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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
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きれいは汚い、汚いは…… 3

 紅子と葛笠との婚約は、発表された数日間こそ騒ぎになった。だが、結局のところ、これは一般人の結婚が決まったという話題にすぎなかった。紅子と徹との組み合わせであれば、六条と笹倉との後ろめたい関係を裏付ける状況証拠として騒ぎ立てるだけの価値があるかもしれないが、『とある社長令嬢と社長秘書の婚約が内定しました!』などと広く世間に報じられたところで、受け取る側とて『それはおめでとう。でも、だから、なに?』程度の感想を抱くのがせいぜいだろう。ニュースとしての価値もなければ、何日もかけて報道できるほどの面白さもない。


 ただし、このふたりの婚約が、六条と笹倉との関係を疑うマスコミや世間の視線を逸らすためのフェイクであったとしたら、がぜん話は面白くなる。というよりも、フェイクでなければ困るのだろう。これまで、マスコミは、『六条迎一郎は、娘を名のあるコンクールに出場させるため、笹倉巌に口利きを頼んだ。見返りは、六条が笹倉巌の強力な後ろ盾となること。具体的にいえば、紅子と徹の結婚である。つまり、六条紅子は、六条から笹倉に差し出される人質である』と、戦国時代さながらの理屈で六条家を糾弾しようとしてきた。それなのに、紅子と葛笠との結婚が真実であったら、これまでに言い立ててきたことすべてが、自分たちの思い込みによって作られた絵空事だったということになってしまいかねない。


 せっかく六条源一郎を追い詰めるチャンスを無駄にしてなるものかといわんばかりに、多くの報道関係者は、この婚約が偽物である証拠を躍起になって探した。しかしながら、いくら話を聞いて回っても、彼らが望むような話をしてくれる人は出てこなかった。手に入るのは、ひたすら葛笠だけを思い続けてきた紅子の恋が成就したことを喜ぶコメントばかり。六条家三女の橘乃などは、嫁ぎ先がオーナーをしている茅蜩館ホテルのバルコニーから祝いの餅を撒きかねないような勢いで、二人の婚約成立を寿いでいた。

 

 葛笠側の調査も同様で、彼の同僚からも聞き取りをしたものの、竹里冬樹が話したことと内容的に変わらなかった。彼らも『ふたりの関係は、ずっと前から親密であった』と口をそろえた。同じような話にうんざりしている記者たちをさらにうんざりさせたのは、仕事を通して葛笠と知り合いになったという他社の社員たちであった。彼らは、わざわざ寄ってきては葛笠と紅子の『ほのぼのエピソード』を披露したがった。「六条さんは、確かに胡散臭い人かもしれません。でも、火のないところに煙を立てようとするのはダメです。六条さんの件に限らず、『本当に火をつけたわけじゃあるまいし』なんてうそぶいていると、いつか、あなたがたの業界全体が信用を失うことになる。その時に後悔しても遅いですよ」と、冷え冷えとした笑みを浮かべて忠告してきた者もいた。葛笠に同情している者も多かったようだ。ある記者は、菱谷商事のとある社員から「全国区規模で他の男との恋の噂を聞かされるなんて、葛笠さんにとっては苦痛でしかないでしょうに。馬に蹴られればよかったんですよ」と詰られた記者もいたという。

 

 どうやら、この婚約は本物だ。


 取材者たちは、そう結論付けるしかなかった。おかげで、源一郎を糾弾するばかりだった報道は、急速に勢いをなくしている。それでも、世間の傾向などおかまいなしの雑誌もある。例えば『月間レムリア』だ。

 

 不思議な記事ばかりを載せている『月間レムリア』は、今月も張り切って、『戦時日本を支えた最強の予言者と世紀末の予言』と題された荒唐無稽な特集記事を組んでいた。具体的な個人名や社名こそ挙げられていないものの、読む人が読めば、この記事に書かれている最強の予言者とやらは朱音であり、戦後その脅威の予言者とやらを買い取って彼女の告げる未来図を参考にして大きくなったのが六条源一郎と彼が始めた六条コーポレーションだと察することだろう。記事は、『とはいえ、かの予言の巫女姫を買い取るために、六条氏は、いかにして資金の捻出したのだろうか。もしかしたら、その金の出どころは、桐生喬久が託されたと噂されるM資金であったのかもしれない』と、思わせぶりな文章で結ばれていた。いったい、先日落とし穴の中から取材した内容のどこをどうしたらこんな記事になるのやら。紅子は呆れたが、どういうわけか怒る気になれなかった。それどころか、この記事は、みんなに面白がられて、六条家内で回し読みされている。


 落とし穴といえば、『レムリア』と一緒に落ちていた記者が所属する『週刊ティアラ』の今週号にも、六条家関連の記事が掲載されている。

 

 記事の筆者は、落とし穴に落ちた当人で間違いないだろう。彼女は、独自の取材ルートで(さすがに落とし穴に落ちたからだとは書いていなかった)紅子から直接話を聞くことができたとして、実際に紅子と話した時の印象や、初恋を実らせた紅子を祝福する知人からのコメントなどを載せてくれていた。とはいえ、この記事の読ませどころは、紅子本人のことよりも祝福コメントの発信者たちのプロフィールであるようだった。お嬢様学校として名高い学校に通っていただけあって、紅子の同窓生には、社長令嬢はもちろん、政治家や重役の娘、芸道の家元の娘なども多かった。月子から「はしゃぎすぎ」だと叱られた橘乃のコメントも掲載されており、都心の一等地にある老舗高級ホテルのオーナー一族が彼女の嫁ぎ先であることや、彼女の夫の梅宮要が若いながらも同ホテルの東京副総支配人であることなどが書かれている。記事に使われている隠し撮りらしき夫の写真が素敵すぎると、姉の橘乃はこの記事をたいそう気に入っているようだ。紅子も、この記事だけは、スクラップしておこうと思っている。しばらく会っていない友人の近況を知ることができたし、紅子が葛笠に魅力を感じていることをちゃんと書いてくれたからだ。紅子と葛笠との組み合わせを『月とすっぽん』だと表現することもしないし、葛笠のことを美しいロクサーヌに恋する醜いシラノにたとえてもいない。


『週間ティアラ』とは逆に、紅子をもっとも不快にさせたのは、『女性モダン』の記事であった。

 

 『女性モダン』は、これまでも、『六条夕紀にはコンクールに出るだけの実力があるのか?』という記事などで執拗に夕紀と六条家を批判してきた。

 紅子の婚約が本当であったとしても、このまま引き下がるのが悔しかったのだろう。今週の『女性モダン』は、『恋する六条のお嬢様を取り巻く男たち』という記事を載せていた。思わせぶりなタイトルと掲載された写真だけを見れば、紅子が男遊びにうつつを抜かすふしだらな女だと誤解されかねない。しかしながら、なにぶん紅子は6人姉妹の女子校育ちであった。『紅子と取り巻く男』として名前が挙がっているのは、葛笠と冬樹と徹を除けば家族と姉たちの夫とその関係者ばかりでしかない。葛笠については、さすがに足や目が悪いことを嗤うようなことはしていないが、外見にいささか問題のある男として描かれていた。ふざけたことに、この記者は、これで葛笠を誉めているつもりであるようなのだ。なぜならば、シラノは容姿に難があるだけで、心映えも立派だし才能豊かな男だから。

 

「葛笠さんのどこが格好悪いっていうのよ。それに、私が恋多き女みたいに書くなんてあんまりだわ!」

 

 やり場のない怒りをぶつけるように、件の記事が掲載されているページを両手でバンバンと叩きながら、紅子は喚いた。

 

 夕紀のコンクールを数日後に控えたこの日、紅子は、妹たちと共に姉橘乃の嫁ぎ先である茅蜩館ホテル内の写真館を訪れていた。

 本日の主な被写体は夕紀で、コンクール用の衣装を着た写真を撮ってもらうことになっている。衣装は3着。夕紀は、今回を最初で最後のコンクールだと決めている。しかも、自分の実力ではファイナリストにはなれないから、3着目は確実に着る機会がないと断言していた。勝ち進むことができなければ、袖を通さないままになってしまうドレスがあるかもしれない。ならば、せめて写真に残そうということになったのだ。

 

 ちなみに、3着のドレスは、それぞれ橘乃と明子と紫乃からの贈り物である。腕が露わになるドレスを作ることに難色を示していた夕紀を説得してくれたのも橘乃だった。数か月前、橘乃は、「言葉で説得されても納得出来ないだろうから」と、ホテルの貸衣装コーナーが扱う様々なタイプのドレスを夕紀に着せては大宴会場のグランドピアノを弾かせるということをさせてくれた。その結果、夕紀は、コンクールへは自分の好みよりも演奏の邪魔にならないデザインのドレスで臨むべきだと悟ったようである。

 

 ドレスを作ってくれたデザイナーは、明子の夫の昔からの知り合いだそうだ。彼女は、デザインの細かな相談や仮縫いなどのために、何度も六条家に足を運んでくれた。出来上がったドレスはどれも素晴らしくて、夕紀によれば、とても動きやすいとのことだった。ドレスにあわせた靴やアクセサリーも、姉たちが用意した。

 

 美しいドレスに装飾品とくれば、それを身に着ける者にもしっかりとした準備がいる。写真に残すならばなおさらであろう。しかも被写体が飛び切り美しい女性ともなれば、着つける方もやりがいがあるというものである。いや、美しかろうとなかろうと客のために全力を尽くすのが、茅蜩館ホテルのポリシーである。そんなわけなので、3人がホテルに到着するやいなや、夕紀は、橘乃と一緒に待ち構えていた理容スタッフによって連れ去られてしまった。それから、およそ一時間。紅子と月子は、普段は結婚式の集合写真のために使われるようなだだっ広いスタジオの隅っこに設けられたスタッフ用の休憩スペースで、橘乃が持ってきてくれた最近の雑誌記事を眺めながら時間を潰している。

 

「こんなところで待たせてしまって、ごめんなさいね」

 橘乃が申し訳なさそうに言うが、紅子は、まったく気にならない。東京の茅蜩館ホテルは、二棟のうちのひとつが建て替え工事中なのだ。取り壊した以前の建物にはオーナーの居住スペースも含まれていたから、今の橘乃がプライベートで妹たちをもてなそうとしたら、使える場所も限られてくる。紅子としては、橘乃がラウンジの厨房から取り寄せてくれた紅茶と栗のクリームがたっぷりとかかったモンブランで充分に満足している。


 そんなことよりも、とにかく腹が立つのは『女性モダン』の記事である。


「こんなふうに書くなんて、ひどい。私は、昔から葛笠さん一筋なのに!」

「はいはい。よく知ってるわよ。私はね」

 基本的に素直ではない月子が、自分の恋心を全力で表明する姉に羨望混じりの冷笑を返した。


「こんな記事は、気にするだけ時間の無駄よ。だいたい、弘晃義兄さまのことをいまだに『顔すらわからない謎の人物』なんて書いている時点で、お察しだわ」

 ろくに調べずに書いたのだからと怒る価値もないと月子が紅子を慰める。

「たぶん、そうなのでしょうね」

 橘乃もうなずいた。「でなければ、一生懸命調べたものの、弘晃義兄さまの真相に辿りつけなかったのでしょうね。お父さまだって、紫乃姉さまと弘晃義兄さまとの縁談があった時に苦労したっておっしゃってたから」

「うん。葛笠さんも同じことを言ってたわ」


 『知ろうとすればするほど、タヌキに化かされてるような気分になる』とは、それこそ弘晃の実在さえ確認できなかった昔に、彼のことを調べようとした人々が共通して感じていたことであったそうだ。紫乃と弘晃との見合いを思い立った時に源一郎から調査を命じられた葛笠も、紫乃の婚約が公になってから、その時の苦労話を紅子に聞かせてくれた。彼は「調べても調べても、弘晃さんの顔写真さえ手に入らなかった。それなのに、彼に関する馬鹿げた噂ならば、うんざりするほど簡単に手に入る。例えば、弘晃さんは人間ではなくウサギのぬいぐるみだとか、そのウサギが毎夜中村社長(弘晃の父)にお告げをしているとか」と苦笑混じりに話してくれた。

 

 なにゆえ弘晃が馬鹿げた噂まみれになっていたかといえば、彼がとんでもなく病弱だからである。そのことを隠すために、中村の関係者は、総力を挙げて、おかしな方向へ広がるままになっている噂を更におかしな方向に広げていった。紫乃と結婚してから、中村弘晃が本当に実在していることも彼の有能ぶりも多くの者に知られるようになった。それでも、中村家は、いまだに弘晃にまつわる誤情報の数々を放置しているし、今後も訂正するつもりはないらしい。紅子にしても、紫乃から口止めされているので、弘晃のことを他所で話すようなことはしない。おかげで、いまだに『中村弘晃は、座敷牢に押し込められている狂人』だとか、『中村を牛耳る教祖もどき』だとかいう噂を真に受けている人は少なくないらしい。


「今のところ、弘晃義兄さまと実際に会った人は限られているわ。主なところは、中村と六条の関係者。それから、昔から弘晃義兄さまの正体を躍起になって探っていた経済界のタヌキめいたオジサマたち。あとは、そのオジサマたちの手足になって義兄さまのことを内々に調べていた、うちで言えば葛笠さんのような立場の社員さんたちぐらいなものよね」

 『弘晃のことを教えてほしい』と記者から問われたところで素直に教えてやるような人間がひとりもいないような気がするのは、紅子の気のせいではないはずだ。それどころか、昔の中村家のように、取材に協力するふりをして、デタラメだとしか思えない噂を更に奇天烈なものにしているに違いない。


「そんなおかしな噂が鵜呑みにされて、弘晃義兄さまが悪く書かれたりしなければいいのだけど……」

「書かれたところで、中村の人たちは気にしやしないわよ」

 あれらの馬鹿馬鹿しい噂話を信じる読者がいるとしたら、その読者のほうがおかしいのだからと、月子が肩をすくめる。


「橘乃姉さまのところは、大丈夫?」

「うちは平気よ。要さんに言わせれば、茅蜩館のスタッフの口の堅さと外面の良さは天下一品。笑顔で彼らを煙に巻くことなんて朝飯前ですって。それに、茅蜩館にスキャンダルめいたことがあるとすれば、武里グループがらみのことでしょうけど……」

 それについては、冬樹の社会的な信用がマイナス以下にまで落ちた数年前に出尽くした感がある。

「もしも茅蜩館に探り出されるような後ろ暗いことがあったとしたら、あの時に騒がれているんじゃないかしら」

 探り出せないようなことがあることを仄めかすように、橘乃がいつもの人のよい笑みを微かにゆがめた。

 

「それよりも、うちのお客さまから、六条家内部の金銭の流れとか六条家が理事をしているような団体との繋がりを怪しんで調べている人がいるようだって教えていただいたの。そちらの方が私は心配だわ」

「それこそ、心配ないと思うの」

 紅子は胸を張った。ここ数か月間、源一郎の妻たちにこき使われた紅子だからこそ断言できる。なにしろ、六条家内のお金のやり繰りについては綾女が、六条と関わりのある諸団体との金銭的なやり取り(それどころか団体の資金的な健全性まで)については愛海が徹底的に管理しているのだ。

「そのうえ、百合香お母さんの厳しすぎる監査まで入っているのよ」

 どれだけ調べてところで微細なホコリひとつ出てきやしないだろう。

 

「それなら、良かった。紅子についても、この程度のことしか書くことがないのであれば、これ以上追い回されたりしないんじゃないかしら。明子姉さまのところも、まあ、大丈夫でしょう」

「そうかなあ」

 紅子は首を傾げた。

「唯さんは、お父さまを恨んでるんじゃないかしら」

 明子の元夫も彼の浮気相手だった唯も、互いへの愛情をとっくの昔になくしており、今は憎み合うばかりの関係となっている。だが、娘の明子を泣かし喜多島一族中に迷惑をかけてまで成就させた恋なのだ。離婚や別居など言語同断。そんなことをしようものなら喜多嶋グループごと潰してやると源一郎が脅かしている。だから、唯がどれだけ嫌がろうと後悔しようと、彼女の不毛な結婚生活は、彼女が憎んでいる人々によって継続させられる。自分が招いた不幸とはいえ、彼女は、六条を恨んでいるに違いない。それに、唯は、ひどい嘘つきだという。いや、嘘つきというよりも、自分の嘘を自分で信じ込んでいくタイプであるらしい。明子の元夫だって、それで騙された。

 

「そういえば、気持ち悪いぐらいに静かにしているわね。ここぞとばかりに被害者ぶって、お父さまの悪口をマスコミに言いふらしそうなのに」

「大丈夫。唯さんについては心配いらないわよ。あのね。唯さんは、今、新しい秘密の恋に本気らしいの。それでね……」

「……また、姉さまは、すぐそうやって……」

 なんでも恋バナに結びつけたがるのは、この姉の悪い癖だ。

「いいえ。これは私の想像ではないのよ。ほら、前に紅子にも話そうとしたことがあったでしょう。でも、紅子ったら、怒って電話を切っちゃうから……」

 今度の唯の相手は、結婚前から彼女が働かせてもらっているレストランの常連客だという。

「……あ、よかった。店長の滝沢さんじゃなくて」

 紅子は安堵した。紅子は会ったことないが、橘乃の話にたびたび登場する滝沢は、とても気持ちの良い性格をしたカッコイイ大人のイメージだ。茅蜩館のレストランの総料理長を師として育っただけに、彼の料理は絶品で、青山の方にある彼の店はとても繁盛しているという。茅蜩館で長く働いていたので、橘乃の夫にとって、兄のような存在でもあるそうだ。


「滝沢さんまで唯さんの魔の手に落ちちゃったのかと、一瞬ドキドキしちゃった」

「いやだ、そんなわけないでしょう」

 橘乃が、キャラキャラと笑った。ちなみに、その滝沢は、今度の唯は本気で恋をしているように見えると言っているそうだ。

「あんな男に恋するなんて冗談じゃないと唯さん本人が必死に足搔いているようなのに、相手のことが気になってしかたがないみたいなのね。相手の男性も同じみたいで、喧嘩ばかりしているくせに、喧嘩のたびに仲良くなっていくみたいな?」

 今は、互いへの想いを自覚して、さらに相手への想いを募らせている……そんな時期であるようだ。打算まみれの恋ばかりしてきた唯しか知らない滝沢は、唯の変化に面食らっているという。ついでにいえば、茅蜩館で働いていたこともあって、彼もまた、茅蜩館の現オーナーの影響をしっかりと受けていた。つまり、たいへんな世話焼きなのである。彼は、今回の出会いによって、唯が良い方に変われるのではないかと期待しているらしい。

 

「だけど、そんな素敵な時期に、唯さんが浮気していることをうちのお父さまに知られたら、どうなると思う?」

「どうなるって……」

 源一郎は、ふたりを別れさせるだろう。いや、源一郎が動く前に、唯の監督責任を問われるであろう喜多島一族が、必死になって彼女の恋を粉砕しにいくはずだ。だから、滝沢も、そのように唯に警告したという。唯は減らず口を叩くこともなく、滝沢の言葉を受け入れたそうだ。

 

「それで、おとなしくしているのね。でも、いつまで続くんだか」

 月子がつぶやく。紅子も唯のことなど信用していない。唯の扱い方を心得ている滝沢も、信じていないそうだ。自分の忠告など、唯にしてみればいつでも反故にできる小言程度にしか思われていないと、彼は知っている。


「それで、滝沢さんが、うちに相談に来たの」

 茅蜩館は、橘乃が嫁ぐ前から六条家との縁が深い。しかしながら、喜多島と六条の確執にはノータッチである。

 

 久しぶりに茅蜩館を訪れた滝沢は、別の意味でも歓迎された。茅蜩館の面々は、建て替え後の新館の地下に丸の内界隈で働く人々が気軽に足を運んでもらえるような店を新設しようとしていたが、料理長を決めあぐねていたところだった。滝沢であれば、申し分ない。結論から言えば、義理堅い滝沢は、恩義のある八重と心から敬愛している総料理長からの頼みを断らなかった。気がかりなのは現在の彼の店だが、茅蜩館からも人を出すなどして引き続き営業を続けることが決まったという。しかしながら、滝沢が今までやってきたように、唯を働かせるついでに彼女を見張ることは難しくなる。


「それで?」

「うん。それでね。たぶん、今日あたり、葛笠さんからも紅子に話があると思うんだけど……」


 ***


「お願いします。明日、俺に付き合って、滝沢さんの店に行ってやってください!」


 その日の夜、家に帰ってきた葛笠から紅子は懇願された。

 唯と話し合うためだそうだ。

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