大嫌い
その人が現れたのは、朝食を取るか取らないかという頃だった。
美しい銀色の髪と、左右で色の違う瞳を持つやや長身細身の女性――エメレ・エルテ。この屋敷で暮らすことを命ぜられた後、私の着替えなどを調達してくれた人だ。
こうして姿を見たのは、当然初めてのことになる。
会うとは、思っていなかった。
彼女は何か特別な事情があるとのことで、クゥリさまのようにここに来ることはないようだったから。お礼を言うのは、きっとクゥリさまを介してになるだろうと考えていた。
けれど来客を知らせるノックの音を聞いて、玄関に出てみると見知らぬ人が立っていて。
後から追いかけてきたルナさんが、客人を見て小さく『エメレ・エルテ……?』とつぶやいたことで、この人が私の恩人の一人と数えるべき相手だとわかった。
彼女がここに来たのはただ一つ、アンディさんの回収。
エメレ・エルテではなく、エルテ家の者として、一族の決まりを破った彼を、本家へ強制送還するのが役目なのだという。本人は、それのついでに様子を見に来たと笑っているけれど。
クゥリさまはアンディさんを連れに行き、セレスタイトさまは外の現状などを聞き出し始めている。再び、私――そしてルナさんは、状況から取り残され始めた。
私は最初からそんな感じ、だけど。
「セレスタイトも、厄介なことに巻き込まれたようだな」
「ずいぶん早いね、もう連れて行くの?」
「そうだな。ご老体共が、ダメ跡取りを説教したくてウズウズしていらっしゃる。散々せっつかれて渋々やってきたところだ。多少手荒でも構わないとのことなので、少しくらい殴っていても問題ないと思うぞ。正直、痣の一つ二つどうでもよくなるくらい、エルテは大騒ぎさ」
「……へぇ、これだけのことをしても、彼が跡取りなんだね」
「腐っても優秀ということだろう」
他に候補がいないわけではないが、とエメレさまは言うと、こほんと咳を一つ。
そこに縛られたままのアンディさんが、ずるずると力任せに引きずられるようにして連行されてくる。彼は一瞬、ルナさんをちらりと見たけれど、すぐに視線をそらしてしまった。
一方のルナさんは強く、鋭く見つめている。
いいえ、睨みつけている。
だけど周囲の手前、行動に出ることはしない様子だった。
「ところでセレスタイト、裏手側にある結界に綻びがあるぞ。下手に坊やの結界に上書きするようなことはせず、一気に作り変えた方が侵入察知制度も上がっていいと思うが」
「……そうだね、考えておく」
「お前のことだから問題ないと思うが、気をつけろ」
「まぁ、できる限りは」
「正直に言わせてもらえば、お前の『できる限り』は何にも勝る不安材料でしかないが……本当に無理はしないように。そこに頼れる同僚がいるのだから、頼ることを覚えろ」
ミオリアさまもそうだっただろう、といきなりお姉さまの話を出される。
それは王子に異を唱える時、彼を巻き込んだことを指した言葉なのだろうか。
エメレさまの言葉を聞いたセレスタイトさまは静かに、だがどこか渋々と言った子どものような表情で、はいはい、と軽く答える。彼女の言葉はあまり守られないような気がした。
さてと、とエメレさまは玄関の方へ向かう。
これからアンディさんを本家に連れて行って、そこで話をしなければいけないらしい。といっても当事者のセレスタイトさまはここを動けないので、代わりに状況についてしたためた紙束を渡していた。私やルナさんの話は、特に聞かなくてもいいらしい。
といっても聞かれたところで説明するほどの内容もないし、どう言えばいいか困るので逆に助かったという気持ちが強い。ルナさんはここを出てもいいけれど、それは不安だし。
セレスタイトさまもそういう考えのようで、自分が矢面に立つつもりのようだ。
アンディさんは縄で縛られたまま、エルテ家の本宅に連行されるらしい。
あの縄には魔術師の力を封じ込める力が含まれているようで、万一に備えてというより『わたしは決して抵抗などいたしません』という態度を表明するためのものだそうだ。
それでどんな効果があるかは、私にはわからない。
ただ、本家の跡取りがそういう状態でも平然としているエメレさまや、縛られたままにもかかわらず何も言わないアンディさん本人の様子をみる限り、そういうものなのだろう。
「……ルナ、僕は」
ルナさんの前を通り過ぎる時、アンディさんは初めて口を開いた。
弱々しい、泣き出しそうな震えた声だった。声をかけて、それからルナさんの名前を呼んでみたもののそこから先の言葉が出てこないらしく、ただ表情がくしゃりと歪んでいく。
ルナさんは、視線の鋭さを強めた。
迷うように唇を震わせ、しかしはっきりと叫ぶ。
「アンディなんか、大っ嫌い!」
言って、そう叫んで、ルナさんは走り出す。リビングの方に消えた背中を、アンディさんが唇を噛み締めながら見送る。だけど、追いかけることは当然できない。
仮にアンディさんが何の拘束も受けていなかったとしても、私が知る彼なら、その背を見送るだけにすると思う。そしてきっと、こう言って笑う、あるいは視線をそらすだけ。
そのまま二人は、外へ出ていってしまった。




