第一話「きっかけ」
第一話「きっかけ」
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保延六年、秋。
佐藤義清は廊下を歩いていた。
特に急いでいたわけではない。
ただ、いつものように宮廷の空気が重くて、
少しでも早くその場から離れたかっただけだ。
今日も見てしまった。
上役が下の者に向ける薄い笑顔の裏側を。
同僚たちが交わす言葉の、表と裏を。
誰もが誰かの顔色を窺い、誰もが本当のことを言わない。
二十三年間、ずっとそうだった。
見えなければよかった。見えてしまうから、息が詰まる。
その時だった。
角を曲がりきれず、義清は柱に額をしたたかに打ちつけた。
「――っ」
声にならない声が喉から漏れた。
額に鋭い痛みが走る。
思わず壁に手をついた瞬間、
何かが、流れ込んできた。
最初は水のようだった。
次の瞬間には濁流になっていた。
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見知らぬ山の情景。
枯れた草の匂い。
冷たい空気。
そして、
詠みたい。詠みたい。詠みたくて詠みたくて、でも身体が動かない。
指が、喉が、言葉を形にする前に崩れていく。
詠めない。詠めないまま消えていく。
この無念を誰が知る。この声を誰が聞く。
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義清は廊下に膝をついていた。
額から細く血が滲んでいた。
でもそんなことはもう、どうでもよかった。
胸の中で何かが決壊していた。
詠まなければならない。
あの人が詠めなかった分まで。
この身が朽ちるまで。どこへでも行く。
誰にも縛られない場所へ。山へ、野へ、風の向くままに。
義清はゆっくりと立ち上がった。
宮廷の空気が、もう聞こえなかった。
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八百年後。
川島真魚は、図書室の隅の席で本を開いていた。
今日も最悪だった。
給食の時間、椅子を引かれた。
わざとじゃないという顔をしていたけれど、
あの子が笑いをこらえているのを真魚は見ていた。
見えてしまった。
見えなければよかったのに、いつも見えてしまう。
悪意というのは不思議なものだと真魚は思う。
大声で怒鳴るわけでも、物を壊すわけでもない。
ただそこにある。
空気のように、水のように、じわじわと染み込んでくる。
そしてそれが見えてしまう自分が、どうしようもなく疲れる。
見えなければよかった。
でも見えてしまう。
それが川島真魚という人間だった。
クラスの誰とも違う何かを自分が持っていることは、
小学校の頃からわかっていた。
話が噛み合わない。
笑うタイミングがずれる。
面白いと思うものが違う。
悪い子たちじゃないのかもしれない。
ただ、真魚にはどうしても、
みんなが楽しそうにしている輪の中に入る言葉が見つからなかった。
教室にいたくなくて、休み時間は図書室に逃げ込んだ。
司書の先生も今日は奥の部屋にいる。
誰もいない静かな空間に、真魚はようやく息をついた。
手当たり次第に本を引き抜いて、
適当に開いたページに、それはあった。
百人一首。
なんとなく、声に出して読んでみた。
「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき」
次の瞬間、図書室が消えた。
真魚は山の中に立っていた。




