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第十二話「届く」

第十二話「届く」



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高校に入った日から、真魚は歌を詠み始めた。


特別なことは何もしなかった。


毎日、少しだけ立ち止まった。


通学路の銀杏が黄色くなっていることに気づいた日。

母の味噌汁が、祖母の家の匂いがした日。

体育の授業で空を見上げたら、雲の形が馬に見えた日。


そういう瞬間を、真魚は小さなノートに書き留めた。


心が動いた瞬間だけを。


うまく書けない日もあった。

言葉が追いつかない日もあった。

でも真魚は諦めなかった。

種は、蒔き続けなければならないと思っていたから。


西行の言葉を、真魚はいつも胸の中に持っていた。


美しいと思う心。

寂しいと思う心。

懐かしいと思う心。

面白いと思う心。

不思議だと思う心。


そうした感情がまずあり、その後に言葉を選んで歌になる。


高校一年の歌は、まだぎこちなかった。


高校二年の歌は、少しずつ自分らしくなってきた。


高校三年になって、

真魚はある日の放課後、窓の外を見ながら一首詠んだ。


「踏まれても その種よ強く 土の下 君の思いは 我が思いかな」


書いた瞬間、真魚の手が止まった。

これだ、と思った。


説明できなかった。

でも確かにそう思った。

この歌は、自分の中から来た。

でも自分だけの歌じゃない。

猿丸太夫の無念と、

西行の旅と、

真魚の三年間が、

この三十一文字に全部入っていた。


-------------


その歌を、真魚は全国高校生短歌コンテストに応募した。

結果を知ったのは、十一月の終わりだった。


担任の先生から呼ばれて、職員室へ行った。

「川島、優秀賞だって」

先生は嬉しそうに言った。


真魚はしばらく、その言葉の意味がわからなかった。

「雑誌にも載るらしいぞ」

真魚は職員室を出てから、廊下で一人立ち止まった。


優秀賞。

雑誌に載る。


真魚の歌が、知らない誰かのところへ届く。

真魚は目を閉じた。


西行の横顔が浮かんだ。

草原の風の中に消えていく姿が浮かんだ。

ありがとうございます、と真魚は心の中で言った。


声には出なかった。

でも確かに、届いた気がした。



-------------


雑誌が発売されたのは、十二月の初めだった。

真魚の歌は、十七ページに載っていた。


「踏まれても その種よ強く 土の下 君の思いは 我が思いかな」

川島真魚(高校三年)


自分の名前と歌が、活字になっていた。

真魚はそのページを、しばらく見つめていた。



-------------


その雑誌を、一人の大学生が手に取った。


図書館のソファに座って、ページをめくっていた。

短歌に興味があったわけではなかった。

たまたま手に取った雑誌だった。


十七ページで、手が止まった。


「踏まれても その種よ強く 土の下 君の思いは 我が思いかな」

声に出して読んだ。


次の瞬間、図書館が消えた。


秋の山の中にいた。

紅葉が燃えるように広がっていた。

落ち葉が足元に積もっていた。

遠くで鹿が鳴いていた。

冷たい空気が頬に触れた。


美しかった。

ただそれだけだった。

言葉にならないほど、美しかった。


次の瞬間、図書館のソファに戻っていた。

手の中に、雑誌があった。


その大学生はしばらく動けなかった。


胸の中に、あの山の静けさがまだ残っていた。

紅葉の色が、鹿の声が、冷たい空気の感触が、消えずにそこにあった。


雑誌の奥付を開いた。

編集部の連絡先を探した。


この歌を詠んだ人に、伝えなければならない。



-------------


真魚のもとに、編集部から連絡が来たのは年が明けてからだった。


「川島真魚さんの歌を読んで、

 過去の情景に飛ばされたという読者の方がいます。

 どうしてもお話がしたいと言っています。

 連絡先をお伝えしてもよいですか」

真魚は、その文章を何度も読み返した。


飛ばされた。

過去の情景に。


真魚の歌が、誰かを飛ばした。

真魚の手が、かすかに震えた。


連絡を取り合うと、その人は大学一年生の女の子だった。

名前は、中村詩音なかむら しおんといった。


「あの歌を読んだ瞬間、秋の山の中にいました」

と詩音はメッセージに書いた。


「紅葉が広がっていて、鹿の声がして、

 こんなにほっとした感覚は初めてで。

 でもすぐに戻ってきてしまって。

 あの感覚が忘れられなくて、

 それから歌を調べ始め、西行の歌を詠んだ時、似たような感覚を覚えました。

 それからというもの西行の歌を読み漁っています。

 西行の歌を読むと、一番思いを馳せることができます」

真魚は、そのメッセージを読みながら思った。


西行の歌を読み漁っている。


この子も、これから西行に出会うかもしれない。


「大学受験が終わったら、会いませんか」と真魚は返信した。


「ぜひ」と詩音はすぐに答えた。



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春になって、二人は会った。


カフェの窓際の席で、真魚と詩音は向かい合った。


最初は少し緊張していた。

でも話し始めると、止まらなかった。


西行の話をした。

猿丸太夫の話をした。

百人一首の話をした。

歌が情景に変わる瞬間の話をした。

土地の名前の由来の話をした。

苗字の意味の話をした。

昔の人がそこにいたと思うと想像が膨らみ胸が高鳴るという話をした。


詩音は嫌がらなかった。

むしろ、身を乗り出して聞いた。

「わかります」と詩音は何度も言った。

「わかります、その感覚」


真魚は、その言葉を聞くたびに、

胸の中に温かいものが広がった。


わかります。


今まで、そう言ってくれる人がいなかった。

一つ一つの話題なら話せる人はいた。

でも全部を持っている自分を、丸ごと受け入れてくれる人はいなかった。


窓の外では、春の光が街を照らしていた。


真魚はふと思った。

空海は言っていた。どこまでも歩き続ける、と。

西行は言っていた。種は、蒔かなければ花にならない、と。


真魚は三年間、歌を詠み続けた。

その歌が、詩音のところへ届いた。

詩音は西行の歌を読み漁っている。

いつか詩音も、自分の歌を詠むかもしれない。

その歌がまた、誰かのところへ届くかもしれない。

うたよみの記憶は、続いていく。


猿丸太夫から西行へ。

西行から真魚へ。

真魚から詩音へ。

そして。


時間を忘れて、二人は話し続けた。


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