やさしさの行き先
下ネタあり。
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神殿の長期滞在も五ヶ月を過ぎた。
エラが出迎えてくれるのも、日常の一コマになった。
「今日も、お疲れさまでした」
「おう。肉詰めのパン、うまかったぞ」
彼女は神職らしくない。
いや、神職らしいのかもしれないけど……無理に神の名を語らない。
ただ、淡々と、誰かのために日々を送っている。
俺は、そんな彼女と過ごす時間が好きだった。
元の世界で、俺は浮気された末に、離婚した。
相手は、俺が勤めてる運送会社の社長の息子だった。
娘の親権は取られた。
長距離トラックの仕事じゃ、子育てなんかできるわけないって、そう判断された。
養育費を払うと言ったら、
「慰謝料と相殺でいい。もう連絡してこないで」──そう言われて、関係は完全に断たれた。
俺が仕事でいない間に悪い評判を広めていたらしく、友達も味方になってはくれなかった。
元々、親父が自殺したときに離れたのがいて、残った友達は嫁とも仲がいいやつばかりだったしな。
……だから、心のどこかでずっと、くすぶっていたんだ。
「女ってやつは……」ってな。
自分でも、それが偏見だってわかってた。
でも、拭いきれずにいたんだよ。
そんな疑念が、エラさんを間近で見てるうちに、少しずつ、溶けていくのを感じてた。
彼女の言葉。さりげない気遣い。
目を見て、まっすぐ話すその感じ。
ああ、世の中、全部が全部じゃないんだなって──「女は」なんて、ひとくくりにする必要はなかった。
ほんの少しずつ、そう思えるようになっていた。
それと同時に、困ったことにもなっていた。
体が……反応するのだ。思いがけず、どうしようもなく。
転生してアラサーの体はこんなに楽に動けるのかと喜んでいたが……四十代半ばの枯れた体を懐かしく思うことがあるなんてさ。
……いや、男ってのはね、人前でそうならないようにする術を、若い頃にそれなりに身につけてるんですよ。
学生の頃とか、しょっちゅう試練に立たされるからね。
だけど、こっちは中年になって、もうそういう注意なんかしなくなってたわけ。
もう平気だろう、って油断してたんだよなあ……まさか異世界で再びこの問題にぶち当たるとは、誰が思うかよ。
……ほんと、困ったもんだ。
若い頃みたいに熱くなることも、もうないと思ってた。
けど、エラさんが隣に座って、髪を結いながら笑いかけてくるだけで……
若い頃は、もっと気を張っていた。
困った状態がバレたら、社会的な死だぞと。
……あれ? 俺、どうやって耐えてたんだっけ?
エラさんは、そんな理性の防波堤を、何の悪気もなく乗り越えてくる。
物を取るとき、ふいに近づいてくる。
作業台に並んで座ったとき、肩が触れる。
眠そうにまぶたをこすりながら、寄りかかってくることもあった。
そのたびに、俺は……ほんとに困っていた。
動揺を悟られまいと、無理に立ち上がったり、
何でもないふりして、棚の奥をあさったりして、なんとかやり過ごしていた。
「あれ、急にどうしたんですか」なんて笑われるたび、俺の方が年上なのに、試されてるような気すらしてくる。
いや違う、彼女にそんなつもりはない。
わかってる。頭ではちゃんと理解してる。
──でも、体は思ったより正直だった。
そして、それがまた情けなくて、恥ずかしくて。
異世界に来たって、本能はついてくる。
若返っても、中身が変わるわけじゃない。
なのに、こんなにも揺らいでいる自分がいる。
……ほんと、男ってやつは。
困りながらも、嬉しくて、どこか気恥ずかしいような──そんな半年が過ぎた。
名残惜しさを抱えながら、俺は王都へ戻ることになった。
一か月と少し前、俺は神殿で桜に絶縁を告げた。
あまりにも無責任で、自分勝手な振る舞いに、とうとう見切りをつけたのだ。
言葉が届かない相手は、確かにいる。
こちらが誠意を尽くしても、最初から理解する気がないなら、いくら言葉を重ねても通じ合うことはない──そんな現実を、俺は何度も思い知らされてきた。
──そして今日。
王都の王宮。
振り返ると、そこに桜がいた。
何食わぬ顔で、笑っている。ゾッとした。
「やっほ。神殿でのお勤めごくろーさん。相変わらず、真面目だね」
……こいつは。
本当に、何なんだ。
目の前の空気が一瞬凍る。
公国神殿連絡室の人たちは、俺の表情を見て何かを察したように視線を逸らした。
俺から怒気が漏れ出している。
まずいとはわかっていた。だが、それでも抑えきれなかった。
「……何のつもりで、ここに来た?」
「うーん、労ってあげようかなって。こうして優司に会えるの、久しぶりだし?」
会えて嬉しい、みたいな顔で笑うな。
あの神殿で、俺は心から「もう関わりたくない」と思ったんだ。
「……よく、俺の前に顔を出せたな」
「へ? だって、もう終わったことでしょ? 謝ったじゃん。執念深いのってウケないよ」
桜の目には、俺の苦しみも、怒りも、まるで映っていない。
それどころか、いつも通り──俺に甘えるような目で笑っている。
ああ、そうか。
この子にとっては、「絶縁」も「信頼」も、大して意味のない言葉なんだ。
こいつは、俺の言葉の意味なんて、考えないんだ。
──ほんとうに、何なんだ、こいつは。
でも、もう怒鳴らない。
がっかりもしない。
ただ静かに、俺は距離を取る。それだけだ。
「……謝ったからって、何をしても許されると思うな。何を言っても通じない人間とは、これ以上話したくない」
そう告げて背を向けた俺の後ろで、桜が小さく「ふーん」と気の抜けた声を出した。
まるで、俺の言葉がまったく届いていないかのように。
それからも、何度も待ち伏せされた。
王宮の廊下、訓練場(護身術を習いはじめた)、書庫の片隅……
場所を問わず、まるで偶然を装って待ち伏せしてくる。
「返事ぐらいしてよ」
「無視って失礼じゃない?」
「怒るの長くない? 謝ったよね?」
俺が一言も返さず立ち去っても、彼女はめげない。
次から次へと不平を並べて、責めるような目を向けてくる。
メンタル、強すぎるだろ……。
俺の中で、どれだけ考えた上で絶縁を告げたのか。
それを少しでも想像できるなら、こんなふうに押しかけてくることはないはずなのに。
こいつは、やっぱり何も見ていない。
相手の痛みも、言葉の重さも、全部。
……もしかしたら、桜は心が壊れているのかもしれない。
だが、それならそれで、俺にできることはない。
あれはもう、俺が背負える荷じゃない。
はっきりと、縁を切る言葉を継げることにした。
かつての自分なら言えなかっただろう。
異世界に来て、何度も自分で考え、判断し、自分の軸が確かにあると感じることができた。
その経験が、少しだけ勇気をくれる。
傷つくのが怖くて、誰かを責めるより先に自分を責めていた頃とは違う。
今は守りたいものがあり、進むべき道がある。
だから、断ち切ろう。迷いなく、最後まで言い切るんだ。
はっきりと、縁を切る言葉を継げることにした。
「桜、お前に言わなきゃならないことがある」
仕事帰り、使用人棟に向かう道の脇で、俺は彼女と向かい合った。
「……なによ」
俺が真剣なのが伝わったのか、茶化しては来なかった。
「俺が死んだのは、お前のせいだ」
桜が目を見開いた。
「お前が信号も見ずに飛び出してきたから、俺はハンドル切って、事故って死んだ。異世界転生だの召喚だのは、その後の話だ」
「……そ……そうかも、しれないけど……そのおかげで__」
「俺はお前を責めてない。人殺しをしないですんで、よかったと思ってる。
だけどな、お前の行動がどんな結果を招いたのか。それくらいは自覚しておけよ」
これまでは俺は、桜に配慮して「命を守れた」という言い方をしてきた。
だが、俺の立場からすれば「人殺しにされかけた」ってことなんだ。
桜は目を丸くしたが、泣かなかった。
「それは言葉についても同じだ。お前の言葉が、誰を傷つけるか考えてみろ」
「…………パパに言いつけてやる」
か細い声で、桜が反撃してきた。
「どれだけ偉いのか知らんが、もうここには、お前の『パパの権力』なんか届かねぇぞ」
俺は静かに言い返した。
「お前が異世界で『勇者の力』を手にすることを選んだとき、もう自分の足で立つって決めたんじゃないのか。
親を盾にする生き方は、そのときに捨てたはずだ」
親の威光を振りかざす奴には、どうしても冷静でいられない。
それには理由がある。
俺の親父は、勤めていた会社の社長の息子が酒気帯びで事故を起こしたとき、身代わりで出頭した。
愛社精神に訴えかけられ、後のことはすべて任せてくれと頭を下げられたらしい。
けれど──当然のように、約束は守られなかった。
親父は会社を辞めさせられ、家族に肩身の狭い思いをさせたと詫びた。会社の福利厚生で借りた住宅ローンの一括返済を迫られ、家を手放した。
そして、静かに命を絶った。
それでも、社長もその息子も、葬式にすら来なかった。
二〇〇二年より前で、まだ道路交通法の酒気帯びに対する罰則が緩かった。十万円くらいの罰金……そんなものの肩代わりで親父は死んだ。
口では「家族もまとめて守る」と言いながら、責任から逃げたやつら。
俺は、そんな身勝手な「偉い奴」が、心底嫌いだ。
そして、いざという時に判断を間違った親父のことも……憎んでいるのかもしれない。
俺の事情はさておき、桜はようやく現実を直視したのか、青ざめた顔で黙ってその場を立ち去った。
まだ親の庇護下にある高校生相手に……少し罪悪感はある。
けど、あれ以上関わっていたら、俺の方が壊れていたかもしれない。
……俺は、大切なものを間違えたくないんだ。
それから、桜は俺に付きまとうのをやめた。
魔法の勉強に集中すると聞いて、「ああ、前に進み始めたんだな」と、少し安心した。
だから、その先の話を、俺は知らなかった。
__努力は長くは続かなかったらしい。
「こんなの、ムリだし……覚えたってどうせ才能ないし」
気づけば桜は、城の高級寝具と料理を堪能しながら、侍女たちに囲まれて過ごしていたそうだ。
そして、ある日。
「勇者さまは、私の言うことなら何でも聞いてくださるんですよ。わたしは『聖なる乙女』ですから」
そう、国王に語ったのだ。
「彼がこの国を離れないのも、私のためなんです」
それを聞いた王と重鎮たちは満足げにうなずき、こう評した。
「さすが、勇者を導く聖なる乙女……」
この国の中枢は、夢を見るばかりで現実を見ていなかった。
「両手に花」とは、なりませんでした。
桜は、人から奪おうとするだけでした。
エラが与えようとするのは素敵ですが、与えるだけなのも健全とは言えないんですよね。どうやったら受け取ってもらえるか、優司に頑張っていただきたいところ。
さて、おおよそ10話を予定しているので、折り返し地点です。
引き続き、お付き合いいただけると嬉しいです。