焚き火のそばで語ること
暴力、残酷な描写があります。苦手な方は、申し訳ありませんが、ページを閉じてください。
エラが王都の中央神殿にやって来る。
老神官──神盤官ザルヴァンは、こう言って彼女を呼び寄せた。
「神官エラは、聖域の神殿で同調力が高まりすぎた。このまま留まれば、肉体と魂の均衡が崩れるやもしれぬ」
そんなわけで――
引っ越しの手伝いは、当然、俺の出番ってわけだ。
また、一週間かけて山の中腹にある神殿にクライドと向かった。
茂みが揺れた瞬間、クライドが声を低くした。
「来るぞ。正面、俺が引く。お前は右から回れ」
言われるままに優司が動くと、獣型モンスターが飛び出した。
クライドが馬に乗ったまま槍で進路を逸らし、そこに優司のスコップが食い込む。
逃げようとした進路に、馬から下りたクライドの槍が待ち構えている。
体に槍が刺さった状態で、前方のクライドを引き裂こうと前足を振り回す。
俺はスコップで前足をたたき落とし、獣の顔をめっちゃくちゃに叩いた。
……ゲームのモグラ叩きのごとし。
あまりかっこ良くない死闘の後、モンスターが倒れた。
「やるじゃねぇか、勇者さま」
「いや、お前の誘導が完璧だった」
「こいつの反撃が鈍くなったころに腰の短刀を使えば、もっと早かったとは思うがな」
顔を見合わせて笑う。
「いや待て、クライド。槍が半分くらい貫通した後なら、お前こそ剣を使う余裕あったんじゃないか?」
「あー、ユージの訓練に丁度良かったし……
つーか、剣を使って、血が柄まで垂れるとベタベタして気持ち悪ぃんだよ。しかも、乾くと溝の汚れを落とすの、すげぇ面倒くせぇし。
今日は野営だろ? 細かい手入れとかしたくねぇの」
「お前なぁ……」
何度もこうやって、互いに背中を預けてきた。コンビネーションも、なかなか様になってきたと思う。
牙の鋭い獣型モンスターの解体が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
「こいつ、肉は臭みが少ねぇ。火であぶればイケるぞ」とクライドが笑う。
焚き火の上で脂がはぜ、香ばしい匂いが辺りに広がる。
「うまいな、これ」
優司が串を手に、目を見開いた。
「だろ? 塩だけでもいけるけど、コショウがあれば文句なしなんだがな」
空を見上げながら、クライドが豪快にかぶりつく。
おもむろに、エラにもらったコショウを出す。
「早く出せよぉ! ……で、エラさんとどうなってんのよ?」
クライドの串に振りかけようとした手を止め、無言で自分の串の方に振る。そのままコショウを革の袋にしまった。
「おいー、ふざけんなって」
ふざけんな、はこっちの台詞だ。おっさんをからかうんじゃない。
異世界の夜風が心地よく、ふたりの体から熱を奪っていく。もう少ししたら、荷車から毛布を二枚とってこよう。
炎の暖かさが、胸に染みる夜だった。
神殿に着くと、エラの荷造りはもう終わっていた。
だが、俺たちの疲れを取るために、二日ほど神殿に滞在することにする。
モンスターを気にしないで眠りたい。
神殿の食堂で、エラが皿を落とした。
食堂は昼時のざわめきに包まれていた。神官見習いたちが長テーブルに並び、パンやスープを前に和やかに話している。
その中で、エラがそっと席を立ち、空の皿を重ねて片付けに向かった。
「……あっ」
小さな破裂音のように、皿が一枚、床に落ちた。
派手な音ではなかった。だが、周囲の空気がわずかにざわついた。
エラは慌てて身を屈め、皿の破片を拾おうとする。
「待って、ケガする」
優司が立ち上がり、彼女より先に破片を拾い上げた。
エラの手がわずかに止まる。
「落としたの、久しぶりだな……ごめんなさい」
エラは小さくつぶやいたが、どこか、声が沈んでいる。
ふと、優司は彼女の手元に視線を向けた。
指の動きが、どこかぎこちない。
左手の小指だけが、不自然に……?
彼女の手が皿を支えたとき、滑らせた位置も、落とした角度も――それに気づいたとたん、全ての違和感が繋がる。
「……エラ、指、どうした?」
問いかけると、エラは一瞬だけ目を伏せた。
まるで、それを悟られたことが、皿を割ったより恥ずかしいことのように。
「昔の怪我で、動かないの」
小さな声だった。
けれど、食堂には不自然なほどの静けさが広がった。
誰もが聞こえていないふりをして、黙ったまま視線を逸らす。
聞き返すこともできず、優司はそっと身を引いた。
箒とちりとりを持った神官見習いが無言で近づき、割れた皿の前にひざをつく。
エラは何事もなかったように立ち上がり、小声でお礼を言うと、トレイを持って静かに歩き出す。
その背中を、優司は目で追った。
(昔の怪我……か)
彼女がそう言ったとき、ほんの一瞬だけ、まぶたが震えたのを見逃さなかった。
王都へ向かう道中、野営地で火を囲んでいたときのことだ。
優司が、そっと手袋を差し出した。
「夜、冷えてきたら……古傷が痛むかもしれないだろ?」
エラは目を瞬かせて、それを受け取る。
「これ、神殿の仕立て部屋の……?」
「うん。頼んだら、数時間で作ってくれたよ。時間がなかったから五本指じゃないけど」
優司は少し照れくさそうに笑った。
「お餞別だってさ」
エラは感極まって、まるで宝物のように、手袋を胸にぎゅっと抱きしめた。
その様子に、優司もつい見とれてしまう。
——と、その空気をぶち壊すように、クライドが口を開く。
「……ああ、古傷は大事にしないとな」
甘酸っぱい雰囲気に、砂を撒くような声だった。
エラは、ぽつりぽつりと語り出した。
エラが務める「神の媒介」は、神殿で修行を積んだうえで「神の選別」を受ける。
エラが選ばれたとき、落選した候補者の中に「神殿貴族」の娘がいた。
神殿貴族とは、独身が基本の神官になる者と、有力者と婚姻を結んで子どもを神殿に入れる者とに分けて、勢力を築いてきた一族のこと。
その娘は、自分こそが選ばれると信じていた。
結果が発表された日の夜、エラはその娘に呼び出された。
「身の程を知りなさい」と囁くように言うと、儀式室の扉を静かに閉め、誰もいないのを確認する。
次の瞬間、エラは頬を平手打ちされ、冷たい床に叩きつけられた。
祭壇の横、聖物が入っている棚の鍵を開け、彼女は「聖断の棒」を取り出す。
それは、「神の意思を断ち切る」とされる儀式用の棒。
何度もその棒で殴られた。それで殴れば、エラと神々との繋がりが絶てると思っているかのように執拗に。
その内の一打が左手の指に当たった。
悲鳴を上げても誰も来ない。
神々の像の前で暴行を受けているのに、神の奇跡は起きなかった。
気を失ったエラは、いつ助けられたのか知らない。
高熱が続き、一ヶ月は寝込んだだろうか。
通常、負傷した直後に、治癒の得意な神官にかかれば傷が残ることはない。ショックによる精神的疲労も数日すれば回復するものだ。
だが、聖断の棒についていた聖水晶が割れていて、その破片が体内にあるために治癒ができないと言われた。
治療を拒まれてしまえば、自然に回復するのを待つしかない。
それ以来、エラの小指はわずかに曲がったまま、動かなくなった。
エラは視線を外し、深いため息をついた。
「あなたは平民なんだから、選ばれなくても構わないでしょう。私は選ばれなければ生まれてきた意味がないのよ……と、彼女は叫んでいたわ。私が役割を奪ったのが、いけないんですって」
手の震えが止まらず、言葉は震えていた。
優司は黙って彼女の手を握った。
「辛かったな」優司の声には優しさと同情が混じった。
「ドランセラ家の聖断事件だな。エラが被害者だったのか」
クライドが、焚き火に木をくべながら口を開いた。
「この国だけじゃない、大陸中に勢力を広げていた神殿貴族が、あっという間に消えた。
神に選ばれた『神の媒介』を半殺しにして、神器である『聖断の棒』を破壊するなんて……神殿関係者にあるまじき行いだからな」
「……私は神の存在は感じますが、信仰が好きではありません」
それは……こんな話を聞いてしまえば、当然だと思えた。
「貴族としてドランセラ家を名乗る者、神殿に入るときに名を捨てるが元はドレンセラの血筋の者__全てが罰せられたんだよな。
財産没収、両手の小指を切断の上、犯罪奴隷に落とされた。
それまで周りにいた取り巻きは、誰もかばおうとしなかったらしいな」
「……莫大な富だったでしょうね」エラはとても冷えた声を出した。
『これで一件落着ですね』
そう言った高位神官の口元には、淡い笑みが浮かんでいたという。
なぜ、修行を終えただけの少女が、聖物の棚の鍵を持っていたのか。
なぜ、巡回しているはずの神殿騎士が現れなかったのか。
――私は、あのとき誰にも助けてもらえなかった。神にも、神殿にも。
後になって、罰という制裁が正義のようにふるわれたが、エラの心を慰めはしない。
「財産を没収しても、私には何も入ってこなかったのよ。
お見舞いだって、サルヴァン様が来てくださったくらい。
小さな焼き菓子や花束、お人形をもらう他の患者たちが羨ましかった。」
エラはそうつぶやいた。金がほしかったわけではない。だが……。
誰も口にしなかったが、エラを囮にして、一大勢力を葬りたかっただけでは……それを肯定するような沈黙だった。
「利用され、見捨てられた」そんな思いが、今もエラの心を凍らせている。
人々に「神に選ばれて、以前より落ち着いた」と評価されたが、ただ黙ることを覚えただけだ。
エラの声は淡々としていた。怒りも泣きもせず、ただ事実だけを告げるように。だからこそ、優司の胸に突き刺さった。
エラはかすかに笑った。けれどその笑みには、聖女のようなやさしさではなく、長い孤独を抱えた少女のかすかな諦めが混じっていた。
クライドが、わざとらしく肩をすくめて言った。
「じゃあ、頑張ったエラちゃんには──うちのばあちゃんの焼き菓子を進呈しましょう」
そう言って、荷物をごそごそと探り始める。
田舎の素朴な焼き菓子の香りが、エラの心まで、やさしく包んでくれるようだった。
かつて、ベッドの上で痛みと孤独を噛みしめていた、記憶の中の幼いエラまでも……。
エラが焼き菓子を飲み込んでから、少し笑った。
「……クライドさんって、優しいのね」
「は? やめろよ、背中がかゆくなる」
優司もつられて笑う。
そのときふと、昔の記憶がよみがえった。
(……あの番組、今もあるのかな)
「昔さ、テレビで人捜しの番組があったんだ」
そう言いながら、優司はぽつりと語り出す。
「『テレビ』って……えーと、情報を映したり音を流したりできる『魔導具の箱』みたいなもんがあってさ。
その中で、長いあいだ離れ離れになってしまった家族とか、友達を捜す『番組』──イベント? 企画? 祭り?……まあ、そういうのがあったんだ」
言いながら、自分でも説明がまどろっこしいと感じる。
「昔、三歳で別れた娘がさ、もし俺を探してくれたら……なんて想像してたことがある。
感動で泣き崩れるか、怒りで突っぱねるか……。
他人事ながら、どっちになるかハラハラドキドキしながら見てたな。
でさ、ある日いきなり『テレビカメラ』──取材班? 捜す人たちが来るかもって想像したりして。部屋が汚れてたら恥ずかしいからって、こまめに掃除してさ。
……バカみたいな妄想でも、当時の俺には、それが支えだったんだよな」
気まずさを紛らわすように、クライドが無言で酒を取り出した。
モンスターが出てきたときのために、スコップを横に置いておけばいいか。
「ユージの娘さんって、今、いくつ?」
「二十四歳かな」
「……ユージさん、何歳なのですか?」
「ああ、元の世界だと四十五歳だ。黒髪で……白髪も交じってた。
一度死んでから、別の体でこっちの世界に召喚されたんだよ」
あれ、二人とも驚いてるぞ。言ってなかったっけ?
アルコールでいい気分になった俺は、気にせずしゃべり続けた。
「向こうには『成人式』というのがあってね、大人として社会に迎えられる儀式。
町の長老や役人の前で『これから一人前の民として責任を持ちます』と誓うようなものなんだ。
娘が二十歳のときに、着物で出席したいと言ったら……なんていうのも想像してさ、ちょっと貯金してたんだよね。あ、『着物』って、ドレスで正装するみたいな感じ」
今までしゃべったことがないことを口にしているな、と酔いが回った頭のどこかで思う。
「ところがさ、娘が十九歳の年に新型コロナ……疫病が流行って、その年の成人式が中止になったわけ。
次の年の夏になっても収束しないから、心配で、その貯金を持って昔住んでた社宅に行ってみたんだよ。
当時の運送会社は跡形もなくて、新興住宅地になってた」
「娘さんに会えなかったのか」
「うん。それで、使い道のなくなった金で、トラックをデコろうかと思ったわけですよ」
何がおかしいのか分からんが、俺は笑う。
「ユージさんも二十歳のときに、その、『成人式』に行ったのですか?」
「うんにゃ、俺は仕事に行ってた。
嫁に着物を買ってやれなくて、あいつ、洋服で出席したんだよな。
だから、その分も娘には買ってやりたいって気持ちもあったんだ。もう今はレンタルの時代だけどさ。
……あれ、桜が高校生ってコトは、十八歳の成人式が遠くないんじゃね?」
「成人式って十八歳なんですか? 二十歳とおっしゃっていませんでしたか?」
「ああ、ちょっと前に、変わったの。成人年齢の引き下げって」
「??? 決まり事がそんなに簡単に変わるのですか?」
「神託や天の定めではなくて……偉い人が決めたんじゃないかなぁ」
「なんか、適当で、いいな」クライドが笑う。
「だろう? 旨い物も、たくさんある世界だぜ」
「私の家族も、そんな風に私のことを大切に思ってくれていたらいいな……」
振り袖貯金の話か? エラの頭をなでた。
「そうかもしれねぇな。……気持ち悪いとか、思わねぇでくれると嬉しいよ」
いまの俺の荷車は、木製だけど。 こっちの世界でも、ペンキさえあれば……派手に飾ることはできる……なんて話をしたかもしれない。
……ちょっと飲み過ぎました。
そして、酔いが覚めると同時に自覚してしまった。
ああ、俺はエラが好きなんだ。
女性として、抱きしめて慰めて甘やかして……。
……でも、今の俺は、見た目だけが若返った「中身はおっさん」だ。
本当に、十五歳も年下の彼女に惹かれていいのか?
それともこれは、彼女に癒やされた「寂しさの裏返し」にすぎないのか……?
クライド「……今更?」