第8話 自己犠牲は愛ですか
アルノーとの夕食は、拍子抜けするほど普通だった。
仕事の話はしない。
そう決めたら、かえって二人ともしばらく黙った。
七年間も夫婦だったのに。
仕事以外で何を話していたのか、思い出せなかった。
「……この店、まだあったんだな」
アルノーが言った。
「結婚前に一度来ましたね」
「君が魚料理を頼んで、俺の肉料理を半分食べた」
「あなたが勝手に交換したんでしょう」
「そうだったか?」
「そうです」
少し笑った。
それだけだった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
昔みたいに戻ったわけではない。
むしろ逆だ。
昔より慎重に、相手の顔を見て話している。
帰り際、アルノーは私を家まで送るとは言わなかった。
「送ろうか」
と聞いた。
私は少し考えて、
「今日は大丈夫です」
と答えた。
「分かった」
それだけ。
断っても、不機嫌にならない。
断る方も、罪悪感を持たない。
こんな簡単なことを、どうして七年間できなかったのだろう。
翌朝。
王立産院へ着くと、マルガレータ先生が研究室の前で待っていた。
「話があります」
声が硬い。
嫌な予感がした。
◇
机の上には、私たちが作った新しい共有治癒の記録が置かれていた。
昨日、四人の治癒師で王女殿下の負荷を分散した。
成功した。
完全ではない。
でも、夫婦でなくても治療できることは証明した。
先生は記録を指で叩いた。
「この研究は中止して」
「理由は?」
「危険だからよ」
「婚姻紋を使う方が安全だと?」
「現時点では」
「本人に無断で国の負荷を流す仕組みより?」
先生の顔が強張った。
「エリサ」
「私はもう、その話を知っています」
地下の帳簿。
見捨てられてきた赤子。
治癒師夫婦の婚姻紋。
全部。
「王女殿下が回復したら、記録を公表します」
「駄目よ」
即答だった。
「なぜです」
「王家が何十年も、祝福の負荷を貧民や孤児へ流していたと公になったらどうなると思う?」
「責任を問われるでしょうね」
「それだけじゃない」
先生は机に両手をついた。
「母子祝福そのものへの信頼が崩れる。治癒院も神殿も疑われる。怖がって祝福を拒む母親が出る。助かるはずだった命まで失われるかもしれない」
「だから隠すんですか」
「守るためよ」
「誰を?」
先生は黙った。
私はそれ以上、声を強くしなかった。
たぶん怒鳴っても、この人には届かない。
マルガレータ先生は、人を救いたくて治癒師になった人だ。
だからこそ厄介だった。
「先生は、どうしてそこまで」
言いかけると、先生の目が揺れた。
初めてだった。
その人が、院長ではなく一人の疲れた女性に見えた。
「夫がいたの」
先生が言った。
「治癒師でしたか」
「ええ」
三十年前。
北部で大規模な呪災が起きた。
治癒師が足りず、負荷分散の術も今より未熟だった。
マルガレータ先生自身も呪いを受け、動けなくなった。
その時。
夫が婚姻紋を全開にした。
妻の負荷。
患者たちの負荷。
全部、自分一人に引き受けた。
「私が目を覚ました時には、あの人は死んでいた」
先生の声は静かだった。
「最後に何と?」
私は聞いた。
先生は少し笑った。
「『君が生きるなら、それでいい』」
胸が痛んだ。
それが愛ではなかったなんて、言えない。
たぶん。
本当に愛していたのだろう。
「だから私は、あの人の死を無駄にしたくなかった」
先生は続けた。
「誰かを愛するなら、その人の痛みを引き受ける。それができるのが婚姻紋でしょう」
私は自分の左手首を見る。
もう紋はない。
「愛だったと思います」
先生が顔を上げる。
「先生のご主人がしたことは、きっと愛だった」
「なら」
「でも」
私は首を振った。
「自分で選んだ愛と、他人に求める犠牲は同じではありません」
先生の目が細くなる。
「綺麗事よ」
「そうかもしれません」
「誰も傷つかずに全員を救うなんて無理なの」
「知っています」
治癒師だから。
救えなかった患者もいる。
切り捨てなければならなかったこともある。
「でも、だから最初から『誰か一人が犠牲になる仕組み』を正しいことにはしたくないんです」
「あなたは甘いわ」
「先生は、慣れすぎたんです」
空気が止まった。
言ってしまった。
でも、取り消さなかった。
先生も怒鳴らなかった。
ただ、とても疲れた顔で私を見た。
その時。
床が揺れた。
小さく。
一度。
次に、もっと強く。
棚の瓶が鳴る。
廊下で誰かが叫んだ。
「魔力網が!」
私は扉を開けた。
産院中の魔法灯が明滅している。
一つ。
二つ。
次々と赤い警告色へ変わっていく。
ミレーナが走ってきた。
「エリサ先生!」
「何が起きたの」
「国内の母子祝福網で逆流です!」
血の気が引いた。
「王女殿下は?」
「急変しました!」
走る。
処置室へ。
ここ数週間、私たちは危険な補助経路を順に閉じていた。その分、主魔力槽へかかる負担は増えている。計算上は持つはずだった。
けれど王女殿下の強い魔力が、祝福網の中心として一気に負荷を引き寄せたらしい。
王女殿下の全身に黒紋が浮かんでいた。
今までとは違う。
黒い線が脈打っている。
まるで王女の小さな身体が、王都中の何かと繋がっているみたいに。
アルノーがすでにいた。
「エリサ!」
「状況は?」
「王女だけじゃない」
彼が差し出した通信紙には、各地の治癒院から報告が並んでいた。
新生児の発熱。
妊婦の魔力低下。
黒斑。
呼吸不全。
一つや二つではない。
「祝福網全体が王女殿下へ引かれてる」
アルノーが言う。
「この子の魔力が強すぎて、網の中心になってるんだ」
「このままだと?」
マルガレータ先生が後ろから答えた。
「夜明けまでに負荷が限界を超える」
「王女殿下が?」
「違うわ」
先生の声が震えた。
「今夜、この国で母子祝福を受けている全員が」
息が止まる。
時間はない。
新しい共有治癒は、まだ実験段階。
王女一人ならともかく、祝福網全体を受けるには足りない。
アルノーが私を見る。
先生も私を見る。
嫌な予感がした。
「一つだけ」
マルガレータ先生が言う。
「今すぐ使える方法があります」
聞きたくなかった。
でも聞かなければならない。
「何です」
先生は私とアルノーの左手首を見た。
紋の消えた場所。
「婚姻紋なら、王女殿下と祝福網の負荷を一時的に二人へ逃がせる」
アルノーがすぐ計算板を見た。
「網全体を二人で?」
「夜明けまでの時間を稼ぐだけよ」
「負荷は安全域を何倍も超える」
「分かっているわ」
先生は私たちを見た。
「それでも、二人で数千人を守れるなら」
言いながら、答えが分かった。
「再婚しなさい」
部屋中が静まった。
「今すぐ婚姻紋を結び直して、二人で受けるの。少なくとも新しい術式を試す時間は稼げる」
アルノーが私を見る。
私も彼を見る。
昨日。
私はこの人と食事をした。
楽しかった。
もう一度、好きになるかもしれないと思った。
だからこそ。
胸の奥が冷たくなった。
王女を救うため。国中の母子を救うため。
私たちが、もう一度夫婦になり、その身体を時間稼ぎに差し出す。
先生にとっては、きっと合理的な選択なのだ。
けれど私は、左手首の何もない場所を見た。
この方法を選んだら、私たちは結局また「夫婦だから差し出せる二人」に戻る。
しかも、それで朝の先まで救えるわけではない。




