1
「働く、言うたかてなあ」
俺は自分の部屋でコーヒーを手に溜め息をついた。
「どっから手をつけたらええもんか、わからへんやないか」
「そうだね、だけど」
克也は床にあぐらを組んだ俺の前で、同じようにあぐらをかきながら、そっと掌でカップを包んだ。
「きっと頼子が関わっているんだろうな」
「そうや、その頼子、というのはいったい誰なんや」
俺は勢い込んで聞いてしまい、少し怯んでためらった。それから、それが克也に覚られないように、急いでことばを続けた。
「おまえの何なんや」
「僕の何って…」
克也はわずかに赤くなった。それが無性に腹立たしく、俺は克也から目を逸らせ、ついでに話も逸らせた。
「まあええわ。とりあえず、姉きも言ってたように、何で克也が『京』に紛れ込むになったかを聞こか」
俺は一息ついてことばを続けた。
「昨夜いったい、何をしてたんや? 何でここに来ることになったんや?」
「うん、僕はきのう…頼子を追ってたんだ」
克也は不安そうな優しい声で話し出した。
僕は今京都の高校に通っているけど、元々は東京の方にいた。両親が海外転勤になってしまったから、京都の祖母のところに下宿している形になっている。
頼子は夏休みを利用して、京都に来ていた。祇園の舞妓を見に行きたいと言っていて、それで『一力』の赤塀の近くで待ち合わせていた。
蒸し暑い日だったから、そのあたりで食事をしてから祇園から先斗町あたりをのんびり歩こうと思ってた。細い路地を入ったところに祖母の知り合いがやっている店があって、そこを出てから夕方の街をぶらぶらしていた。
頼子はすごく楽しみにしていて、デジカメの電池を確かめたり、話しかけても大丈夫かと心配したりしていた。頼子が一時、舞妓になりたいと言ってたのを知ってたから、僕は彼女が興奮してるのがかわいかった。
(かわいい、やて?)
ちくんと胸が痛んだ。
(そおか、頼子、いうのは、こいつにとって『かわいい』、んや)
この先を聞く気が急に失せて、俺はうんざりした気持ちを持て余し、慌ててコーヒーを口に含んだ。
(もう、ええわ、わかったし)
投げやりに言ってしまいそうになる。
何がわかったのか、なぜ克也がここに紛れ込んできたのか、それに頼子というのがどう関わっているのか、全くわかっていないのに、ましてや、姉きに頼まれた『辻封じ』を壊した奴らの企みについても一切わかっていないのに、俺は『わかってしまった』気になっている。
(何がわかったんや、俺は)
克也の気持ちやろ。
そう別の声が胸から響いてぎょっとする。
(克也の、気持ち?)
俺はそんなことを聞くために、克也と話してたのか?
「達夜?」
ふい、と急に克也にのぞき込まれて、とっさに身を引いた。
「どうしたの? わからない?」
「あ、いや、すまん、続けてくれ」
口元を覆いながらうなる。
(あほう)
どくどくどくどく。体が波打っている。
(急に寄ってくんな……また…口がつくやんか)
また、口が。
あいつに。克也に。克也の……。
(あかん、俺おかしい)
どこに、と考えかけた俺の思考を次の克也のことばが断ち切った。
先斗町だった、と思う。四条河原町の交差点を東に入って上がる細い通りだ。路地は石畳になっていて、水が打たれていて空気は清洌だった。通りから入り込んだせいなのか、人気が急になくなって静かになった。
静かだね、と頼子がつぶやいて体を寄せてきた。通りを入っただけなのに、これほど静かになるのかな、と。さあね、と答えたときに、斜め前の家の引き戸がからからと軽い音をたてて開いた。
「おかあはん、おおきに」「ほな行ってきます」。軽やかな女性の声が響いて数人の舞妓が出てくるのが見えた。黒の着物を着て、銀色のさらさらと揺れる簪をつけていた。頼子が、あ、ラッキー、と叫んで走り寄ったのを見送った僕は、次の一瞬息を呑んだ。
頼子の声に振り返った舞妓は数人、けれど、その誰にも顔がなかったんだ。
真っ白に塗った顔に真っ赤な口紅がぽつりと浮いてた。他には眉も目も鼻もない。けれど、気配だけは笑いさざめくようにふらふらと頭を振りながら、足元のげたをかたかた鳴らしてみるみる頼子に近寄ったんだ。




