2-6
ーー雨、雨、雨。
無数の雨粒が大地を濡らしていく。
雨は40日40夜の間、その勢いを衰えさせることはなかった。降り注いだ雨粒は、大地に覆い被さり、地上で生命を営むありとあらゆる生物を呑み込んでいく。
あるモノは走り、あるモノは飛び、あるモノは水に逃れたが、雨は総てを呑み込み、叩き堕とし、引き摺り込んでいった。
雨が止んだ頃。その水面は陽光を浴びて黄金色に煌めいていた。命を奪い尽くした雨は跡形もなく消え去り、神秘的な水面だけを残している。
その水面に一つの影が浮かんでいた。それは途方もなく大きな木造の舟。舟は行くあてもなく漂った。
そして7日目の朝、舟は何処かともわからない山の頂にたどり着き、止まった。ーー
「ん……」
ここは、何処だ……?
頬を撫でる風を感じて俺は目を覚ました。
確か、アベルと話しをしていて……。
「目が覚めたかい?」
「!?」
何処からともなく声を掛けられて俺は素早く身を起こした。
「そんなに身構えないでよ。僕は君の敵じゃない」
長身の長い黒髪の優男が両手を体の前でヒラヒラと振って、敵意がないことを示している。
「ここは何処だ?どうして俺はこんな所にいる?確か俺は帰路に着いていた筈だ。そして何より、お前は一体誰なんだ?」
油断なく男を見て構える。右手をそっと剣の柄に触れ、質問を投げかけた。
「ふぅ。御手々を繋いで仲良く話せないか。それじゃあ、一つずつ応えようじゃないか。僕の名前は《メタトロン》神の書記さ!」
男はメタトロンと名乗り、戯けた風に応える。
「メタトロン……」
「そう!覚えてくれよ?お友達の名前は覚えておくものだしね☆」
メタトロンは人差し指を振って子どもをあやすように言った。……何故だろうか。少しばかり苛立ちを覚える。
「そしてお次の質問に答えよう。この場所は神々の庭!まぁ、言うなれば今は僕の秘密基地って所かな?」
神々の庭。聞いたことも無いな。
とりあえず自分が今いる場所は分かったが、自分が何処にいるのか見当もつかない。
「何処に居るかなんて知らなくてもいいさ。君はこの場所を知っているんだから☆」
「お前……人の考えを覗くとは悪趣味なやつだ。それに俺はお前がいうこの場所を知らない」
俺の思考から的確に言葉を繋げたメタトロンに悪態を付きながら応えた。周りを見渡しても拡がる草原しか見えない。こんな殺風景な場所は俺は知らない。
「ツレないなぁ。思考を読むのは僕だけじゃないだろ?リリスの奴にもそう言ったのかい?」
メタトロンの口から出てきた既知の名前に驚く。
「な!リリスを知っているのか?」
こいつも人族じゃないとは思っていたが、リリスと同じような存在なのか?
「まぁ、知らない仲じゃないとだけ言っておくさ☆」
この件についてはこれ以上語らないと言葉を濁し、代わりに右手を指差す。
「ほら、あっちに行ってご覧?君がここを知っているといっていた理由が分かるよ?」
メタトロンが指を差している方向は丁度崖になっていて、草原が途切れている。
まぁ、何時までもここに立っていても仕方がない。あいつの言う通りに動くのは癪だが、とりあえず見てみるとしよう。俺は自分に言い聞かせて、崖の方を歩いていく。
砂利を踏みしめる音を立てながら、俺は崖の縁に立ち、底を見る。
「これは!!」
視界に入ったのは舟の片側だった。山に半分埋もれた途轍もなく大きな木造の舟がその身を半分だけ晒していた。
草原だと思っていた地表は、山に埋もれ表面が隠された舟の甲板だったということか。
その大きさに圧倒されている俺に、メタトロンは言葉を繋げる。
「君は夢でみた筈さ、この方舟を。そしてそれは夢じゃない」
「夢じゃない?」
どういう事だ?あれは明らかに夢だった。夢でないとしたらあれは一体なんだったというのだ。
「何かって?モチロン現実だよ☆」
分からないかな〜、と言いながらメタトロンは人差し指を振る。
「まっ、無理もないか。遥か過去の出来事だしね!」
ちょっと待て。つまり俺が見た夢は現実だが、過去に起こった出来事を〝視た〟という事か。
「うーん。ちょっと違うかな?君は過去の出来事を〝鑑賞〟したのさ♪」
「鑑賞、だと?」
俺は意味がわからず聞き返した。
「その通り!いったでしょ?神の書記だって。僕はこの世界が生まれてから今まで起こった総ての出来事を記憶しているのさ♪
そしてその記憶を呼び起こし、誰かに観せることができる。まさに君が観たようにね☆」
つまりアレは過去にメタトロンが実際に視た出来事という事か。
降り続く雨。止めどなく流れる水に流れていくあらゆる生き物達……。泣き叫び、逃げ惑っても逃れることが出来なかった……。
「ウッッ!」
込み上げてくる吐き気を飲み込むように口に手を当てる。圧倒的な暴力の前になす術もなく消えていく命。その不快感に心が支配される。
「〝審判の日〟。たしか君はこう教えられていたんだよね?影が世界を滅ぼすと。
でも少し違うのさ。アレは遥か昔に起きた堕ちた光の戦争によって生まれた悪魔を滅ぼす為に神が落とした一つ目の鉄槌だよ」
「悪魔……」
チラリと脳裏に漆黒の影が姿を現わす。
「察しが良くて助かるよ、その影こそが悪魔だ。奴の名前は〝カイン〟。人族で最初に他者の魂を〝奪った〟悪魔さ☆」
メタトロンは相変わらず軽い口調で言葉を話す。
でもヤツは生きている。俺はまだムカムカする胸に眉を顰めながら聞く。
「前回の〝審判の日〟はヤツを滅ぼす為の鉄槌だった筈だ。何故ヤツはまだ存在している」
メタトロンは俺の問いに、参ったと顔を掌で覆いながらワザとらしく嘆く。
「う〜ん、そこを突かれると痛いねぇ〜。つまりこういう事。神様は万能じゃないって事だよ」
サラリと言ってのけ、言葉を続ける。
「でもそのお陰でカインはとても弱っている。今度こそ滅ぼしてやるよ」
「!!?」
刹那。背筋に冷たいモノが走る。
メタトロンが〝滅ぼす〟と言った瞬間、今までの飄々とした態度は也を顰め怒りや憎しみが混じった表情が顔を見せた。
しかし直ぐにまた元の人を小馬鹿にした微笑みを浮かべる。
な、何だったんだ今のは!
「ごめんね〜?吃驚しちゃったかな☆カインにはちょっと思うところがあってね♪僕も彼奴が大嫌い。君も彼奴が大嫌い。敵の敵は味方って事でいいんじゃな〜い?」
あぁ。彼奴、いや。カインを斃す為ならばこいつと手を組んでも構わない。だが……。
「またあの大災害を引き起こすつもりか」
あの無意味な命を奪う行為をまた引き起こすというのであれば。
俺はその計画に加担するつもりは無い。
「嫌だなぁ。そんな事しないよ!それにアレは無意味な行為なんかじゃ無いさ」
「なんだと!あれほどの命を一瞬で奪っておいて、挙げ句の果てにカインを滅せなかったのにか?」
思わず声を荒げて反論するが、メタトロンは相変わらずニヤニヤとした表情を崩さない。
「それは仕方ないさ、知っていたかい?カインは魂を穢すのさ。穢された魂は輝きを失い、二度と元には戻らず、近くの魂の輝きを求めて更にその魂を穢していく。感染するんだよ!
地上にいた生き物はもう手遅れだった。そして方舟には穢れなき魂を保っていた生き物達が乗っていたのさ。そもそもただの虐殺のシーンを観せる訳ないだろう?君がそう言って協力してくれないかもしれないのにさ!」
穢れる……。
その言葉を聞いた時、俺はステータスの状態を思い出す。ーー〝仮初めの闇人〟ーー俺も感染しているのか?
「あぁ、君は確かに感染している。だが、君は大丈夫みたいだね。何故か知らないけど、君は〝奪うチカラ〟でカインの存在のチカラそのモノを奪っている。
そのチカラは、君の中で君と一体化せずにどういう訳か、結晶化し始めている。それは総てのチカラを奪った時、結晶化は完全なものとなるだろう。そうなれば君から分離させるのは簡単さ! 僕が分離させてあげるよ♪」
メタトロンの言葉を何度も繰り返し考える。カインの総てを奪い、結晶を完成させる。そうすれば……。
「アシュレイとローナの仇が取れるし、〝審判の日〟はもう二度と起こらない♪」
ふと幸せだったあの頃を思い出す。優しさで総てを包み込んでくれる母ローナ。力強さで安心感を与えてくれる父アシュレイ。もう二度と戻らない幸せなあの日々をーーー。
俺は意を決して、メタトロンと向き合った。




