密かな接触
寝耳に水の急襲を乗り越え、無事に宝山も守られた、その夜。踏み荒らしがたい新雪のような静けさを、細やかに破っていく足音が、幽世の森に一筋の線を引いていた。
宝山を囲む森の中を駆け抜けながら、しかし宝山とはまるで違う方向へ進んでいるのは、芳親だった。ぼうっとした無表情を崩さない妖雛の少年は、かすかに感じ取れる気配を辿っている。
持ち主の詳細を探るまではできなかったが、芳親は容易く予想していた。おそらく、志乃を見守る命を受けたという、あの薄金の瞳と髪の青年がいるのだろうと。
が、やはり予想に過ぎないため、確認をしに行かなければならない。加えて、芳親が気配を察知しているのに、片割れかつ彼らと関りが深いはずの志乃が、気配を察知できていなかったという不可解な点もある。
「……、使っちゃ、駄目な、わけじゃない、し……使う、か」
途中、独り言を零して立ち止まると、面を被り直して片腕を持ち上げる。牡丹色の瞳が鮮やかに輝くと、風に揺れた枝葉が立てるようなざわめきを伴って、行く先に大輪の花々が咲き誇った。注意を怠った途端、すぐに見失いかねないほどか細い気配を、牡丹の道で可視化したのだ。
労力の軽減や、そちらへ行くという挨拶代わりになるところが利点だが、こちらの存在を知らせることにより、相手が逃げてしまいかねない欠点を持つ。芳親は花々を咲かせた後、無残にもそれを散らす勢いで、飛ぶように道を駆け抜けた。
地上だけを道としない彼の前では、木々も茂みも障害にならない。飛び越し、あるいは加速に利用し、どんどん先へ行く。時折、枝葉の隙間から差し込む月光が、銀糸の織り込まれた狩衣を煌めかせていた。
牡丹の道は、間もなく終わりを告げる。到着した終点にあったのは、見上げるほどの巨石だった。注連縄を掛ければ、御神体として扱えそうですらある。
いくつかの石の上、主のように横たわるそれの足元に、芳親はゆっくりと歩み寄る。目当ての存在は巨石に腰かけ、逃げることなく待ち構えていた。
「――何用ですか、境田芳親」
硝子玉のような薄金の双眸が、牡丹色の双眸を見下ろしてくる。気配の持ち主は予想通り、雷雅の使者だという青年だった。
淡白な彼の問いかけに対し、芳親は手を振った後に手招く、という動作で答える。相手も、危なげなく巨石を飛び下りて前に立つ、という動作で返答した。
「……二つ、質問……雷雅に、したい。……良い?」
この場にいない存在を、当然のように指名した芳親は、小首を傾げながら指を二つ立てる。青年もまた当然のように「少しお待ちを」と返し、懐から何やら小箱のようなものを取り出した。直武も使っている、連絡を目的として作られた呪具だ。
青年は呪具の表面、寄木細工のような模様を動かして起動させる。かちり、と何かが噛み合う小さな音がしたかと思うと、小箱から独特かつ些細な雑音が漏れ始める。
『――あー、雷吼丸? 聞こえてるー?』
呪力を通したことによって聞こえてきたのは、独特な響きを伴った男の声。雷吼丸というのが青年の名前らしかったが、青年は応答した後も、連絡している人物を咎めるような発言をしなかった。名を知られても問題はないようだ。
「ただいま、境田芳親と対面しております。雷雅様に二つ、質問があるとのことです」
『え、そうなのー?』
書付を読み上げるような口調の青年に対し、呪具越しの声は緩く間延びしている。初めて聞くはずなのに聞き覚えがあって、芳親は眉を上げていたが、心当たりはすぐに見つかった。緩さの違いこそあれども、志乃と似ているのだ。
『まあ、大抵のことには答えられるだろうから、いっかぁ。もし答えられない質問だったら答えないけどー、芳親、それでもいーい?』
「……、うん」
最初、首肯で返答しようとしていた芳親は、我に返ったような顔になって声を出した。見えなければ、動作は意味をなさない。
『あ、そうそう。知ってると思うけど、一応ねー。俺の名前は雷雅だよー』
「……僕の名前は、境田芳親。職業は人妖兵。……よろしく」
鬼と妖雛がゆるゆると名乗り合っている間、青年――雷吼丸と呼ばれた彼は、傍らにあった石の上へ呪具を置く。対峙する青年二人の目線とちょうど同じ高さに置かれた小箱は、一見しただけでは芸術品にしか見えない。
「……そういえば。……これ、作ったの……雷雅、なんだよ、ね?」
『んー? あー、うん。すごーく昔に、俺が作ったのを人間に見せたら、人間も似たようなの作り始めたんだよねぇ』
のんびりした言葉の後に笑い声が続く。声音は明るいが、空洞に何かを落とした時の残響を思わせるような、虚しい影を伴っていた。逆にそれが、彼の笑いが嘲る類のものではないことを教えてくれたが。
空っぽな声の主が作った、遠距離との通話を可能にする呪具。人間側も少数ながら製作し、所持しているのだが。
『でも、妙術を繰り出せるような人間じゃないと、使えないんだよねぇ、これ』
ゆったりとした指摘の通り、使える者からすれば便利なものの、特定の人間しか扱えないのが欠点。元は妖怪が作ったのだから、普通の人間に扱えないのは当然とも言える。
しかし実際のところ、同族に対しても興味関心をほとんど持たない妖怪たちにとっては、連絡のための道具などガラクタでしかない。自分で自分の連絡方法を編み出している者も多いため、妖怪で使用しているのは製作者本人と、彼の周囲に限られている。
『で、質問ってなぁに? まさか、さっきのがそうじゃないでしょー?』
また首肯したのち、芳親は口頭で「うん」と答え直した。この手の呪具は問題なく使えるものの、芳親自身は触ることすら滅多にしないため、声が必須という状況には慣れていない。
「……まず。……僕が、気配を、感じ取れる、のに……志乃が、雷吼丸、の、気配を、感じ取れなかった、理由……知りたい」
『そんなこと知りたいのー?』
目を丸くしている姿まで想像できる、少々わざとらしい声。聞く人によっては神経を逆なでされそうだが、やはり嘲りの色は含まれておらず、驚き一色で染め抜かれている。
ある意味、純粋と言えなくもない声音は、引っかかることなく芳親の耳を通り抜けた。芳親がわざわざやって来たのは、片割れたる志乃が理由。情などないと察せられる雷雅のことは、最初から気にしていない。
「……片方が、できて……もう片方が、できない、のは……おかしい、から」
『んー、別におかしいことじゃないと思うけど。まあ、そう思うかどうかは、個人差ってやつだよねぇ』
そうだろうか、と。芳親は内心で首を傾げるだけで、沈黙を保った。待ち望んだ片割れとの邂逅を果たしたのに、同じ喜びを分かち合えると思っていたのに、そうはならなかった。いや、夜蝶街での戦闘で、分かち合いはしたのだけれど。志乃にとっては希薄な記憶となっている。
自分と違って、志乃は何も知らない。感じ取っていない。期待外れを受けて、疑問を浮かべるのも当然ではないだろうか。
巡らされる思考など知る由もなく、『いいよー、答えてあげる』と返答の終止符が打たれた。雷雅の声は相変わらず空虚さを伴っているものの、弾んでいて明るい。心側の空洞そのものを覗かせたような声だった。
『志乃が雷吼丸を感知できないのはねぇ、俺がそうできないよう術をかけたからだよー』
「……何で?」
『俺が雷吼丸に、志乃を連れ帰るよう命令させないためー』
不穏な言葉に、芳親は思わず顔を顰めていた。志乃がいなくなるのは、困る。昂る戦いをくれる片割れは、昂る戦いをあげられる片割れは、志乃以外に存在しないのだから。
「……どういう、こと?」
『人間側が志乃を必要としているってことも、志乃自身にとって、現世での生活が必要だってことも分かってるんだけどー。正直、俺はどうだっていいんだよねぇ、そんなの』
聞こえてくる声色は鬱陶しげだったが、続けて紡ぎ出された声は、楽しそうな弾みを取り戻している。
『俺が血を飲ませたのは、風晶と志乃の二人だけ。お気に入りは割といるけど、好きなのはこの二人だけ。だから、俺としては志乃のことも傍に置いておきたいんだー』
無邪気を纏っている声は、『でも』を境に、暗く低い音に変わった。
『それは誰かの策略かもしれない。人間側の事情はどうでもいいけど、誰かの策に嵌るのは好きじゃないから、避けたい。そのためにも、うっかり志乃を連れ戻さないよう、俺なりに気を付けてるんだよー』
「……策、略」
意外な単語の登場に、芳親は目を丸くしたものの、問い返しはしなかった。質問はまだ残っている。
「……次の、質問……の、前に。……雷吼丸に、確認、したい、ことがある」
さりとて、何か言うことも特に思いつかなかったため、さっさと次の質問に移った。小箱から不満の声は上がらず、問われた雷吼丸は「はい」とあっさり頷く。
「……ずっと……僕と、志乃が、狸たちの、こと、回収した、時から……見てた、よね?」
「はい。某の任務は志乃様を見守ることですので。貴殿と別れたのち、大蜘蛛を仕留めていらした場面も見ております」
相変わらず、絡繰り人形のように話す彼に「やっぱり」と呟いて、芳親は再び呪具の方を向いた。
「質問、二つ目。……雷雅、蜘蛛が、何なのか……知ってる、でしょ」
『知ってるよー。何で沢綿島にいるのかは、まだ知らないけどねぇ』
「……それ、教えて」
『蜘蛛は利毒の使いだよー。あ、分かる? 利毒のこと』
少し間を置いて、首を横に振った後、また声を忘れたことに気付いた。自分に少々苛つきつつも、芳親は確認に答える。
「……そういう、名前、の……鬼が、いる……って、ことしか……知らない」
『まあ、人間に認知されるようなことをしたの、片手で数えられるくらいだしねぇ。最近だと、直武たちがずっと若い頃、ちょろっと出て来たくらいかなぁ。その時もすぐ引っ込んでたし。でも、今回の黒幕だろうから、嫌でも会うことになると思うよー』
さらりと重大なことを言って、雷雅は利毒なる鬼についての軽い説明を始めた。
『利毒は陰湿だからねー。人間からも特に嫌われてるんじゃないかなぁ。気味悪い、趣味悪いって。名前の通り毒を扱う奴で、蟲を使いにしてる』
途中の一言に、牡丹色の目が細められる。鼬が紀定に言ったという「蟲の類に気を付けろ」は、おそらく「利毒に気を付けろ」という意味も含んでいたのだろう。
『鼬との関連性は今日、証拠が見つかったから決定的になったけどー、何を目的に動いてるのかは、まだ訊いてないから謎のままだねー。ま、何かの研究でもしてるんだろうけど』
「……研究?」
『そ、研究。人間曰く〝おぞましい〟研究だけどねぇ』
詳細を訊き返す声は、またも無かった。予想できる重要さはそれほどでもなく、芳親自身の興味関心は薄かったことに加え、おおよそ内容を把握できたので。
人間が妖怪に対して「おぞましい」と言う時は、やっていることが外道すぎて、そう評するしかなかったという場合がほとんど。事実、鼬に施されただろう利毒の術か何かは、外道なものだ。芳親も顔を顰めざるを得ないほどに。
『利毒が裏で糸を引いてるってことは、もう色護衆に言ってあるから、直武も知ってると思うよー。蜘蛛の時点で、たぶん予測がついてたんじゃないかなぁ。だからまぁ、この情報は答え合わせ程度に使えばいいよー』
同感の意を込めて、芳親は何度目かの首肯をする。別に伝わらなくても困らない、独り言のような頷きだ。
『で、他に訊きたいこと、あるー?』
「無い。……二つ、って、言った」
『じゃあ、俺からも質問していーい?』
「いいよ」
即答しつつ、芳親は最近の志乃の様子を思い出す。すでに貰っていた答えからして、質問は志乃に関することだろうと予想して。
ところが。
『常世で君を育てた人……仙人か神霊かは知らないけど、それが誰か教えてほしいなぁ』
予想は的外れどころか、そもそも的自体が違っていた。思わず芳親は眉根を寄せる。
「……、何で?」
顔色と声色、双方に警戒や拒絶の類は浮かべず、芳親は純粋に疑問を示す。自分について質問される理由が分からない、と。しかし疑問は、『俺も〈特使〉のこと調べてるからー』の一言で氷解した。
『〈特使〉って、ただでさえ情報が少なすぎて、いかにも胡散臭いでしょー? それに、常日と幽月って付く、二人組の〈特使〉が現れたのは二回目で、一回目は俺が生まれるよりも昔。神代が終わりましたーってくらいの頃だから、記録なんて残ってないとは思うけどー。それ以降、君たち以前の〈特使〉についても記録が残ってないっていうのは、ちょーっとおかしくない?』
「……それは、師匠も、言ってた」
常日と幽月の名を持った〈特使〉の記録は、風化という逃れられない傷みのせいで読み取れず、形はあれども内容は残っていないような状態。だが、以降に現れた〈特使〉についての記録は、年代から見て劣化が進んでいないものもあるはずなのだ。
あるはず、読み取れるはずの記録すら無いというのは、さすがに不自然。《《何者かの意図が感じ取れなくもない》》――と、直武が話していたのを思い出したところで、芳親の脳裏に再浮上する単語が一つ。
「……策略、って……そこに、絡んでる?」
『さあ? それを調べてもいるんだよー、俺は。そのために、君を育てた誰かの助力も必要なんだー。歪な魂を持った子どもを拾い育てた者同士、話して損は無いと思うしー』
「歪……」
口の中へ飴玉を放った時のように、芳親はその言葉を転がし、頬へと追いやる。自分たち妖雛を評する言葉として、何度か聞いてきた響きだった。
「……僕を、育てて、くれた、のは……、深見草庵の、仙女様。……名前は……仮の、だけど……芳紅様」
『へぇ、仙女かぁ。俺も風晶も、仙女の知り合いはいないなぁ』
ずれた反応を聞き流し、芳親の意識は「歪」の一文字に集中する。育ててくれた仙女からも言われた言葉だ。
『――男子よ。残念なことに、お前は〈特使〉なる奇妙なモノに選ばれてしまったのだ』
今よりもずっと何も知らず、名前すらなかった彼に、便宜を図って「芳紅」と名乗ってくれた仙女はそう言った。良くないことなのかと問えば、『ああ、良くないだろうな』とも。
『人間側のみならず、妖怪や神仙にも詳細が知られておらぬ存在ゆえ、何か不都合な事情が隠されているのは間違いない。そもそも、妖雛なる存在が絶えないというのがおかしな話よ。人は人、妖は妖。理の壁を崩し、二つの気が一つの魂に宿るなど、どう考えても歪というものだ』
忌々しげながら、『だが』と深く落ち着いた声が続く。
『そう判じる暇もなく、人ならざるモノの力を持たされた童や若人を、無理やり兵に仕立て上げねばならぬほど、物の怪の脅威が衰えておらぬこともまた事実。始祖とも呼べる名前持ち、極大の物の怪に至っては未だに健在。このままいけば、人間の方が先に斃れることとなろうな』
「境田芳親」
懐かしく遠い声に、無遠慮で無機質な声が割って入る。ぼうっと過去を思い出していた芳親を呼び戻したのは、彫像のように立ち続けていた雷吼丸だった。
彼が自発的に話しかけてくるような動機は、おそらく無い。となると、雷雅が何か言ったのだろうか――芳親はすぐ、小箱に視線を向ける。
「……雷雅、何か、訊いた?」
『お礼なら言ったよー。あ、それと一つだけ。君と志乃は、内外から大きな力の影響を受ける。だから、自分だけじゃなくて、お互いに気を付け合ってねー。駄目になっちゃったら、面白くなくなっちゃうからさぁ』
忠告めいた言葉は、最後の一言で台無しになった。が、その一言は良くも悪くも雷雅という鬼を如実に表す内容だったため、妙にしっくりきてしまう。
窺えるのは、退屈を紛らわしてくれる玩具がなくなりませんようにという、純粋で勝手な願望だ。人情など持たない、持っていたとしても酷薄な、妖怪ならではの願望。それでも、案じられていることは事実のため、芳親は素直に受け取っておくことにした。
「ありがとう。……気を、付ける。……もう、戻らなきゃ。……紀定に、怒られるの……好きじゃない、し」
『そーお? じゃあ、またねー。君たちのことは、引き続き雷吼丸に見ててもらうけど』
「うん。……また、ね」
別れを告げるなり、芳親は早々に踵を返す。来た時と同様、跳躍するように駆け去る彼を尻目に、雷吼丸も通信を切って姿を消した。残されたのはただ、明けることなき夜の深閑のみ。
幽世の夜は果てがなく、黎明を知らない。けれど、無常の現世を包むのは暁闇、いずれ夜明けがやって来る。
漸うと白くなりゆくは、妖雛たちの視界も同じく。目覚めたての若人が見るのは、果たして。




