侯爵閣下の初夜のお相手
たくさんのブックマークと評価、ありがとうございます。
アシュリーがヒロインの話も考えてはいるんですが……とりあえず、主役カプのイチャラブを書こうかなと。
タイトルからおわかり頂けると思いますが、“初夜”がテーマ(?)の話になりますので、ご注意ください。恋愛成分三割増し(当社比)でお送りします。
それでは、お楽しみください。
陽もとうに落ち。昼間の晴天に続き雲一つない空には美しい月が、まるでこの夜を祝福するかのように柔らかな光を放っている。
一方、帝都のとある豪奢な邸の中では……。
そんな穏やかな夜空には似つかわしくない表情の男が、妻の部屋の前をウロウロと歩き回っていた。その姿は完全に不審者のそれであるが、そのことを指摘できるものは誰もいない。
(ラヴィ……)
切なく目の前の扉を見つめる男――セオドアは迷っていた。仕事であればどれほど難しい案件であっても瞬時に判断し最適な決断を下すことができる、有能と名高い彼は……心底悩んでいた。
この扉を開けるべきか、開けずに自分の寝室へと引き返すべきか。
(……くっ、なぜ私は寝室を分けてしまったんだ!?)
無事に結婚式を終えたその夜に浮かぶには今さら過ぎる疑問である。
実は、想い続けた彼女が結婚――という身請け話――を受け入れてくれる前から、この邸には彼女のための部屋が用意されていた。“必ず手に入れる”という決意として作らせておいたものだ。室内の調度品はもちろん、壁紙や窓ガラスに至るまで、彼女に相応しい最高級の物をセオドア自らが厳選し揃えている。
満足のいく部屋になった、と自負していた。……昨日までは。
何が悪かったのかと聞かれれば、彼女が快適に過ごせることを第一にと考えるあまり、うっかりその空間から他人を排除してしまったことだろう。
(別に初夜に拘るつもりはないのだ。ラヴィとて、今日の式で疲れているだろうし……)
おかしい。この部屋の前に着いた当初は、彼女と今日という特別な夜を一緒に過ごそうと思っていたはずなのだが。なぜ、扉をノックする前に彼女がそれを望んでいない可能性など考えてしまったのか……と後悔しても遅い。
時間が経てば経つほど気弱になってしまう程度に、セオドアは彼女に対してのみ悲観的だった。
しかし、初夜の晩に花嫁のもとを訪れない夫というのはどうなのか。ただでさえ、普通とは言い難い形で娶ったのだし。……何より、この結婚に至るまでの間、仮にも同じ邸に住んでいるというのに彼女と一度も寝台を共にしていない。
「…………」
いつだって彼女に触れたいと思う。
彼女はセオドアが望めば、拒むことなく変わらぬ笑顔で彼を受け入れてくれるだろう。客と娼婦という、ある種一方的な関係だった今までのように。
もっとも、セオドア自身は一度として彼女を娼婦として扱ったつもりはないが。
(ラヴィはそう思ってはいないかもしれん)
この扉を開けて、もしも彼女が客に見せる笑顔で自分を迎え入れたら……。
◇◇◇
(妻の部屋に入るのに、何をそんなに悩むことがあるのかしら)
かれこれ一時間近く扉の前から動かない気配に、彼女――ラヴィニアは溜め息を吐いた。
まあ、夫の考えていることはなんとなく想像がつく。彼はラヴィニアとの普通の婚姻関係を望んでいるのだ。打算の混じることのない純粋な愛情によってのみ繋がる関係でありたいのだろう。
(意外とロマンチストなのよね、旦那様って)
世間では“人間嫌いの皮肉屋”で通っている彼を夢想家と評せるのは、帝国広しといえどもラヴィニアだけだ。
そんな彼をどうするべきか、しばし悩む。
別に初夜などという今さらなもの、ラヴィニアとしてはさほど重要には思えない。ならば、このまま夫のことは放置しておこうか。
「……っ、ふふっ」
ふと、朝まで彼女の部屋の前から動けない夫を想像し、思わず吹き出してしまった。おおいにありえる。
(ホント、旦那様って楽しい人よね。もう、悩むくらいなら最初から寝室を同じにしておけば良いのに。相変わらず……ズレてるっていうか、なんというか)
普通は、嫁いで来て完全に寝室が分けられていたら、相手の愛情を疑いたくなるものだ。寝台を分けるのは、夫婦の営みを行いたくないという意思に取られても仕方がない。……そう、普通であれば。
(ホント……馬鹿みたいに愛されてるわね)
初めてこの部屋へと案内されたとき、ラヴィニアは少しだけ、本当に少しだけ途方に暮れた。一目見て、金も時間も惜しみなく使ったであろうことがわかったから。自らの財力を誇示するためではなく、彼女のためだけを考えて作られた部屋だったから。
ここは、ラヴィニア以上に彼女の好みを理解し、彼女が快適に過ごせることに腐心したのが伝わってくる、そんな愛情に溢れた場所だった。
だから、ラヴィニアは彼の愛情を疑ったことはない。不器用な、そのくせ妙に温かな想いを。
彼は十分過ぎるほどの愛情を示してくれている。それが伝わるから、ラヴィニアは何も不安に感じない。しかし、彼はそうではないのだろう。
(要するに、旦那様が不安になるのは私の愛情の示し方が足りないから……ってことよね?)
ならば、息もできなくなるような溺れるほどの愛を捧げよう。
今までは職業柄より愛されることに重点をおいてきたが、別に愛することが苦手なわけではない。彼がそれを望むなら、世界中の誰よりも深く強く愛してみせる。
きっと朝になっても決心がつかないであろう男のために、ラヴィニアは部屋の扉を開けた。
「ねえ、旦那様。いつまでそこにいるつもりなの?」
「ラヴィ!」
「まさか……こんな夜に花嫁を一人にする気じゃないわよね」
予想と違うことなく難しい表情で立ち尽くしていたセオドアに、彼女はにっこりと微笑みかける。少しだけ、彼から自分のもとに来なかったのを責める意味合いも込めて。
しかし、てっきり焦ったように弁解してくると思っていた彼は、なぜか打ちのめされたような顔で小さく唇を震わせた。
「ラヴィ……私達は今日から夫婦になったわけだが」
どこか思い詰めた様子でそんな当たり前のことをいうセオドアに首を傾げる。侯爵家にしてはささやかだったとはいえ、きちんと式まで挙げたのに何を今さら。
「そうね。神様にも誓ってきたわ」
「だから、我々は対等だ」
「?」
「嫌なことは拒んで良いし、無理に笑みを作る必要はないのだよ。言っただろう? 私がきみに望むのは――ただ傍にいる、それだけだと」
真剣な声音で“きみが私を受け入れてくれるまで待つ”と言って、彼はあっさりラヴィニアに背を向けた。
(は? 何、どういう意味なの?)
受け入れる?
そんなのとっくの昔に受け入れている。いつ彼女が“無理に笑みを作った”というのだ。
瞬間、湧き上がったのは――ラヴィニアにとっては極めて珍しいことに――怒りだった。頭の中の冷静な部分は、このままセオドアを行かせて、少し時間をおいてから話をしろと訴えている。それが正しい対処法だと。
けれど、気づけばラヴィニアは彼の服の裾をしっかりと握りしめていた。
「ラヴィ?」
「……どういう意味ですか? 私がいつあなたに作った笑みを見せたと?」
「きみを責めているわけではないのだよ。私は少し前まできみの客だった男だ。急にきみの特別になれると思えるほど楽天家ではない」
「…………」
「きみがなんのために……誰のために私との結婚を了承したのかはわかっている」
なるほど。この男は、彼女がこの結婚を了承したのは打算だけだと言いたいらしい。つまり、ラヴィニアの愛情は一欠片とて彼には伝わっていなかったわけだ。
(馬鹿にしてくれるわ)
娼婦だから愛情のない結婚でも簡単に受け入れると思ったのだろうか。娼婦だから金払いの良い客なら好きでなくとも媚を売ると?
例え、千夜を共にしても娼婦であるなら情など持たないと……。
「旦那様は、私が娼婦であったことが気に入りませんか」
「そんなことはない! 私はありのままのきみを、あ……愛している、と」
「でも、私が娼婦だからあなたとの結婚を受け入れたとお思いなのでしょう?」
「そ、それは……」
「私はあなたを愛してなどいないと」
「……っ」
言わせた方が傷ついた顔をするのはズルいと思う。
でも、なぜかその表情を見ると怒りが萎んでしまうのだから、意外と彼は性質の悪い男なのかもしれない。あっさり許してしまいそうになる自分に、自然と溜め息が漏れた。
「確かに……私はアシュリーのために結婚を決めたわ」
きっかけは間違いなくそれだ。初めて身請け話を聞いたときは“考えさせて”と答えたけれど、本当は彼にとってマイナスにしかならない結婚を受けるつもりはなかった。身を退く、というほど健気な感情ではなかったけれど。苦労はかけたくないと、負担になりたくないと……幸せになってほしいと思う程度には好意があったのだから。
「でも、それは相手がセオドア様だからよ」
彼でなければ、ラヴィニアはもっと別の方法を考えた。自己犠牲の精神なんてものは持ち合わせていないと自分が一番知っている。
なぜ、わからないのだろう。
セオドアでもなく、アシュリーでもなく……ラヴィニア自身が望んだからここにいるというのに。
「私は……きみにとって、少しは“特別”なのかね?」
「ええ、もちろん」
「だが……」
駆け引きを楽しむ彼女にしては珍しくストレートに好意を示したというのに、セオドアはやはりどこか苦しげに言葉を続けた。
「だが、私に向ける笑顔は客へのそれだろう」
口に出したことで吹っ切れたのか、セオドアは先程までとは違う強い眼差しでラヴィニアを見つめる。その視線は、まるで彼女の心を覗こうとするかのようだ。
「いつでも笑みを浮かべて迎え入れてくれるのは、私がきみにとって客だからじゃないのかね?」
「……私、そんなにいつも笑っているかしら?」
「ああ」
彼のはっきりとした肯定に、思わず口元を隠していた。……顔が熱い。だって、それは――。
「あなたに会えて嬉しいからでしょう。店にいたときと同じよ。会いに来てくれたと、会いたいと思ってくれたと感じるから」
照れる、それはこんなにもムズムズと心を落ち着かなくさせるものなのか。なんだか少し心臓に悪い感情だ。決して嫌な気分でないところも含めて。
「…………」
そんな、初めての感情に戸惑うラヴィニアに、セオドアもまた心を掻き乱されていた。
何気ない言葉なのかもしれない。彼女の想いが、自分のものと同じだとも思わない。けれど、彼女の心にセオドアは確かにいるのだと、そう言われた気がした。
目頭が熱い。喉の奥から言葉にならない何かが込み上げてくる。……彼女が好きだ。愛している。なのに、今までよりもさらに深いところに堕ちていく。
「……っ、私も、私も嬉しいと思っている。きみと会えて。きみの傍にいられて」
その想いの強さを示すような力で、ラヴィニアはぎゅっと抱き締められていた。言葉でなど伝えきれないとばかりに。
これまでの抱擁と何も変わらないはずのそれは、なぜかラヴィニアを温かく満たす。
「ラヴィ……」
自然と近づく互いの吐息に、このまま瞳を閉じてすべてをゆだねてしまいたい気がしないでもない。きっと、彼もそれを望んでいる。でも……だからこそ、思い通りになんてなってあげない。
「ねぇ、私の愛を疑ったのだから……今度は私がセオドア様の愛を確かめる番よね? 私達は対等なんですもの」
触れる寸前だったセオドアの唇を優しく指で押しやる。
一瞬前までの柔らかな雰囲気などどこにもなかった。にっこりと極上の笑顔を浮かべたラヴィニアを見て、これを“嬉しい笑顔”だと思えるものはいないだろう。そして、その笑顔の意味は正しくセオドアにも伝わったようだ。
「ラヴィニア……怒っているのかね?」
「愛情を疑われて怒らない女はいないでしょう?」
もちろん怒っている。
だから、彼にはこの想いを受けとめてもらわなければ。
「今夜は寝かせませんよ、セオドア様?」
口の端を引き攣らせ冷や汗をかく彼を部屋へと引き入れ、ラヴィニアはそっと扉を閉めた。
◇◇◇
彼女の指が、触れるか触れないかという絶妙な加減で身体の上を滑っていく。そのもどかしい刺激に眉根を寄せれば、くすりと笑い、不意打ちのように敏感なところへと爪をたてられた。
「……っ」
その刺激に息を詰める。
そんなささやかな反応を楽しむように、ラヴィニアは彼を弄る手を止め、愛おしげに囁きかけた。
「どうかしました、旦那様?」
柔らかな笑みを形作る唇から漏れる慈愛に満ちた声と、それを裏切る獲物を甚振る猫のような愉悦を孕んだ瞳がセオドアを翻弄する。
身体を疼かせる熱に、頭が煮えてしまいそうだ。
それでも、溶けかけた思考の中、彼はこの甘い責め苦に耐える。――“セオドア様からは触れないで”というのが、彼女が出した和解の条件だったから。
「それ、気に入ってるの。千切らないでくださいね」
「……善処するよ」
「ふふ、解いてほしい?」
彼女の視線の先……セオドアの両手を柔らかに縛めているのは、ラヴィニアが夜着の上に羽織っていたストールだ。簡単に引き千切れるであろう繊細なレースをあしらったそれは、確かな拘束力を持って彼の自由を奪っていた。
「きみの好きにすると良い。私は罰を受ける立場だからね」
「素直なのは良いことだけど。……その言い方は減点ね」
“減点”などと言いながら、ラヴィニアの顔には変わらず笑みが浮かんでいる。彼女のこんな嗜虐的な一面すらも愛してしまえる自分は、いったいどこまで堕ちていくのだろう。
「ラヴィ……」
ラヴィニアという存在に囚われた男には、ただ彼女に許しを乞うことしかできない。
(ああ……そうか)
ふと気づいた。
今までずっと彼女を手に入れたいと願ってきたが、本当はとうの昔に……それこそこの想いを自覚したときから、自分は彼女のものになっていたのだと。
(私は、きみの望むがままだよ)
血の一滴から髪の毛一本に至るまで、セオドアのすべては彼女のものだ。ラヴィニアになら永遠すらも誓ってみせる。
朝も、昼も、夜も――これから先のすべての時間を、彼女に。
(だから、どうか……私の隣で)
幸せになってほしい。
「セオドア様?」
「……きみの好きにしてくれ」
「! ……後悔しても知らないわよ」
「しないよ」
なんの気負いもなく答えた彼に、ラヴィニアは少しだけ眼を細めた。それは、どこか悔しげにも、満足そうにも見える。
「前言撤回は認めないから」
その言葉とともに、念押しするかのように口付けられた。
夜はまだ長い。
――――彼女の気が済むまで弄られるのが、セオドアの夫としての最初の務めになりそうだ。
“寝かせない”という宣言通り、空が白み始めるまでひとときの休息すらも与えてはもらえなかった。セオドアを一晩中甘く苛み続けた張本人は、十分に満足したのか、今は微かな寝息をたて上掛けに包まっている。
やはり疲れていたのだろう。
口には出さなかったが、結婚式やそれに伴う諸々に煩わしい思いをしていたに違いない。
彼女を起こさぬよう細心の注意を払いながら、そっと上掛けを捲る。
「…………」
どれほど彼女と夜を迎えても、彼女の寝顔を見たことはなかった。
少しでも彼女が休める時間を作ろうと、朝日が昇る前には店を出るのが自分の中での決め事だったから。……客として彼女を買っておいて、なんという自己満足かと何度となく己を嗤ったが、結局やめることはできなかった。
「ラヴィ……」
彼女の名前を囁く。
瞳を閉じて穏やかに眠る彼女は普段よりもずっと幼く見えた。
「ラヴィ」
もう一度、今度はよりはっきりとその名を口にする。
たったそれだけのことで、“愛している”という言葉では伝えきれない想いを伝えられる気がするのは、セオドアにとって彼女の名が特別だからなのか。
どうしようもないほど……彼女への愛おしさが込み上げてくる。幸せすぎて胸が苦しくなるなんて初めて知った。自分は今、間違いなく満たされているのだ。
「ラヴィニア」
彼を狂わせるただ一つの存在に。
◇◇◇
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
読者の皆様が求めてくださったものが書けているのか疑問ではありますが、吉遊なりに精一杯恋愛成分を盛り込んでみました。
本編では蔑ろにされていたセオドアですが、ちゃんと幸せになったんだよということが伝わっていたら幸いです。
不定期になるとは思いますが、これからもポツポツとこぼれ話を書いていくつもりなので、よろしくお願いします。