10話 一人と一枚
砂塵の向こうから、誰かが歩いてくる。
最初に見えたのは、少女だった。
長い黒髪の左右には細い毛束が垂れ、淡い紫灰色の瞳がこちらを見ている。顔立ちは幼く可愛らしいのに、表情は冷たかった。
身に纏っているのは、一般の参加者とは明らかに違う服だった。
濃い色の上着に細かな装飾が施され、胸元には紋章がある。
そして背後には四人の武装した男を従えていた。
全員が武装している。
そのうち二人が小型の砲を構えていた。
「まだ動いています」
男の一人が言った。
少女は23号を見る。
「構わない」
短い言葉。
「撃って」
男たちが一斉に構え直す。
23号が立ち上がった。
傷ついた身体を引きずるようにしながら、それでも立ち上がろうとする。
ギィ……という金属音が鳴った。
少女は眉一つ動かさない。
砲撃が洞窟を揺らした。
23号の身体が大きく弾かれる。
今度こそ、機械の身体が崩れ落ちた。
ハルは呆然とそれを見ていた。
ついさっきまで、自分が死ぬかどうかの瀬戸際だった。
それを、この人間たちはまるで作業でもするように終わらせた。
洞窟の入り口で、少女がこちらへ視線を向ける。
ハルと目が合った。
ほんの一瞬。
彼女の瞳が、ハルの顔へ向いた。
「……天哭?」
小さな呟きだった。
ハルには聞き取れない。
少女は目を細める。
だが、すぐに視線を戻した。
「……いや」
一人で納得するように呟く。
「見間違いか」
少女はそれ以上、そのことについて口にしなかった。
隣で、音がした。
ガクが、剣を杖代わりにして何とか立ち上がっていた。頭部は血まみれだったが、目は死んでいなかった。
「大丈夫か、ガクさん!」
ハルはすんなり立ち上がった。そしてガクに駆け寄り、肩に手を回す。
ガクが、微かに言った。
「あぁ、なんとかな…それより、この人たちは?」
ガクの視線を追いかけ、ハルは少女たちに目をやった。
「紅燐祭の参加者」
少女は言った。
やがて男たちが洞窟の内部を調べ始める。
そして、一人が足を止めた。
「……これは」
ランプが壁を照らす。
赤い金属板。
一枚。
二枚。
その奥にも。
さらに奥にも。
壁という壁に、ラベルが埋め込まれている。
少女の表情が初めて変わった。
「……こんな数」
男の一人が近づく。
「これだけの機械人間が、ここを拠点にしていたということですか」
「違う」
少女は静かに答えた。
「これだけの個体を、ここに集めていた何者かがいる」
ハルは息を呑む。
ただの巣ではない。
誰かが、何かをしていた。
まさか。
「天哭紅剣は鋼天機構に狙われている」
オオツ村で、ラカールが言っていた言葉。
鋼天機構。機械人間の組織。
「いやいやいや」
ハルは勝手に想像し、勝手に否定している。
少女は男たちへ指示を出す。
「ラベルを回収して」
「全部ですか?」
「可能な限り」
男たちが動き始める。
「待ってくれ」
少女が振り返る。
「何?」
「それ……」
ハルは23号を見る。四肢が破片だらけになり、無様に地面に突っ伏していた。
「23号のラベル」
少女は少し黙った。
「必要?」
「ああ」
「何のために?」
「俺が戦ったから」
声は震えていた。それでもハルは言った。
「俺たちが……ここまで来た証拠だから」
彼女はハルを見る。
その顔には、呆れとも困惑ともつかない表情が浮かんだ。
「あなたたちも、紅燐祭の参加者?」
「そうだ」
「なら、ここから先には関わらないで」
「……でも」
「これはあなたたちが考えているような、単なるラベル集めじゃない」
少女の声は冷たかった。
「機械人間が組織的に集められている可能性がある。それに…この不自然な形の洞窟。あなたたちが首を突っ込む話じゃない」
少女が洞窟の奥まで見渡す。暗闇は、続いていた。
ハルは黙った。
正論だった。
自分たちは何も知らない。
カイを失い、ガクも倒れた。
ミナは逃げ、ゴビーは外で待っている。
ここに残っているだけでも危険だ。
それでも。
ハルは23号を見る。
「……それでも、23号だけは欲しい」
少女が眉をわずかに動かした。
「なぜ?」
「俺が、あいつと戦ったから」
ハルは短刀を握り直す。
「勝てなかったけど……逃げなかった」
少女は何も言わなかった。
少しの間、ハルを見つめる。
そして23号の残骸へ歩いていく。
男の一人が、
「お嬢様、それは――」
と言いかけた。
少女は手を上げて制した。
23号の身体からラベルをゆっくりと丁寧にはがす。
そして、ハルの方へ投げた。ラベルが宙に浮かび、放物運動を起こした。
ハルは慌てて受け取る。
赤い金属板が、手の中で小さく鳴った。
「ありがとうございます」
少女は答えず、背を向ける。
「行くよ」
四人の男が少女に続き、洞窟の奥へと向かっていった。
ハルはその背中を見つめた。
何者なのか。
なぜこの問題に首を突っ込んだのか。
何一つ分からない。
ただ一つ。
手の中にある23号のラベルだけは、確かだった。
ハルはそれを強く握った。
そして、洞窟の出口へ向かって歩き出した。
ーーー
洞窟を出ると、夕方の冷たい風が頬を撫でた。
さっきまで濃密に満ちていた湿った岩の匂いが外へ出た途端に薄れていく。代わりに、森の土と草の青臭さが鼻へ入り込み、ハルはそれだけで少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
ガクの肩を支えながら、ハルはゆっくりと斜面を上がった。ガクは自分の足で歩いていたものの、歩幅は狭く、剣を杖代わりにしている。頭から流れた血が頬を伝い、顎から落ちていた。
「……重いな、お前」
ガクが苦笑する。
「それはこっちの台詞だ」
「悪かったな」
「本当に悪いと思ってるなら、もう少し軽くなってくれ」
そんなことを言いながら、二人は森の外へ出た。
夕暮れの光の中で、ゴビーとミナがいた。
ゴビーは岩へ腰を下ろし、ミナはその横で何度も森の方を見ていたらしい。ハルたちの姿を見つけた瞬間、ミナの顔から強張っていたものが少しだけ抜けた。
「……ガク!」
ミナが駆け寄る。
「大丈夫?」
「見れば分かるだろ。たぶん大丈夫だ」
「たぶんって……」
ミナはガクの顔を覗き込んだあと、ハルを見る。だが、その目がハルの手にある赤い金属板へ落ちると、言葉が止まった。
23号。
ハルは無意識にそれを握り込んだ。
ゴビーが立ち上がる。
「で?」
いつもの軽い声ではなかった。
「どうだった」
「……カイが死んだ」
ハルがそう言うと、風の音だけが一瞬大きく聞こえた。
ミナが俯く。ガクは目を閉じたまま、何も言わなかった。
ゴビーも黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「そうか」
それだけだった。
責めるでもなく、驚くでもない。紅燐祭で誰かが死ぬことを、あまりにも現実的なものとして受け入れている声だった。
ハルはその声が、少し嫌だった。
カイが死んだのに。
自分たちは、また歩ける。
また飯を食べられる。
また明日の予定を決められる。
それがひどく不自然なことのように思えた。
しばらくして、ゴビーの視線がハルの手元へ移った。
「それ」
「……ラベル」
「見りゃ分かる。誰のだ?」
問いは短かった。
けれど、その場にいた全員が意味を理解した。
ハルは答えられなかった。
自分が戦った。
ガクも戦った。
カイも、そこにいた。
そして最後にあの少女が、それをハルへ投げ渡した。
紅燐祭のルールは、必ずしも明快ではなかった。
殺した者のものなのか。
最も大きな貢献をした者のものなのか。
最初に傷をつけた者のものなのか。
それとも、最後に拾った者のものなのか。
ハルはラベルを見つめた。
「……俺は」
言葉が続かなかった。
すると、ガクが口を開いた。
「ハルのだ」
ハルが顔を上げる。
「でも……」
「俺は何もしてない、とは言わないぞ」
ガクは苦しそうに笑った。
「俺も斬ったし、あいつの注意も引いた。でも最後まであいつを相手にしていたのは、お前だ。俺は途中で死にかけてた」
「それに」
ゴビーが腕を組んだ。
「あの嬢ちゃんが、わざわざ渡したんだろ?」
「……うん」
「なら、いいじゃねぇか」
ガクは一度、深く息を吸った。
「持っていけ。ハル」
その声には、戦闘中とは違う穏やかさがあった。
「助けてくれて、ありがとうな」
ハルは何も言えなかった。
礼を言われるようなことをしたとは思えなかった。
カイを助けられなかった。
ガクも守り切れなかった。
23号だって倒せなかった。
それでも、ガクは頭を下げた。
ハルは慌てて手を振る。
「やめろよ。そんなの……」
「いいから」
ガクは笑った。
「仲間なんだろ」
その言葉に、ハルは黙った。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
でも今、目の前にいる三人は、同じ一日を生き残った人間だった。
同じ恐怖を見て、同じ場所から戻ってきた。
それだけで、少しだけ何かが繋がっているように思えた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その後、四人は近くの木の根元に腰を下ろした。
ミナがガクの額に包帯を巻く。ゴビーが簡単な食料を取り出した。
誰も多くは喋らなかった。日が沈みかけている森は、昼間よりもずっと静かで、葉の擦れる音まで耳に残った。
やがて空が濃い藍色へ変わる頃、ガクが言った。
「明日、紅燐広場で集合しよう」
ゴビーが頷く。
「朝でいいか?」
「あぁ、早いほうがいい」
ミナも小さく頷いた。
「分かった。俺も行く」
ハルも頷く。
ゴビーが立ち上がり、腰を伸ばした。
「決まりだな」
それぞれが荷物を持つ。
不思議なものだった。
数時間前まで五人だったのに、帰る時には四人になっている。
誰も泣かなかった。
泣いている暇がないのかもしれないし、泣くほど現実を理解できていないだけなのかもしれなかった。
ハルは森の向こうに沈んでいく夕日を眺めた。
「じゃあ、また明日」
ガクが手を上げる。
「また明日」
ミナも小さく手を振る。
「ちゃんと来てね」
「分かってる」
ゴビーだけは、ハルにいつものように笑った。
「寝坊すんなよ、新入り」
「そっちこそ」
「俺は寝坊なんてしねぇ」
「そう言う奴が一番寝坊するんだよ」
「知るか、そんなもん」
くだらないやり取りだった。
それでも、その瞬間だけは、カイが死んだことも、紅燐祭のことも、機械人間の巣も、何もかも忘れられた。
ただ五人だったはずの場所で、四人が笑っていた。




