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『ハシバミの木が芽吹く頃』 第1話:暗闇に響く不協和音

1


煤と研磨粉の匂いが立ち込める地下工房に、規則正しい金属音が響いていた。


シャリ、シャリ、と、水を含ませた研磨盤が回転し、石の表面を微細に削り削ぎ落としていく。


「――違う。まだ、角が立っている」


薄暗いランプの光の下、エリン・ヴェインは作業の手を止め、レンズ越しに掌の上の結晶を覗き込んだ。


二十歳を迎えたばかりの彼女の指先は、同年代の貴族や富裕層の令嬢のような滑らかさとは程遠い。


皮は硬く強張り、親指と人文学指の腹には固いタコがいくつもできていた。


爪の隙間には研磨剤の黒ずみが染み込み、洗っても落ちない。


だが、エリンにとってはこの武骨な手が何よりの誇りであり、外界と自分を繋ぐ唯一の精密機械だった。


エリンには、他の職人や魔導士には聴こえない「音」が聴こえた。 それは耳で聴く音ではない。


研磨盤を通して指先の神経から脳髄へと直接届く、魔導クリスタル固有の「振動」――石の「声」だ。


当時、帝都の魔導学界および装填師ギルドにおいて、魔導器の設計思想は「抑圧」が一色を占めていた。


魔導石が秘める強大な魔力を、いかに強固な外郭と幾重もの幾何学回路で「押さえつけ」、強制的に単一の方向へ噴射させるか。


効率と威力を追求するあまり、石の性質を無視して力任せに加工するのが「一流」とされる時代だった。


だが、エリンに言わせれば、そんなものは職人の仕事ではない。単なる暴力だ。


力でねじ伏せられた結晶は、研磨されている最中も、デバイスに組み込まれた後も、常に微かな悲鳴を上げている。


不協和音となって苛立つ魔力流は、使う者の精神をじわじわと蝕み、最悪の場合は過負荷による暴走事故を引き起こす。


「石を力でねじ伏せるから、反発するのよ……」


エリンは呟き、再び研磨盤のペダルを踏み込んだ。


彼女が削り出そうとしているのは、ギルドの教科書には載っていない異端の構造だった。


石の「声」に耳を澄ませ、元々その原石が持っている魔力の流動軌道をそのまま生かす。無理な圧縮をかけず、滑らかな旋律のように魔力を導く多面体。


「おーい、エリン! まだそんなゴミ溜めみたいなところで油売ってんのか!」


頭上から粗暴な声が降ってきた。階段をドタバタと叩き降りてきたのは、工房の親方であるガルドだった。太った体にエプロンを巻き、酒臭い息を吐き散らしながら、エリンの作業台を覗き込む。


「またそんな妙な削り方して! ギルドから受注した標準型の規格品はどうしたんだ! 明日までに三十個納品なんだぞ!」


「標準型の設計は間違っています、親方。あの削り方では、三ヶ月も使えば内部回路に亀裂が入ります。現に、先月納品した騎士団の予備兵装から異音が――」


「黙れ! 減らず口を叩くな!」


ガルドは激昂し、作業台を叩いた。研磨盤の上の水滴が弾ける。


「学界の偉い先生方が決めた規格に、下っ端の小娘がケチをつける気か! お前がどれだけ石の『声』だのなんだの気取ったところで、実績もない、後ろ盾もない『白金級』でもない奴の言うことなんざ誰も聞きやしねぇんだよ! つべこべ言わずに言われた通りの形に削れ!」


エリンは唇を強く噛み締め、黙って頭を下げた。


反論しても無駄だということを、彼女は痛いほど知っていた。


この時代、装填師はギルドの権威と伝統に縛られていた。個人の技術や新たな理論など、既存の権益を脅かす「異端」として排除されるのがオチだった。


(でも……間違っている。私が聴いているこの声は、絶対に嘘をつかない)


ガルドが捨て台詞を残して階段を上っていくと、地下室には再び静寂が戻った。


エリンは冷たくなった自分の手をそっと胸に当て、深く息を吐いた。暗闇の中、作業台の片隅に置かれた研磨途中の結晶だけが、微かな藍色の光を帯びて、静かに、だが誇り高く脈打っていた。



2


その日の午後、工房の雰囲気が一変した。 表の通りに豪奢な紋章が刻まれた黒塗りの馬車が停まり、重厚な革靴の音が地下室へと続く階段を降りてきたからだ。


ガルド親方が揉み手をして、見たこともないほど腰を低くして案内してきた人物――それは、帝国軍の重臣であり、現皇帝の側近でもあるヴォルフハルト公爵家の当主(後の先代公爵)であった。


引き締まった体躯に、白髪交じりの厳格な面構え。だが、その目元には隠しきれない色濃い疲労と、緊迫した死線の気配が漂っていた。


彼が纏う空気そのものが、まるでいまにも弾け飛びそうな高電圧を帯びているかのようだった。


「公爵閣下! この地下はしがない作業場でして、このような汚いところに閣下のようなお方が来られるなど……! 用件でしたら上で伺いましたのに!」


「構わん。現場の職人に直接話がしたい」


先代公爵の低い声が、地下室の不快な湿気を払い飛ばすように響いた。公爵の視線は、作業台の前にひとり佇むエリンへと向けられた。


「お前がエリン・ヴェインか」


「はい、閣下」


エリンはエプロンで手を拭い、静かに礼をした。動じる様子を見せない彼女を、公爵は鋭い眼光で見つめる。


「帝都で一番偏屈で、ギルドの規格を無視する命知らずの研磨師がいると聞いた。……それがこの若い娘か」


「か、閣下! こいつはただの未熟者でして! 私がしっかりとしつけて――」


「黙っていろ」


公爵の一言で、ガルドは引きつった顔で口をつぐんだ。 公爵は召使いに目配せをし、重厚な鉄製の箱を差し出させた。堅牢な鍵が解除され、蓋が開けられる。


――その瞬間、地下室の温度が上がったかのような錯覚を覚えた。


箱の中に鎮座していたのは、大人の拳ほどの大きさがある、漆黒の魔導原石だった。表面は不規則に荒々しく削り取られ、結晶の奥底からは血のような赤と黒の不気味な光線が明滅している。


「っ……!」


ガルドが思わず後ずさった。訓練された魔導士でなくともわかる。それは「呪い」に近いレベルの、荒ぶる暴走魔力を秘めた極悪な原石だった。


「これは……『黒炎の脈動(シュヴァルツ・パルス)』」


エリンは思わず呟いた。


見ることすら珍しい、規格外の魔力量を誇る高濃度原石。だが同時に、あまりの反発力の強さに、触れた者の精神を壊し、装置に組み込めば即座に破裂を起こすと言われる、悪名高い「開けずの石」だった。


「私のヴォルフハルト家に引き継がれる血は、代々、過剰な魔力を産み出す」


先代公爵は己の右手をじっと見つめた。その皮膚の表面には、うっすらと赤黒い魔力の亀裂(ライン)が浮き出ている。


「強力な魔力は兵器としては重宝されるが、私にとっては身体を内側から焼き尽くす毒だ。これまでギルドの白金級装填師たちにこの原石の加工を頼み、幾重もの『抑圧回路』を刻ませた。……だが、結果はどうだ」


公爵は苦々しく吐き捨てた。


「装置を装着した瞬間、石は反発して爆発し、三人の白金級が廃人になった。抑え込めば抑え込むほど、この石は狂暴さを増す。……私の命も、持ってもあと一年といったところだ」


地下室に重い静寂が降り積もる。 先代公爵は漆黒の原石から目を切り、エリンの直視した。


「ギルドの老いぼれどもは『これ以上の抑圧回路は不可能』と匙を投げた。だが、ある者が私に言ったのだ。『常識を破る異端の削り手なら、あるいは』とな。……娘よ。この狂暴な石を御し、私の魔力を生かす装填器を削れるか?」


ガルドが青ざめた顔でエリンに目配せをする。

「断れ」と顔中で訴えている。失敗すれば公爵家を敵に回し、命の保証はない。


だが、エリンの意識はすでに公爵の言葉からは離れていた。 彼女の全神経は、鉄の箱の中で暴れ回る漆黒の原石へと注がれていた。


(……うるさい。なんて凄まじい叫び声)


エリンの耳には、その石が上げている悲鳴が聴こえていた。


無理やりにねじ切られ、強大な力を狭い檻に押し込められ、荒れ狂う嵐のようになった魔力の渦。白金級の装填師たちは、この嵐をさらに強固な壁で囲もうとしたのだ。それでは石が暴壊するのも当たり前だった。


だが――その猛烈なノイズと嵐の、ほんのわずかな隙間、一番深い核の部分に。 かすかに、だがどこまでも澄んだ、美しい「旋律」の芽が眠っているのを、エリンは聴き逃さなかった。


エリンは一歩踏み出し、素手でその漆黒の原石に触れようとした。


「おい、馬鹿者! 死にたいのか!」


ガルドが叫んだが、エリンの手は迷いなく原石の表面へと触れた。


バチバチッ! と激しい魔力の火花が弾け、エリンの掌の皮膚が焼き焦げる匂いが漂う。激痛が脳を突き抜けた。だが、エリンは顔色一つ変えず、ただじっと目を閉じ、指先から石の「声」を拾い続けた。


「……かわいそうに。こんなに力任せに傷つけられて」


エリンは呟いた。そして目を開けると、真っ直ぐに先代公爵の目を見据えた。


「削れます」


「……何?」


「削れます、閣下。ただし、条件があります。ギルドの定めた抑圧理論はすべて捨てていただきます。私のやり方、私の設計図だけで進めさせてください。一切の口出しは無用です」


ガルドが「不敬だぞ!」と悲鳴を上げたが、先代公爵は手を挙げてそれを制した。 公爵の鋭い瞳に、驚きと、そしてかすかな希望の光が宿る。


「……私の命を賭けるのだ。お前の好きにするがいい。期間は?」


「三日です。三日後、この地下室へお越しください。閣下の命を救う『鍵』をお渡しします」


若き日のエリン・ヴェインの瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。 ただ、ひとりの職人として、目の前の至高の課題に挑むという、冷たくも激しい情熱だけが燃え上がっていたのである。


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