第三十五話 白い手
2016.9.17に、加筆・修正いたしました。
重い瞼を持ち上げる。
薄暗い部屋、何時か見た天井。
思い出がふつふつと湧きあがり、慌てて身体を起こして周囲を見渡す。
軋んだベットの音。肌触りの良いシーツ。
2面の壁にびっしりと詰まった蔵書の数々。
種類事に整理され、埃のひとつも着いていない。
窓辺に勉強机が置かれていて、6歳の誕生日にお父様から贈られたマホガニー製の高価な代物。
椅子はお母様が贈ってくれた。『何れ大きく成ったら買い替えないといけないわね♪』なんて言ってた。
約30畳。20坪。66.11㎡。
部屋の中央に天球儀やパソコンなどの電子機器。
6面に増設したモニターの前に、家族3人が映った写真が立ててある。
「此処....ボクの部屋だ....」
間違うはずがない。ドアに据え付けた姿見で身体を映し頬を抓れば自覚する。
顔も身長も何もかも変わっていない。
あの時と同じ。2年と少し前の"9歳の時のボク"。
お父様とお母様が『いつか帰って来る』と幻想を抱いていたあの頃だ。
「夢だったの? 師匠もカルアさんもエリーもカイもメルも.....あの亡くなった人達も.....」
着ている服はいつかのパジャマ。お母様が選んで買ってくれた女の子っぽい物。
慌てて胸の音素文字を探して見ても――
「無い.....」
風竜との絆。ドラゴンの契約者の証。
左胸の心臓近くにあったはずだ! 黒くて刺青みたいなヘンテコな文字が!
ソレが無いなんて.....嘘でしょ? ねぇ!! 誰か嘘だって言ってよ!!
恐怖感。虚無感。孤独感。
それらの感情で身体が震える。
ボクな長い夢を見ていたの?
まるで胡蝶の夢。現実なのか夢なのか、曖昧な世界でボクは何をした?
大好きな師匠は幻なの? ボクが思い描いたあの人は、実際に存在しないの?
それともコレが夢? 本物のボクは眠っていて夢を見ているの?
何度頬を抓っても痛覚を感じてしまう。
震える身体を抱き締め屋敷の中を歩き周り、あの時と何も変化は見受けられない。
防音室もリビングもキッチンも――お父様とお母様の寝室も。
「嫌だよ....」
夢だなんて信じたくない。
幻だなんて嘘だ。
ボクはまた家族を失うの?
『ずっと一緒に』って約束を破った罰がこれなの?
ねぇ....返して? ボクの大好きな人を返してよ!
優しい人なんだ。支えてくれる大事な人なんだ。ボクが居ないとあの人は――師匠はきっと泣いてしまう。
"2人で生きた"。お父様とお母様を失って、ボクは死ぬ事もできずに彷徨って、辿り着いた場所に師匠が居たんだ。
面倒事が苦手。ずぼらで放って置くとずーっと同じ服を着てて臭いすら気にしない。
ごはんよりお酒が好き。おかずを『酒の肴だ』なんて言い出しちゃう。
黙っていれば美人さん。寝顔も綺麗だけどお腹を出して平気で掻いちゃう。
でもとっても頼れるカッコイイ人。ボクを『家族』と呼んでくれた。
残念な一面もあるけど優しい。ボクの傍で身守り続けてくれる。
「アレは夢じゃないよ。師匠は実在するんだ。ボクの大好きな人が居ない世界なんてありえない」
キッチンで包丁を手に腕を斬り付ける。
お父様とお母様から頂いた身体。
おかしいな? 痛い。コレは夢のはずなのに痛いんだ。
なんで? どうして? わかんないよ。
「そうか。足りないんだ」
何度も切り裂き血が滴る。
床が真紅に染まりやがて寒気が訪れた。
「おかしいね? 夢なのに痛いし寒いよ?」
誰も居ない。居るはずがない。此処はボクの家で独りで住んでた。
もう立つ力も無い。何でだろう? 夢なのに。
早く目覚めて? いつまで寝てるの? ボクはねぼすけさんだね?
逢いたい。逢って頭を撫でて欲しい。いつもみたいに微笑んでくれる?
大好きなんです。ボクは師匠が大好き。約束を破ってごめんなさい。
怒っているんですか? だからボクはこんな仕打ちを受けているの?
いくらでも謝ります。ごめんなさい。ボクが悪いんです。約束を守れなかったから。
でもお願いだから...お願いだから戻して....
寂しいよ。悲しいよ。怖いよ。
ねぇ? 冗談なんでしょ?
コレは悪い夢で、ボクはいつもみたいに師匠の腕に抱かれて寝ているんですよね?
ダメなんです。ボクはもう独りで生きていけないんです。
貴女の傍じゃないと辛いんです。
「たすけて...ししょう....」
瞼が重い。そうか。寝るんだ。起きたら師匠に逢えるよね?
そうだよ。あはは♪ そうなんだ♪
よかった。おやすみなさい――
漆黒の闇に薄ら笑いを浮かべた少女が一人。
長い白髪。赤い瞳。肌は白く黒いドレス姿が異様さを醸し出す。
「ふふふ....」
床に転がるモノを見下ろし、少女の口角がつり上がる。
ビチャリと鳴った水音。閉められたカーテンの隙間から明かりが零れ周囲を照らす。
風も無いのに揺れている。部屋の空気が揺らいでいる。
そして少女の眼下に転がるモノは――小さな子供。
全身を赤黒く染めた黒い髪の男の子。
時折聞こえる呼吸音が"生きている"と認識させた。
「ふふふ....」
2度目の嗤い声。
可笑しくて楽しくて仕方が無い。
初めて玩具を与えられた子供の様に、少女は男の子――カオルに跨る。
「ねぇ? カオル?」
返答は無い。生死の境を彷徨うカオルにそんな膂力は一切無かった。
「今...楽にしてあげるわ....」
這い伸びる白い手。何時かの様にカオルの首を絞め始める。
ミシミシと音を立てた首の骨。
人の身にありえない握力。
苦痛から目を開けたカオルが苦悶の声を上げた。
「だ...れ....」
「私よ? カオル」
ぼやける視界に映る光景。
赤い瞳に白い腕。
あの時と同じ。カオルが死したあの時と。
「し...しょ....」
「逢いたいのね? 逢いに行きなさい」
明滅する世界。
脳へ行き渡らない血液が酸素を送れず、カオルの見る光景が点滅する。
「ぁ...ぐっ....」
数瞬後。ゴキリと骨が折れカオルは息絶えた。
満足気に手を離す少女。
血塗られた2人。辺りに血臭が充満している。
「さようなら。"お兄様"? またよ?」
悲しげに少女がそう告げて、空間が割れ世界は崩壊した。