誘惑のカレーライス
地下鉄駅まで徒歩10分。そこそこのサイズのスーパーやショッピングモールまで徒歩8分。お気に入りのパン屋も喫茶店も見つけたし、大手のレンタルDVD屋も程近くにある。今のアパートに引っ越して3か月。
私、間宮深雪は今の生活に大変満足していた。変化なんて全く求めていなかったけれど、偶然に偶然が重なって大きな変化が訪れる。そんなことをこの時の私はまだ気付いていなかった。
「野崎課長?」
「あれ?間宮さん、お疲れ様」
今日は仕事終わりに一度家に帰り、おかずを一品仕込んだあと、スニーカーを履いて意気揚々と出かけた。今日はいわゆる花金だ。普段は残業しがちなのだが、会社が近頃力を入れているノー残業デーなのでほぼ定時で帰れて気分が良かった。食材をまとめ買いしに行く足取りも心なしか軽い。
金曜日に買い物をして、土日に作り置きを作るのがルーチンワークである。周囲には寂しい休日だと言われがちだが、私の勝手なのでほっといて頂きたい。
1週間分の食材をリュックとエコバッグに詰め込んだ。ずっしりと肩紐は食い込むが、徒歩8分の強みでそれくらいは我慢できる。さっさと帰ろうとスーパーの出入り口に向かうと、バッタリ顔を合わせたのは営業一課の野崎 衛課長だった。人当たりの良い性格に整った顔立ちで高身長、そして若いのに出世株と好条件なので社内外でも密やかにモテる。だが、そんな彼の事を彼の同期である私の直属の上司は貧乏籖の野崎と呼んでいる。
まだ34歳だが、少し草臥れているのは気のせいではないだろう。前任の課長が突然企業すると宣言して辞めた為に急遽後任となったのは彼であった。しかも前任者が結構いい加減な性格だった為、仕事を引き継いでから半年以上バタバタとあれこれ問題が勃発。それがやっと落ち着いてきたのはここ数ヶ月の事だ。
どうやら結婚を考えていた彼女に逃げられたとか、愛想を尽かされたとか、寝取られたとか噂になっていたが、忘年会で全部事実だと彼が話したらしく、その周囲にいた皆が皆涙したというのは一つの伝説となっていた。
兎にも角にも可哀想な人なのである。
「お疲れ様です。買い物ですか?」
「そうだよ。夕飯の買い出しを、と言ってもツマミと冷食ばかりだけど。あれ?間宮さんこの辺りだっけ?」
「いえ、3ヶ月前に引っ越してきたんです。前のところは学生街だったのとセキュリティがザルだったので、いい加減まともな所にと思いまして」
大学からそのまま生活していたが、安いアパート街なのもあってあまり治安がよく無かった。
そろそろ引っ越したいと物件探しをしていると、従姉妹が結婚を機に私が希望していたような条件の部屋から引っ越すというのでそのまま引き継がせてもらったのだ。有難いことに大家へ話を通してくれたり、諸々の手配も全部やってくれたのはまた別の話だろう。
「そうなんだね。あ、こっち?歩き?」
「はい。野崎課長もですか?」
「そうだよ。じゃあ途中まで荷物持つよ。重そうだし」
スマートに荷物を持ってくれる所は流石人当たりのいいモテ男である。
「それじゃあお言葉に甘えて」
ずっしりとしたエコバッグから解放されて清々しい。背中が重いのは変わりないが、アパートに向かって歩き出す。
「ここら辺は治安もいいし、利便も良くていいですね。課長は住んで長いんですか?」
「こっち戻って来てからだから3年かな。俺も気に入ってるよ。遅くまでやってるスーパーもコンビニも生活圏内だから重宝してる。あ、社外だし課長と呼ばないでいいよ」
「それじゃあ野崎さんで」
彼は私が就職した年に北海道本社から東京支社に転勤になっていた。そのあと、一年間子会社のあるモスクワに出向し、3年前本社にポスト係長として戻ってきた。まさか2年も経たずして役職がまた一つ上がるとはこの時誰も思っていなかった事だろう。
そんな野崎さんは営業一課、私は営業二課の営業事務だ。直属の上司ではないが仕事で関わる事も多いのでお互いの話のテンポがそこそこわかる。ようするに話しやすいという事だ。
「野崎さんはあまり自炊されないんですか?」
「前はしてたんだけどね。急に役職上がって忙しくて店屋物に頼ってたらそのまま・・・って感じかな」
「なるほど。その節はお疲れ様です」
このままだと不憫な話題が続きそうなので一度切る。約1年近い歳月は大分彼を蝕んだようで、周囲が泣けてしまうのも肯けるというものだ。
「私は週末に作り置きして冷凍庫パンパンにして1週間過ごしてます。作りすぎちゃって冷凍庫の肥やしにしかけるのが玉に瑕ですが」
「わかるよ。作り過ぎたおかず冷凍庫に入れとくとそのまま忘れたりするよね」
そのセリフがサラリと出てくる辺り、元は家事スキル高めだったのだろう。普通の男性はこの話をしてもまず通じない。
「今日はカレーが食べたくて作るんですけど、また冷凍庫の肥やしになりそうです。どうしてか作り過ぎちゃうんですよね」
「カレーとかシチューって量の調整が難しいよね。にしてもカレーかぁ・・・暫く作ってないな。店で食べるのも美味しいけど、あの市販のルーを使ったカレーってまた別だよね」
遠い目をしてカレーに想いを馳せている姿は申し訳ないが笑えてくる。普段、パッと見はおっとりしているが、仕事はバリバリやる切れ者なのだ。そんな彼がカレー一つでここまで表情を変えるのかと意外な一面を見れた気がする。
「あ、野崎さん。私ここです」
「え?」
え?ってなんだろう。エントランス付きのアパートの出入り口で野崎さんはポカーンと口を開けている。何か曰く付きなのか。それともおかしな人でも住んでいるんだろうか。そんな疑問を浮かべていると次は私が驚く番だった。
彼がゴソゴソとポケットを漁ったかと思えば、ピッという電子音とともにドアが開き出す。彼がアパートのエントランスでカードキーを翳したのだ。
「今までよく会わなかったね。俺は103号だよ。何か困ったら頼っといで。それじゃあ」
私の部屋番号は聞かず、エコバッグを返してくれると自分の部屋の方へ向かって歩き出す。ほんと、そういう気遣いがスマート過ぎる。
「野崎さん!」
ほとんど反射的だった。服の袖を掴むと彼は振り返り驚いた表情を見せた。若干、やっちまった感は否めないが、致し方ない。
「えっと、荷物持って頂いたお礼にカレー食べませんか?」
* * *
デモデモダッテ状態の野崎さんに一方的に来るなら1時間後に205号と約束を取り付けて部屋に戻った。これから作るので実際に食べられるのは21時近い。
今日も忙しくしていたことだし腹減りもピークだろうから、来る来ないは本人次第だ。私はどんなに腹が減ろうと今日はカレーと決めているのでカレーを何としてでも作って食べる。
手早く食品をそれぞれに仕舞うと、ここからはスピード勝負だ。
最初にキッチンバサミで鶏肉を手頃な大きさに切ると、ビニール袋に入れて某赤缶カレー粉とにんにくで揉んでおく。ご飯は三合も炊いておけばいいだろう。もし沢山余ったら冷凍したらいいだけだ。そして家を出る前に水晒ししてあった物を水切りしておく。
そのあとは玉ねぎ三つの皮を剥き、全部をくし切りした後で一つ分はフードプロセッサーにかけてペースト状にしてしまう。ペースト状の玉ねぎと油をいれたフライパンを火にかけて放置。ただ、途中で何度か混ぜるのがポイントだ。その隙に人参を適当な大きさに切っていく。
別のコンロに圧力鍋を出して玉ねぎと人参を入れ炒めて、火を消し、ペースト状の玉ねぎを追加する。きちんとした飴色とまでは行かないけれど、近い色までになったので今日は良しとしよう。空いたフライパンに鶏肉を入れて焼き色をつけ、これも圧力鍋に追加して水を入れ蓋をして火をかける。圧がかかり始めるまでの間に使った道具を片付けてしまうのを忘れずに。
圧がかかり始めたら中火にして、あとは圧力鍋にお願いするだけだ。残ったら冷凍する予定なのでじゃがいもはカレーの中に入れていない。なので、カレーに添えるフライドポテト作りだ。
先程水切りしたものはフライドポテト用のくし切りされたじゃがいもだ。じゃがいもを1時間程度水晒しすることででんぷんが水に出てカリッとした仕上がりのポテトになる。栄養が逃げるとか意識高い系には言われそうだが、知ったこっちゃない。
水切りだけでは水分が残っているのでキッチンペーパーで水気をとって、薄力粉と片栗粉を3:2くらいの割合でブレンドしてまぶす。余計な粉は叩いて落とし、低温の油でゆっくりと揚げてやる。その合間でレタスをちぎり、軽く水晒ししてトマトを切る。耐熱容器に卵を2つ割入れ、黄身を潰してレンチンし、刻んだ自家製ピクルスとマヨネーズを入れれば即席タルタルもどきが出来上がった。盛り付けたレタスとトマトの上に適当に乗せ、作ってあった玉ねぎドレッシングをかければサラダの完成。
そうこうしているうちにいい頃合いなので圧力鍋の火を消して放置し、揚げているじゃがいもも一度引き上げる。圧力鍋の圧が抜けたらルーを2種類いれてまた加熱。くるくるとかき混ぜているとタイミングよく呼び出しベルが鳴った。
インターフォンを見れば待ち人来たれりだ。ドアを開ければスーパーではスーツ姿だった彼も黒の長袖Tシャツにダークグレーのサルエルパンツとゆったりとしたスタイルになっていた。
「悩んだ末にカレーの誘惑に負けました」
「誘ったのはこっちなので遠慮せずどうぞ。もうちょっとで出来ますよ」
「でも、こんな遅い時間に一人暮らしの女性の部屋に男の俺がっていうのも・・・」
「気の迷いで血迷っても社会的に損するのは私ではないので」
「ごもっともです。お邪魔します」
1LDKなので、見られて困るものはドアの向こうの洋室だ。なのでソファとTVとテーブルしかないと言っていいリビングに野崎さんを通す。
「とりあえずソファにどうぞ。男の部屋みたいで驚きました?」
テーブルをサッと拭いてサラダとカトラリーを置いた。彼は手持ち無沙汰に部屋を眺めている。
「確かにシンプルだけど、カーテンが花柄だし、男の部屋には見えないよ」
「それ、もともと住んでた従姉妹の趣味でして。従姉妹が住んでいた部屋を引き継いだ時にソファとかカーテンはいらないっていうので貰いました」
淡いピンク色をしたレザー張りローソファと白地に彩り豊かな花が散りばめられた遮光カーテン。可愛らしいと思うが、自分から購入して使うタイプの物ではない。ソファは寝心地が良く、カーテンは以前の部屋の物のサイズが合わなかった、それだけの理由だ。
彼は私の言葉に不思議そうに首を捻ると合点がいったように手を打った。なんとも古典的である。
「もしかして白いレース盛り沢山の服とか花柄ワンピースを着こなす美人が住んでたけど、最近見なくなったのは・・・」
「それです、私の従姉妹。彼氏の転勤を機に結婚して今は熊本です。あれで今年32になるんですよ。ブランド化粧品メーカーの美容部員って恐ろしいですよね」
「・・・20代前半かと思ってたよ。凄いね」
そんなちょっと怖い話はさて置いて、続きをやるのに油を強火にかけた。
「テレビ好きにつけてどうぞ。一杯して待つなら漬物くらいなら出せますけど」
「いや、いいよ。むしろ手伝えることあるかな?」
「特にないんですが・・・あ、これ開けれます?開かなくなっちゃって」
らっきょうが3分の1ほど入った1kgの保存瓶を渡す。恐らく前回開けた時に液が付着してこびりついてしまったのだろう。昨日出しておこうと思ったが、私の力ではびくともしなかった。開けてもらっている間にじゃがいもを二度揚げしようと油の中に次々と投げ入れていく。
「あいたよ」
「え?わぁ、凄い。何をしても開かなかったので助かりました」
どちらかといえば痩せ型だというのに流石男の人である。開けてくれた瓶から食べる分だけらっきょうを取り出して小皿にもった。
「これ自分で漬けたの?」
「えぇ、まぁ・・・ババ臭い趣味ですが」
「いや、そんな事ないと思うよ」
優しい世辞に曖昧に笑っておく。こんがりいい色になったじゃがいもを鍋から取り出しているとご飯が炊けた合図が聞こえる。
何にでも使える白磁の丸皿にカレーを盛り付け、ポテトを添えてあとはテーブルに並べれば完成だ。
「何飲みます?といっても麦茶か、ビールか、梅酒くらいしか出せませんが」
「このパターンだと梅酒も自家製かな?凄い気になるけど、とりあえずご飯楽しむのに麦茶で。これ、持ってくよ」
キッチンのカウンターに置いたお皿を手慣れた様子で並べてくれる。言われずとも動けるとはやはり家事スキルが高い。そんなことに関心をしつつ、お茶を2人分いれてテーブルに並べた。
「圧力鍋にご協力頂いた即席カレーですが、どうぞご賞味下さい」
「たった1時間でこんなに出来るんだね。お言葉に甘えて頂きます!」
野崎さんは手を合わせると勢いよくスプーンですくって食べ始める。一口含むと目を少し見張ってそのあと嬉しげに細められた。そこまで表情を変えてくれるならこちらも食べさせがいがあるというものだ。
「美味い!来てよかった!」
「それは良かったです。私も頂きます」
炒めた玉ねぎペーストがいいコクと甘みを出していてとてもいい味になっている。じゃがいもは中にいれていないが、そのかわりふんだんに使った玉ねぎがいいとろみを生み出していた。
肉にまぶしたカレー粉も含めれば3種類のカレー粉を使っているので不味いわけがないのだ。即席だったが大満足である。
「このらっきょう美味しいね。いもも外がカリッとしてて中がホクホクだ」
言葉で言われるのも勿論嬉しいが、とてもいい食べっぷりを見せてくれることがどんな言葉よりも嬉しい。家庭の味に飢えていたのか凄い速さで食べている。
「おかわりいります?気に入ってくれたんでしたら少し持って帰って下さい。2日目のカレー美味しいですしね。レンチンしたあとにバター一つ落としても味が変わってオススメです」
彼は反射的になのかぶんぶんと首を縦に振った。
「あ、でも作り置きにするんじゃなかった?」
「料理は趣味なので食べて喜んでくれる人がいるならそっちの方がいいです」
「次の九州出張は期待して」
確かもうすぐ博多に出張予定じゃなかっただろうか。これは個人用のお土産ゲットだぜ。
皿に残っていた物を綺麗に平らげるともう一杯彼はおかわりをし、それも米粒一つ残さず食べてくれた。帰りは約束通り大きめのタッパにカレーを注ぎ、別のタッパにはらっきょうやポテトといった付け合わせを入れて持たせた。
それはそれは満足そうに帰っていく姿は餌付けされたわんこのようで可愛らしい。
もてなしてこんなに喜んでくれたのならこちらも大満足だった。思わず鼻歌を歌いながら、つけおきしていた食器を洗剤で洗っていると、嫌な事を一瞬思い出す。
「・・・こういう人だったら良かったのにね」
思わず溢れた言葉は泡と一緒に消えていった。