアスだけが残った。それを智也の本体が拾う。
「いかが致しますか、智也様。イマジンは塵になってしまいましたが…」
「いや、このままでいい。あいつが居なくなったところで、そこまで俺自身に影響は出ないだろうよ。」何事もなかったように智也の本体は言う。
「それより、お前ももう休め。ご苦労だったな。」
「勿体ないお言葉を…。」イルは闇の中に溶け込むように消えていった。
イルの気配が完全に消えるのを待ってから、智也の本体は口を開いた。
「…どういうつもりだ。そんなにこの記憶が大事なのか?」
「ああ。否定してばっかりのあんた…いや、ちょっと前の俺には分からないかもしれないけどな。」
薄れゆく意識の中で、智也は自身の塵になった体を智也の本体の中に送り込んでいたのだった。それも、典子とラスティの記憶だけを残せるような強いイメージと共に。
「やはり俺には良く分からんな…。お前を取り込んだことで分かるようになるのか?」
智也の本体は、手の平にあるラスティのピアスを見ながらそう口にすると、誰もいなくなった暗黒の世界で静かに目を閉じた。
一か月後。ロビンハイツ304号室。メールの着信音に目を覚ます。メールは典子からのものだった。あれから、少しずつではあるが、智也と典子との間に交流が戻ってきているのだ。時計を見ると、6時30分。朝食の支度にかかる。フライパンでウインナーを炒めていると、大きな欠伸がでる。
オーブントースターから、チン、とトーストが焼き上がる音がする。目玉焼き、ウインナー、トーストを盛り付けて気が付いた。また、2人分作ってしまったのだ。またやっちまったか、と小さくつぶやくと、1人分の食事をリビングの戸棚の上に備える。そこには、大き目の薄紫色の宝石が埋め込まれたピアスが置かれていた。
最後までお付き合いいただいた方、どうもありがとうございました。色々勉強になりました。