☆十二月【声なき女子】
【玉崎愛】編
いつものように太史くんの帰りを待っていたら、太史くんが初めてお友だちを連れて帰ってきた。しかもいっぱい!
施設にいた時は、毎月お誕生日会をすることが決まってたから、小さい子たちもみんな集まってくれたけど、この家に住むようになってからは、愛と太史くんの二人だけ。太史くんは人が多いところが好きじゃないから、呼びたくても呼べなかった。
それなのに、今日はお泊り会も開催! 空き部屋にみんなが集まってくれた!
太史くん、大丈夫かな……すごく嫌そうな顔をしてたのは、照れてただけ……?
「この家、ホントに大きいわよね。大人が何人も一緒に入れるお風呂なんて、そうそうないわよ」
いつもと違って眼鏡をかけたエミリーちゃんが、乾いたキラキラの髪を揺らしながら洗面所から戻ってきた。はじめは外国の人かと思ってびっくりしたけど、日本で育ったハーフの人だった。愛の髪を洗ってくれた、いい匂いがする人!
「土地とか安いし空き地も多いし、建てやすかったんじゃない」
絶対に泊まらないって言ってたねねちゃんは、一度帰ったけど、お泊りセットを持ってまた戻ってきてくれた! 愛のお布団の上でゴロゴロしてるし、リラックスしてくれてるみたい。抱きついたら嫌な顔をされたけど、ねねちゃんのそういうところも大好き!
「もったいないわね。せっかくおじい様が建ててくれたのに……」
ずっと前にどこかで見たことがあると思ってたけど、去年にはもうこの島に来てたんだね! 赤ちゃんを連れて来るって言ったのは冗談じゃなかった! 高校生で子育てなんてすごいよ! 亜里紗ママ!
「都会がいいんだろ。……あたいは、テレビと布団があれば十分だけどね」
刑事ドラマを夢中で観てるバチ子ちゃんは、目が怖くて近寄りがたいと思ってたけど、大好きな俳優さんに釘づけになっちゃう乙女! でも、あぐらはおじさんみたいだよ~……。
みんな、すごく優しい。愛が話せないってわかっても、普通に接してくれる。昨日までは学校でも全然話したことなかったのに、前からお友だちだったみたいに、いっぱい話しかけてくれる!
「ちょっと聞いてよ~! 陽平ちゃんの隣に布団を敷こうとしたら、追い出されちゃった!」
テカテカでツルツルのパジャマを着たヤバ美ちゃんが、お布団を抱えて入ってきた。……どうして太史くんたちのほうに行ってたんだろ……。
「下心が見え見えなのよ。さすがの和智田も受け入れられなかったのね」
「何よ! まるでアタシがバイ菌みたいじゃない! このヨウナシ女!」
「誰がヨウナシよ!」
洋ナシ? 用ナシ?
「どうせアタシはミカンの皮よ! いえ、ここにいる半分はペタンコリーだわ! 半分はアナタの敵ね! ――ねっ、チビっこちゃんたち!」
「どうでもいい……」
「……?」
愛もチビっこに入ってるよね……。でも、何を求められたのかわかんない……。
「人は見た目じゃないでしょう? ヤバ美だって、あの時のかっこいい優しさを全面に出せば、チャンスはあるんじゃないかしら」
「姐さん、その話はダメ……」
ヤバ美ちゃんは遠くを見つめてカラカラと笑った。
「高校生なんてガキだろ~。観ろよ、この矢部寛のかっこよさを。こんなに渋くてダンディーなのに、コメディードラマにも引っ張りだこのお茶目様! まさに魅力あふれる大人の男さ!」
「バチ子、あんたっておじさん好きだったのね……」
「ウチはもうちょっと枯れてるほうが──」
「あんたはただのおじいちゃんっ子!」
エミリーちゃんは腰に手を当てて溜め息をついた。
おじいちゃんは〝かっこいい〟っていうより〝可愛い〟かな? タヌキみたい。
「男は慎重に選ばなきゃダメよ。とりあえず恋がしたいからって、すぐ目の前にあるものに手を伸ばすなんて危険だわ。視野を広げて、ゆっくり時間をかけて見定めなさい」
「それを姐さんに言われたらものすごく身に染みます……」
なんでだろう……少しだけ空気が冷たくなった。
変なこと言ったのかな――座布団に座ってた亜里紗ママをそっと見ると、優しそうな微笑みを返してくれた。
「あなたは、そんな心配いらなさそうね」
「太史ちゃんはきっと、ロールキャベツ男子ね。一見淡白だけど、仮面をひっぺ剥がすと猛獣に♪ 将来も有望だし、優良物件だわ。逃がしちゃダメよ」
えっ、お料理なの……? お家なの……? それとも本当にワンちゃんなの……?
「浮気とかしなさそうよね。ちょっと堅すぎる気もするけど、チャラいよりは断然マシだわ」
そう言って、エミリーちゃんはミニテーブルをはさんだ向かい側に座った。
目線が同じ高さになって、ふと気がつく。
エミリーちゃんの右肩に、緑色の何かがついてる……。あれは……。
「エミリー、肩にカマキリがついてる」
「えっ!? ──キャアァァァァァァァッ!!」
ねねちゃんが寝転んだまま指を差すと、エミリーちゃんは悲鳴を上げて固まった。
「誰か取ってぇ!! ね、姐さん!!」
「あ、あかりが心配だから……」
「ヤバ美!!」
「か弱い乙女にそんなことできないわ♪」
「バチ子!!」
「今いいところだから黙ってな!」
「おねね!!」
「面白いからもうちょっと見てる」
「ニコ!!」
「んぅ……」
カマキリには噛まれたことがあるから……ちょっと怖い……。
「あたしを見捨てないでぇぇぇ!!」
「――今の悲鳴は何!? みんな大丈夫!?」
ダダダッと階段を降りてくる音が聞こえて、襖が開くと同時に俺っちくんが飛び込んできた。
エミリーちゃんは立ち上がって振り返る。
「スケボ!! この虫取ってぇ!! 早く!!」
「わあぁぁぁぁぁぁぁっ!! 虫はだめぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!!」
見ると同時に髪を逆立てて、俺っちくんは転びそうになりながら出ていった。
「…………」
廊下からひんやりとした空気が流れ込んできて、残像を見つめるみんなの視線は白かった。
「なんだなんだ、祭りでもやってんのか?」
「ワーッショイ! ワーッショイ!」
そこにオスヤマくんとリーダーが現れる。リーダーはいつでも楽しそうだね!
「オスヤマ!! 和智田!! どっちでもいいからこの虫取って!! お願い!!」
「虫? 虫って……」
肩でおとなしく鎌のお手入れをしてるカマキリを見て、オスヤマくんは鼻で笑った。
「ペットか?」
「相棒ゲットだぜ!」
「ぶっ飛ばすわよ!!」
暴力はダメだよ!
「でもお前、山に登った時は平気そうじゃなかったか?」
「体にくっつかれるのは嫌なの!!」
エミリーちゃんが体を震わせると、カマキリは驚いたようにてけてけと歩き始めた。
「イヤアァァァァァァァァァーー!!」
「落ち着けエミリー! 落ちたところを踏みつけちまうぜ!」
「ヤなこと言わないでっ!!」
リーダーの言葉でジタバタしていた足を止めるエミリーちゃん。
鎖骨の下辺りでうろうろしていたカマキリも、お山の上で止まって再び鎌を研ぎ始めた。
オスヤマくんとリーダーは視線を逸らせる。
「その位置はちょっと……」
「俺様も自粛するぜ……」
「虫を取るだけでしょ!!」
愛でもちょっと恥ずかしいよ、お胸をずっと見てるのは……。
エミリーちゃんが必死にお願いしても、二人は目を合わせないように顔を背け続けた。
すると、廊下から足音が聞こえてきた。いつもより大きい音だけど、太史くんだ。
「おい、いつまで騒いでいるんだ!」
愛がカマキリを指差すと、太史くんは溜め息をついてエミリーちゃんに詰め寄った。
「たかが虫ごときで……」
躊躇いなく腕を伸ばして、つまみ取る。
エミリーちゃんは驚いたように固まって、でもすぐに泣きそうな顔になった。
「た、立花……!! あんた、なんてイイ奴なの……!!」
そっぽを向いていたオスヤマくんとリーダーは大きな口を開ける。
「な、なぜだ!? オレたちが紳士的に諦めたというのに、なぜ堂々と胸を触りにいった奴が褒められる!?」
「触っていない!」
オスヤマくんを睨みつけた太史くんは、震え出した手を勢いよく振って、
「そんなに取りたいのなら取ればいいだろ!」
カマキリをエミリーちゃんに投げ返した。
「イヤァァァァァァァッ!!」
俺っちくん並みの速さで逃げたエミリーちゃんは、そのまま部屋から出て行った。
パタパタと羽を広げながら床に落ちたカマキリは、体を前後に揺らしながら目の前のヤバ美ちゃんに向かってゆっくりと前進していく。
「いや~ん! こっちに来ないでぇ~!」
「お前が来るな!」
ヤバ美ちゃんはリーダーに飛びつこうとして、リーダーはオスヤマくんを盾にしようとして、オスヤマくんはねねちゃんにつまずいて、ねねちゃんは蹴られた後頭部を手で押さえて、死んだように動かなくなった。
「あのカマでお肌が傷つけられちゃうぅぅぅ~!」
「お前もカマだろうがー!!」
「やめろ和智田ぁぁぁぁぁ!!」
盾をもろともせず、ヤバ美ちゃんは男の子二人を床に押し倒した。
亜里紗ママはいつの間にかいなくなってて、テレビの中からは銃声が聞こえてきて、メインキャストのおじさんは倒れた。
「ひろしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
カマキリは、バチ子ちゃんの頭の上に避難していた……。
バタバタした一日だったけど、お友だちがいっぱいできた。
みんな仲良くしてくれてすごく嬉しいのに、お話ができないのはやっぱり悲しい。太史くんは身振り手振りでだいたいのことを察してくれるけど、みんなはそうはいかない。
太史くんが言ってたっけ。話せなくて悲しい思いをするのなら、はじめから仲良くしなければいいって……。
でも、愛は違うんだ。みんなのお話を聞いてるだけでも楽しいし、愛が言いたいことが伝わってくれると嬉しいし、愛のことをわかってくれようとしてくれてるんだって思えるから。だから、声が出ないままでも別にいいって思う時もたくさんあった。これから先のことを考えたら、話せるようになったほうがいいのかもしれないけど、今のままでも十分幸せだし、みんなと一緒にいられるのなら、それだけで十分だった。
だけど、楽しくお喋りをしてる人たちを見てたら、愛もその輪の中に入りたいなって思う時もいっぱいある。
……どっちがいいのかな……。
話せたほうが言いたいことをまっすぐに伝えられるけど、その分、言いたくないことを勢いで言っちゃったり、誰かを傷つけることも増えちゃうのかもしれない……。
そういうのは、嫌だな……。
「――安心して、わっちーがなんとかしてくれるから!」
「こいつの行動力は半端ねぇぜ。医者でも治せねぇ病気だって敵じゃねぇよ」
帰りのホームルームが終わると、暖房の効いた教室に残っていたみんなが愛の周りに集まってきた。来月誕生日の愛に、なんでも願いを叶えるチケットをプレゼントしてくれるらしい。望みはもちろん、一つしかない――って、みんなは口を揃えて言う。
「昔より上達してるんでしょ? じゃあ、可能性は十分あるわね」
「お喋りできるようになったら、アタシが男の口説き方を教えてあ・げ・る♪」
そうだよね……これは病気なんだもんね……。治したほうがいいって、思うよね……。
「変なこと吹き込むんじゃないよ。そういうのはココが大事なんだからね」
「無理をするのはよくないわ。見えないものと闘うことは、精神的にもつらいはずよ」
胸の中心を叩くバチ子ちゃんと、眉をひそめる亜里紗ママ。
「…………」
ねねちゃんは曇る窓ガラスをずっと見てた。
太史くんはまっすぐな視線を向けてくる。多分、「お前はどうしたいんだ」って言ってる。
すぐには答えが出せなくて、曖昧にはにかむと、太史くんの目はきゅっと鋭くなった。
「自分の人生を投げやりにするな。どっちでもいいなんて言葉にはなんの価値もない。和智田だって善意で言ってるんだぞ。いい加減な受け答えはするな」
んぅ……。怒られちゃった……。
「おいおーい、どの口が言ってるんだよワンちゃん。ワンちゃんだってはじめはまともにかけ合ってくれなかっただろ? なぁ、ワンちゃん」
「うるさい!」
太史くんは肩に回された手を振りほどく。
リーダーはいじけるように口をすぼめたけど、愛のほうを見るとすぐに笑顔になった。
「ま、そんなに悩む必要はない。なんでもいいさ。こんなことしたいな~あんなことしたいな~って、パッと思いついたものでいい。直感的に出てきたものが正直な思いだ」
正直な思い……。愛がやりたいこと……。――あっ。
顔を上げて、机の横にかけていた鞄を手に取る。中から一冊のノートを取り出して、その中に挟んでおいた紙を広げる。
「ん? なんだこれ……」
不揃いに並んだつたない文字に、リーダーたちは首を傾げる。前にも見せたことがある太史くんだけは、ちらっと見ただけで理解したように呟いた。
「……あの歌詞か」
「歌詞?」
紙を覗き込んでたたくさんの目が自分に向けられて、太史くんは少しだけ嫌そうな顔をして言った。
「愛が施設に来た時、こいつを泣きやますためにピアノを適当に弾いてやったんだ。それに勝手に歌詞をつけたんだよ」
「あら、素敵じゃない! オリジナルソングをプレゼントするなんてちょっとヒいちゃうけど、ピアノを弾く男性ってセクシーで甘美だわ♪」
「よく恥ずかしくねぇな。とんだキザ野郎だぜ」
「当時は小学一年生だ! 気取って弾いたわけじゃない!」
ピアノを弾いてる時の太史くんはすっごくかっこいいんだよ!
じっと見られるのが嫌みたいで、誕生日にしか弾いてくれないけど……。
「あんた、まさかこれを歌いたいのかい?」
歌詞を読み終えたバチ子ちゃんに頷いて返す。
「いいじゃん! やってみようよ! 俺っちたちも、声が出せるようになるトレーニング方法を調べてみるから!」
「じゃあ、立花には当日までお預けね。ニコに負けないように、ピアノの練習でもしておきなさい」
エミリーちゃんがそう言うと、太史くんは小さく息をついて眼鏡を押さえた。
……ちょっと困らせちゃったみたい。
「ふむふむ、ナイスな願望だ! お前の願い、しっかりインプットしたぜ!」
それから、毎日の特訓が始まった。
放課後に音楽室を借りて、みんなが調べてくれた練習方法を試してみる。
たまにふざけてミュージカルを始める人もいたけど、その時も楽しくて、むしろ練習時間より好きだなって思ってる自分もいた。
だって、愛が練習してる間、みんなが愛のほうを気にかけてるし、ずっと見られてるし……。みんなと仲良くなりたいとは思ってたけど、こんなふうに注目されるのはちょっと違うかなって思った。
それでも、みんなの期待に応えたくて、お腹から思いっきり空気を吐き出してみたり、咳払いをして声を出す感覚を探ってみたりした。かすれたか細い声が少し出せた時は、みんなはすごく喜んでくれたけど、それくらいならずっと前からできるようになっていた。
家に帰ってからも、部屋にこもって一人で練習する。でもやっぱり、ちゃんとした声を出すのは難しかった。六歳の頃からずっと出せないのに、たった一ヶ月で治すことなんてできるのかな……。もう十年も経つんだよ……? そんなの無理だよ……。歌いたいなんて、言わなきゃよかった……。
……情けなくて、日に日にみじめな気持ちが増していく。
みんなは普通にできるのに……練習しなくたってできるのに……。当たり前にできるはずのことが、自分にはできない。早くみんなと同じ輪の中に入りたいのに、入れない。
みんなは素敵な笑顔で手を伸ばしてくれる。だけど、愛は作った笑顔でしか笑えなくて、それがもっともっとみんなを遠ざけてた。
わかってるはずなのにうまくできなくて、どうすればいいのかわからなくて、気づけばまた今日も、同じ涙をこぼしてた。
――十二月四日、日曜日。雪は降ってないけど、凍りそうなほど空気はしんみりと冷たい。
施設の小さなホールを借りて、みんなで集まった。
太史くんがピアノを弾いてくれる特別な日なのに、今までに感じたことのない緊張感が喜びを打ち消していく。
「大丈夫、ニコならできるわ!」
「俺っちたちが応援してるから、頑張って!」
「今日からアナタの人生は生まれ変わるのよ。さあ、胸を張りなさい!」
ヤバ美ちゃんに背中を叩かれて、一歩踏み出す。そのまま、ピアノの椅子に座っていた太史くんの隣に立った。
ここ一ヶ月は、いつも以上に口数が少なかった。上達具合も全く聞いてこない。気を遣ってくれてたんだろうな。晩ご飯の支度だって、本当は愛の役目なのにやってくれたし、帰りが遅いと心配して迎えに来てくれたし、すごく温かかった。太史くんがいなかったら、途中で諦めてたかもしれない。
──絶対にできる、絶対に成功させる。
決心はできたと太史くんに頷いて、唇を固く結んだ。
ゆっくりと流れ出すやわらかいピアノの音色。
それに反して、心臓の音はドクドクと強く胸を圧迫した。
途端に不安が膨らむ。鼻歌でなぞるメロディーが震えて、息苦しさで途切れ途切れになるリズムにめまいさえ感じた。
一か月間練習を重ねても、歌が歌えるようにはなっていなかった。それでも、できるだけのことはやったんだなって言ってもらえるように、鼻歌をめいっぱい練習して、一呼吸分は続くようになっていたはずだった。
それなのに、本番で潰れてしまった。
そうだよ……。普通に話すこともできないのに、みんなが見てる前で歌うだなんて、できるわけないじゃん……。すごく緊張するし、できなかった時のみんなの顔を想像したら、すごく怖いし……。そんなの、わかってたはずなのに……!
「っ……」
嗚咽が喉の奥を押し上げて、メロディーを追うこともできなくなった。
涙がとめどなくあふれてきて、両手で顔を覆う。
中途半端な気持ちでやっていたからだ……。本気で治したいって思っていなかったからだ……。ちゃんと真面目に取り組んでいなかったからだ……。みんなの応援を無下にしていたからだ……。そんな人間の願いなんて、叶うわけがない……!
──ピアノの音が止まった。
きっと、怒ってるか、呆れてる。それか……悲しんでる。
愛は、みんなを裏切った。太史くんを裏切った。
謝ることだってできない。ただただ、泣くことしかできない。
沈んだ空気に耐えきれなくて、太史くんの顔を見ることなんてできなくて、その場から逃げ出そうと振り返った。――その時。
目の前で、誰かが歌い始めた。愛が考えた歌詞を、誰かが口ずさんだ。
──ねねちゃんだ。
他のみんなも歌い出す。リーダーも、オスヤマくんも、エミリーちゃんも、俺っちくんも、バチ子ちゃんも、ヤバ美ちゃんも、亜里紗ママも――太史くんも。その顔はすごく優しかった。
みんなの歌に合わせて、再び流れ出すピアノの音。
愛は両手を握り締めて、口を大きく開いた。力いっぱい、喉の奥で叫んだ。
たとえ声は出なくても、ありったけの想いを込めて、叫んだ――。
だいじょうぶって わらってくれる
さみしくないよって てをにぎってくれる
いっしょにいるって あたたかいね
ありがとうって きこえてるかな
いつかいえるよね ちょっとだけまっててね
あきらめないから これからもいっしょにいてね
わたしのこと わすれないでね
ずっとずっと ありがとうって わらってるから
太史くんの指が止まって、音が吸い込まれるように消えていった。
ゆっくりと立ち上がった太史くんは、ささやくように言った。
「……よく頑張ったな」
その言葉にまた涙が込み上げてきて、首を大きく振った。
愛は何も頑張ってないんだよ……みんなに嘘ついてたんだよ……! ごめんなさいっ……!
「一番悔しいのはお前だろ。もういいんだ」
頭の上に置かれた手は、重くて優しかった。我慢しようとしたものはそっとほどけていく。
「愛ちゃんの気持ち、俺っちたちにはちゃんと届いてたよ」
「あなたは正直だから、顔を見ればすぐにわかるわ」
俺っちくんと亜里紗ママが笑うと、他のみんなも穂波みたいに笑った。
でも、ゆっくりと歩み寄ってきたリーダーだけは神妙な顔をしてた。
「……俺がみんなの願いを聞いてるのはな、そいつが真に望む自分の姿に気づいてもらいたいからだ。だから、本人が本気で望んでいないことを強要したり、手助けしたりすることはできない」
気づかれてたんだ……。迷っていたことも、怖がっていたことも……。
「人は、目標さえあればどんな山でも谷でも越えられるが、目標がなければまっすぐな一本道さえ歩けなくなる。……ニコちゃんが見てた目標は、蜃気楼だったんだ。ぼんやりと思い描く願いではあっても、確実にはたどり着けないとどこかで思っていたんだ」
唇が貝みたいにぎゅっと固く閉じて、視線はエイのように床をさまよう。
そうだ……。喋れるようになった未来を怖がっているうちは、絶対に叶えられない夢だから。
自分に打ち勝つことができなくて、自信が持てなくて、諦めてたんだ……。
「あーら、そんなにしょげちゃダメよ。病むっていうのは、やられてばかりで負けちゃった時のことだけど、悩むっていうのは、やられてばかりだけどまだ負けちゃいないんだから。アナタは悩んでいるだけで病気じゃないわ。心が不安がっているだけ」
「そうよ! ちゃんと自分と向き合うことができれば、それが本当の望みになって、話せるようになる時だって来るわ。……別に無理をしろって言ってるわけじゃないわよ」
微笑むエミリーちゃんの隣で、正面を向いたまま目を逸らしていたねねちゃんは、両手を腰に当てて口笛でも吹くように言った。
「別に話せないままでもいいんじゃない。今でも十分うるさいし」
ぶっきらぼうなねねちゃん。いつものねねちゃん。その口調にはトゲがなかった。昨日も今日もきっと明日も、変わらないで接してくれるのがすごく嬉しい。その気持ちが言葉にできなくて、思わず抱き着いた。
「は、離れろっ……」
小学生の時も、中学生の時も、ねねちゃんは見てないようで、ずっと愛のことを見ててくれた。周りに馴染めない愛を心配してくれてたよね。ねねちゃんの優しさ、ちゃんとわかってたよ。ありがとう、ねねちゃん……。
「いや~、あんたは本当に嬉しそうに笑うねぇ。その能力があれば無敵だよ。どんな相手にもド直球な思いを伝えられる。笑顔ほど優しい武器はないさ」
バチ子ちゃんはグッとこぶしを握った。
褒められたのが嬉しくて、ねねちゃんに引き剥がされた後も顔をゆるませていると、太史くんが釘を刺すように声を低くして言った。
「お前が望むのなら、今のままでもいい。だが、どうしても伝えたいことがあるのなら、ちゃんと自分の言葉で伝えるべきだ。相手に察してもらうことは甘えになる。そのことは忘れるな」
その真剣な目をまっすぐに受け止めることはできなかった。
……愛が正直な気持ちをなんでも言えるようになったら、喧嘩することも増えちゃうかもしれない。太史くんを怒らせることも増えちゃうかもしれない。もしかしたら傷つけることだってあるかもしれない。やっぱり、それが怖いよ……。
「僕はお前の口から直接聞きたいんだ。どんなことでもいい。文句だろうが罵倒だろうが、それがお前の本当の気持ちなら、ちゃんと聞いてやるから……」
それを察してか、語尾は優しくなった。
太史くん……。愛は、太史くんが思ってるほど真面目じゃないよ。リーダーみたいに冗談を言ってふざけてみたり、俺っちくんみたいに数えきれないほどお友だちを作ったりもしてみたい。太史くんはくだらないって呆れるかもしれないけど、それが愛のやりたいことなんだよ。
「オレたちは文句しか言ってねぇよなぁ。ヤバ美の香水がくさすぎるとか、ヤバ美のスキンシップがウザすぎるとか、ヤバ美のウインクがキモすぎるとか」
「しっつれいね。でも、それを褒め言葉として受け取ればいいだけの話だわ。イイ女になろうとする努力の証だ、ってね。いちいち怒っていたらお肌が荒れちゃうし、器の小さい女になっちゃうわよ」
胸を張ったヤバ美ちゃんがねねちゃんに目を向けると、ねねちゃんは指を差し返して呟いた。
「……紫ゴリラ」
「んまあぁぁぁぁぁぁ!! なんですってぇ!?」
ヤバ美ちゃんは顔をしわだらけにする。
その顔に苦笑いした亜里紗ママは、声が震えるのを抑えるように口に手を当てた。
「さすがに冗談がすぎると怒らせちゃうかもしれないけど、仲がいいからこそ、そういうことだって言い合えるのよ」
「そうだそうだ。オレたちだって、つるむようになってからまだ日は浅ぇけど、こんなんだぜ。お前もすぐに打ち解けられるだろ」
「心を開いて! まずは心と心で会話するんだよ!」
胸に手を当てた俺っちくんの笑顔に、不安そうにだけど、確かに頷けた。
「さあさあ! 全員、オープンマイハートだ! 丸裸になった心で俺様の胸に飛び込んでこい!」
「そんなこと言ったら、またヤバ美が暴走するわよ」
エミリーちゃんが言い終わるより早く、ヤバ美ちゃんは舌なめずりをして目を光らせていた。
あの目はゴリラじゃなくてヘビだ……。愛がそうひそかに思うと、太史くんは口元を押さえて顔を背けた。――ヤバ美ちゃんに言わないでね!
「じょ、冗談だよジョーダン! さすがの俺様も、全員分の熱きハートを受け止めきれる自信はないぜ! アッハッハのハ!」
リーダー、心が笑ってないよ……。
「俺様じゃなくて、ニコちゃんの胸に飛び込むんだ! 子供たちも待ってることだし、気を取り直してお誕生日会を始めようぜ! ――ハッピーバースデ~!! ニコちゃん!!」
お祝いの言葉とは裏腹に、走り出したリーダーはどんどん遠ざかっていって、あっという間にホールから出ていった。
「もう、照れ屋さんなんだから♪」
ヤバ美ちゃんはいの一番に追いかけていく。
「あのお馬鹿、子供たちが誕生日会の準備をしてくれてることは秘密だったのに!」
「まあ、いいんじゃないかい。隠せるほど内密にできてたわけでもないしねぇ」
大きく動いたバチ子ちゃんの眉に、頬がゆるむ。
うん、知ってた。だって、みんな声が大きいんだもん。愛みたいな完璧なサプライズパーティーを仕掛けるには、まだまだ修業が足りないね!
「……ほら、行くぞ」
太史くんに背中を押されて、みんなと一緒に二人のあとを追う。
――背中を押されるだけ。背中を追うだけ。自分の立場はそうなんだって思ってたけど、違ったんだ。愛が一歩踏み出そうとすれば、みんなは歩調を合わせてくれるし、愛が立ちすくんでいれば、立ち止まって待っててくれる。それが、自分と向き合うことで気づける温もり。
みんなと一緒にいれば、声を取り戻せる日はそう遠くないのかもしれない。
そうなれたらいいなと思った瞬間、自然と笑みがこぼれた。
今までで一番にぎやかだった誕生日からしばらくが経って、冬休みに入った。
その初日のクリスマスイヴは、今年も養護施設で過ごす。
「フォッフォッフォッ。イイ子にしてたみんなには、この和智田サンタ様からお菓子をプレゼントじゃ!」
おヒゲと帽子をつけただけのリーダーは、エミリーちゃんと亜里紗ママが作ってくれたクッキーを配ってくれた。
なぜかお姫様の格好をしたヤバ美ちゃんも、あったかそうなマフラーや帽子や手袋をプレゼントしてくれて、オスヤマくんやバチ子ちゃんはトナカイに扮して子供たちと遊んでくれた。
「……ご飯、できた」
近所のおじさんやおばさんたちと昼食の用意をしてたねねちゃんが呼びに来ると、子供たちは元気に食堂へ向かっていく。
「俺っち……もう無理……」
四つん這いになっていた俺っちくんは、腰を押さえてその場に倒れた。
「だらしないねぇ。子供なんて軽いもんじゃないか」
「一度に五、六人も担ぐお前はバケモンだ。トナカイじゃない」
みんなすごいなぁ……愛は一人をおぶるので精一杯だよ。
「――ねぇ、見て! 雪よ!」
窓際にいたエミリーちゃんが弾んだ声を上げる。
声に引かれて外を見ると、白くて大きな綿雪がふわふわぽとぽとと降っていた。
「この島にも降るのね。去年は見なかったわ」
「やだ、ホワイトクリスマスなんてロマンチックじゃない!」
ホントだ、珍しい! 最後に見たのは三年くらい前かな?
「結構降ってるな。積もりそうだ」
窓越しに空を見上げていた太史くんは、昨日のうちに飾りつけをしておいたモミの木に視線を移して、ゆっくりとまなじりを下げた。
「んぅ!」
いつもは子供たちにしか見せない優しい顔に、思わず手を取った。そのまま外へ出て、クリスマスツリーのそばまで駆け寄る。
「お、おい、別に嬉しいわけじゃ……」
わかってるよ。雪が積もると子供たちが喜ぶからだよね。愛だって、太史くんが考えてることくらいわかるもん!
自慢げに胸を叩くと、太史くんは短く息をついた。
「わかっているんなら戻るぞ。風邪を引く」
踵を返して屋内に戻ろうとする太史くん。愛は繋いだままの手を引っ張った。
「……? どうした?」
怪訝そうに見つめるその顔に、思いきって口を開く。
──今なら、言える気がする。
一番届けたかった言葉。言いたかったけど言えなかった言葉。とても短いのにとても勇気のいる言葉。
──太史くん、聞いて。愛は……愛は──!
「痛っ!?」
胸から込み上げた想いがあふれそうになった時、太史くんの頭に小さな何かがパチンと当たった。弾け飛んだそれは、地面に薄く積もったばかりの雪の上に落ちる。
「な、なんだ……!?」
太史くんが拾い上げたのは、キャビアみたいな小さくて黒い弾。
『──ヒットだ。貴様はもう死んでいる』
二人で辺りを見回していると、クリスマスツリーから人影が落ちてきた。
枯れ草色の迷彩服に、同じような柄の帽子と首巻きで防寒をして、顔には透明なゴーグルもつけた人。
「誰だ、お前は!」
その手に握られている長い銃を見て、太史くんが前へ出た。
「ふっ、同じ教室内にいても記憶に残らないほど気配が消せていたということか」
その人はゴーグルと帽子を外して、ほうっと白い息を吐いた。
「お前は……板東伴也……!?」
そうだ、俺っちくんの後ろの席の人だ!
太史くんが鋭い目つきのまま対峙してると、怪しい空気をくみ取ったのか、リーダーたちも揃って外に出てきた。
「あ、バンドー君だ! どうしたの、その格好。今から狩りにでも行くの?」
「狩り、か……。そうであってそうではない。小生はリア充撲滅運動中だ」
りあじゅう? って、どんな銃……?
「なんだい、リア充ってのは」
「イチャイチャしてる男女のことよ」
「ああ、立花とお団子ちゃんのことか」
「イチャイチャなどしていない!」
横目を向けるバチ子ちゃんに、太史くんは目くじらを立てた。
「小生は、治安維持のために日々校内の風紀に目を光らせている。するとどうだ、我がクラスにただならぬ桃色障気をまき散らす男がいた。──そう。貴様だ、和智田陽平!」
「え、俺? ワンちゃんとニコちゃんじゃなくて?」
「貴様は次々とクラスの女に手を出し、ぞろぞろと引き連れているだろう!」
「ああ、確かに!」
「否定しなさいよ!」
サンタさんのヒゲを生やしたままのリーダーは、エミリーちゃんに肩をはたかれる。
「和智田陽平、貴様に決闘を申し込む! サバイバルゲームで小生が勝利を収めし時は、その薄汚い手に囚われた女人たちを解放してもらおう!」
「おっ! なんか面白そうだな! それがお前の望みか!? バースデーチケットを使うか!?」
「よくわからんが、使おう!」
バンドーくん、もうすぐ誕生日なんだ。
バチバチと音が聞こえそうなくらいリーダーを睨みつけたバンドーくんは、自分の誕生日──一月十四日に決闘をすると言い残して、山の中に消えていった。
愛たちもリーダーの味方として参戦もしていいって言ってけど、正直よくわからなかった……。
でも、バンドーくんは太史くんに痛いことして、せっかくの特別な時間を台なしにした。
……許せない……。
――大切なものを踏みにじられた衝撃が、今までに感じたことのない怒りになって、愛の心の中にいつまでも残り続けた。




