異常の記憶
月光だけが降り注ぐ、人気のない小さな橋の近く。ぽつんと佇んだ志乃の前方に、遊女が倒れていた。
髪や着物はさほど乱れておらず、ここが屋外でなければ、眠っているだけのように見える。だが、志乃は彼女が死んでいると知っていた。というのも、先ほどしっかり確認したので。
抜いた後も汚れ一つ付かなかった、借り物の短刀を収めつつ踵を返す。後方には、地面に手をついて座り込んだ、もう一人の遊女がいた。息絶えた遊女より若く、おそらく志乃と大差ない歳だろう。彼女の視線はただ茫然と、横たわる亡骸へ向けられている。
「……姐、さん……?」
「亡くなっておられますので、呼び掛けてもお返事はありませんよぉ」
いつものように、志乃は笑顔を浮かべる。場違いな軽さの声と口調で話す同年代の、しかし決定的にどこかが違う少女の顔に、遊女の視線が移った。
「どう、して……どうして、姐さんが、死ぬ、の?」
「おや、ご存じなかったでしょうか。とても強力な呪いに侵食されてしまうと、魂が汚されて怨霊と化してしまうのです。怨霊は手当たり次第に暴れ回って被害を出しますから、そうなる前に対処する必要があります」
自分に向けられた双眸が、怯えに染まっていくのを無視して、志乃は笑顔も口調も変えずに説明していく。そういう視線は向けられ慣れていたため、気にならなかった。気にしたことも、ほとんどなかった。
「怨霊への対処方法は、呪術行使に限られます。無論、俺も先ほど術を行使しました。しかしながら、俺は攻撃手段としての呪術しか用いることができませんので、怨霊と化したこの方の霊魂を、強制的に消し去ることしかできません」
丁寧さを保ったまま、妖雛の少女は続ける言葉を平然と刃にして、容赦なく振るう。
「つまり、俺は霊魂に染みついた呪詛ごと、怨霊となったこの方を斬り捨てることしかできなかった、ということです」
見開かれた遊女の目、その中央で震える瞳が、絶望へと色を変えた。
呪術によって祓われた、もしくは調伏されたのであれば、怨霊の元となる霊魂と呪詛は分離し、鎮められる。この際、霊魂と何らかの形でやり取りができるが、志乃はそんな間を与えないまま、霊魂を冥界へ追い払ったのだ。呪いによる苦しみを取り除くことすらせず。
早急な対応が必要で、そうしなければならなかったという事例はいくらでもある。だが共通して、怨霊になり果ててしまった故人に対しての礼儀は、求められて当然。悼む気持ちを見せないことは、故人への侮辱と受け取られる。
けれど、志乃には他者を悼む心が無い。持っていないものは見せられない。だから、さっさと終わらせただけ。害をなす前に片付けただけ。課せられた任務は完了したのだから、何を言われてもどうだっていい。
「そん、な……」
「まあ、怨霊となった時点で亡くなられているわけですから、どちらの対処法を採っても結末は同じですが」
何を食べに行くか訊かれ、何でもいいと返すような日常の声音。大した特徴のない少女の声が、どうしようもなく異質に響く。
「そうそう。こちら、貸していただきありがとうございました。おかげで迅速に対応できましたよぉ」
しゃがみこむと、志乃は友達に贈り物をする子どものように、借りた懐刀を返却した。持ち主が姉と慕っていた遊女を斬り捨て、しかし鞘に収められた刃は綺麗なままの短刀を。
両手で丁寧に差し出されたそれに、遊女の手は伸びない。否、伸ばせない。けれど、妖雛の少女は相手の心情を察することなどなく、青ざめた遊女の顔を覗き込んだ。
「どうなさいました? ……あぁ、人が怨霊になってから、亡くなるまでの経過をご覧になるのは初めてでしたでしょうか。見慣れていない方の中には、ご気分が優れなくなる方もいらっしゃると聞いております」
俯き、纏う雰囲気の華奢さを増す遊女に向けて、笹舟のように流されていく言葉たち。何の変化も見せず話し続ける妖雛の少女に、遊女は肩を震わせ始めたかと思うと。
「――っ、ぁぁああああああああッ!!」
唸り声と悲鳴が混ざったような声を上げて、志乃を押し倒した。
嫋やかな白い手が首にかけられ、絞め殺すための力と重さをかけてくる。しかしながら、非力な少女の手では人を絞め殺すことは不可能。このあと、遊女の手は難なく外され、体勢も逆転されてしまう。
命の危機は、微塵にも感じさせなかった手。けれどそこには、知らないものばかりが宿っていた。
大切な人を奪ったものへの憎悪。大切なものを失った悲哀。生じた責を、罪を忘れさせまいとする、冷たさと強さ。
そのすべてを、志乃は今でも生々しく思い出せる。それらを持っていないから、育ててくれた人々と同じになれないのだと、そのとき初めて理解したから。
夜明けを待つ静かな時間に、志乃は早くも目を覚ましてしまった。が、ある夢を見ると、いつもの時間より早く起きてしまう。そういうことは何度かあったので、慣れてはいる。
「……。早く起きすぎましたねぇ、これは」
掛け布団を引きずりながら、亀のような出で立ちで布団を這い出て、縁側の障子戸をほんの少しだけ開ける。外に妖桜は無く、見上げた空は紺から藍へと色を戻しつつあり、今が未明であることを伝えていた。
沢綿島に到着して以来、志乃と芳親は幽世の屋敷で寝泊まりしていたが、鼬の襲撃後は現世の屋敷に床を移していた。色護衆上部から一行に改めて指令が下り、一日挟んで卯月二十日あまり二日に沢綿島を発つこととなったからである。
既に一日は過ぎているため、出立は今日の朝五ツ、辰の刻。今から二度寝を決め込んでも余裕で起きられるが、志乃はそんな性格をしていない。二度寝しようものなら中谷の説教が待っていたからだ。初回以降は二度寝しないと決めているため、さっさと起きてしまう。
「さすがにこの時刻では、水を使うのもやめておいた方がいいでしょうかねぇ。他の方を起こしてしまうのは忍びないですし」
戸を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。それだけでも充分目は覚め、きびきび布団を畳んで体を伸ばし、さらに着替えてしまえば完全に頭が起きた。結果、することが何もなくなり、暇になってしまったが。
夕方ならともかく、朝方となると物音を立てられない。かといって何もしないのは退屈だし、再び睡魔がやって来るかもしれない。
「そういえば……辻川の親方は、早起きしてしまったら散歩をすると言っていたような」
散歩という名目の、一足早い見回りだったのかもしれないが――ともかく志乃は育て親に倣い、散歩をすることにした。
まずはゆっくりとしたすり足で玄関に向かう。さながら能楽師、というよりは薄氷の上を歩く度胸試しをしているように。しかし、気を付けるのは他者が寝ている部屋が集まっている場所だけ。玄関の近くまで来られれば、さほど足音を立てても問題はない。
夜目が利くことも味方して、無事に玄関近くの曲がり角までやって来た志乃だが、急に足を止めた。ほんのかすかに、衣擦れの音が聞こえてきたのだ。
――同じように早起きした先客か、あるいは、侵入者。
後者だった場合、律義にも正面玄関から入ってくる可能性はとてつもなく低い。けれども志乃は万が一を考え、すり足でじりじりと前進し、柱に手を掛ける。そのままゆっくりと角の先、玄関を覗き込んで人影を捉えたが。
「……、志乃君?」
「えっ!?」
先に呼び掛けられ、思わず声を出していた。慌てて口を押えるものの、当然ながら後の祭り。呼んだ方は「お、当たった」と笑っている。
「……麗部の旦那、ですか。何故お分かりに?」
声と呼び方から相手を察し、柱の陰から顔だけ覗かせて問いかける志乃。闇を障害としない目に捉えられた直武は、上がり框に腰かけていた。
「足音が、紀定や芳親より軽かったから。紀定はそもそも足音を立てることは少ないし、芳親なら気にせず堂々と来る。何より芳親はどこかに出かけて、戻ってきたようだし……となると志乃君かなぁ、って」
「な、なるほど」
もしや、忍び足で歩いていても、辻川に時々看破されたのはそのせいか――と数年越しに別の答えを得つつ、志乃は直武の近くへ歩み寄る。彼の傍らには杖と、まだ火が入っていない提灯が置かれていた。
「ところで、旦那はこんな時刻にどうなさったのですか? 俺は目が覚めてしまったので、散歩でもしようかと思ったのですが」
「私も散歩をするつもりだよ。お供を頼んでもいいかい?」
「もちろんですとも」
ありがとう、と杖を持って立ち上がる直武の横で、志乃も自分の草履に足を滑りこませる。かくして、老紳士と少女は薄闇の世界へ足を踏み出した。