おやすみたなべくん
1時間ほどして、田辺はしぶしぶ帰って行った。そのころには、わたしは次の日、といっても当日だったけれど、午後から高橋君と現地に行く事に決まっていた。高橋君は当然午後からも講義があったのだけれど、それはさぼる、と言った。
いいのかなあ、1年目にしてそんなことしてて。わたしや田辺みたいに後で苦労するわよ。
「じゃあ、明日の1時に出発ってことでいいですか?奈々先輩」
「ええ、わかったわ」
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
「ええ。」
わたしは、疲れと眠気とアルコールではっきりしない頭の中で返事した。
「ああ、シャワー浴びたい」
「シャワーですか?」
高橋君はバッグに書類を押し込みながら聞いた。
「うちに来ますか?サークル棟、シャワー無いですし」
「え?」
「僕のアパート、近いですし」
「そう、じゃあ行こうかな」
わたしは、ぼうっとしたまま言った。
「じゃあ、行きましょう」
わたしと高橋君は一緒に部屋を出た。
お先にどうぞ、と彼が言うので、わたしは先にシャワーを使った。
なんで、さっき会ったばかりの男の人の部屋にいるんだろう。しかも、シャワーを浴びようとしているのだろう。ぼんやりとそう思いながらも、わたしは蛇口をひねった。
高橋君のアパートはフローリングのロフト付きで、6畳ほどの部屋だった。ユニットバスでは無かったけれど、バスルームは狭かった。と、言っても、わたしの住んでいたアパートの部屋もこんなものだったし、他のみんなもそんなものだったけれど。
とにかく、昼間の汚れをさっぱりと洗い落とし、手早く下着と新しい服に着替えた。汚れた服はビニール袋に詰めた。
「ありがとう」
そう言いながら、わたしは扉を開けて部屋に入った。
「どういたしまして。じゃあ、僕もシャワーしますけど、ビールでも飲んでいてくださいよ。買ってきた残りがまだありますから」
「うん、ありがとう」
高橋君がシャワーから出てきたら、ちょっと話でもして、それからサークル棟に帰ろうと思っていた。寝袋だけはバイクに積んで来たから、あそこのソファーで寝ればいい。
シャワーのおかげで、はっきりとした頭で、理性的になった。どう考えても、ここでシャワーを浴びようと思った自分がわからない。
ま、さっぱりしたからいいか。
ぬるくなった発泡酒のプルタブを開け、わたしはベッドにもたれて床に座った。
落ち着くわ、自分の実家よりも。さっきあったばかりの人だというのに。
でも、何故だろう。たぶん、5年も住んでいた自分の部屋に似ているからだろう。彼のこととは関係無い。
目を閉じて、一気にビールを飲み込んだ。
眠い。
目を閉じていることが、とても心地よかった。すうっと暗い眠りに落ち込みそうになる。そういえば、そろそろ24時間起き続けている。そのうちのほとんどは、バイクに乗って神経をすり減らしていた。そのうえ、アルコールを飲んでいる。眠くて当然だった。
とにかく、サークル棟にもどらなきゃ。ここで眠るわけにはいかない。高橋君が信じられない、と言うわけではなかったけれど、会ったばかりなのだから、いきなり泊り込むのも問題だろう。
とはいえ、眠かった。
わたしは、とにかく静かに目を閉じて座っていることにした。眠らないように何か考えなくちゃ。何か。
誰かに抱え上げられていて、それからやわらかくて気持ちのいいものの上に乗せられた。ベッドの上だと思った。それでも目は開けなかった。そうする気力もない。ゆっくり眠りたい。
洋一がおやすみ、と言っている。
「おやすみ、洋一」
わたしは、そうつぶやいた。
それから、わたしははっと気が付いて目を開けた。
高橋君がこちらを見ていた。
「あ、ごめん。眠っちゃった」
わたしは、そう言いながら体を起こした。
「いいですよ、寝ても。僕はそのへんで適当に寝ますから」
わたしは、一瞬、じゃあ寝ようかな、と思ったけれど、かろうじて理性でこう言った。
「いいの。サークル棟で眠るわ。明日、朝に起きられそうにもないし」
「そんなのいいですよ。サークル棟っていっても誰が来るか分からないし。危ないですよ」
わたしは、はっきりと目が覚めてきた。
「ううん、何度か寝た事あるし。それに荷物はみんな置いてきちゃったし」
そう言いながら起き上がった。
めまいがした。
「大丈夫ですか?」
そう言って、高橋君はわたしの肩を支えた。
「ありがとう」
そう言って、時計を見た。2時15分だった。
「もう、帰るわ。高橋君、朝起きられ無くなっちゃう」
「いいんですよ、授業なんて。」
「良くないわ。大学は4年で卒業したほうがいいわよ」
そう言って、わたしは立ち上がった。くらくらした。
体をひきずるように歩いて定まらない視点で靴を履いた。紐なんて結ぶ気になれなかったから、そのまま玄関の扉を開く。
「シャワー、ありがとう。また明日ね」
「本当に、泊まっていっていいんですよ。全然迷惑じゃないですから。」
「いいの。ありがとう」
わたしは、そう言って手を振った。
「じゃあ、送ります」
「いいのよ。ちゃんと寝て明日、午前中は授業に出るの。」
そう言って、わたしは扉を閉めた。高橋君はそれでも何か言っていたけれど、わたしの耳には入っていなかった。
月が美しかった。
大学構内の照明の向こうに、ただ月だけが浮かび上がって見える。星の光りは明るい水銀灯に遮られて見ることが出来ない。紫の空に月だけが浮かんでいる。まるで、月から来た何隻もの宇宙船が今まさに着陸しようとしているように水銀灯がまぶしかった。
風で柳の木が揺れていた。何処かで車の走る音がした。
わたし以外には誰もいない。この世の中にはわたししかいない。
そういう空想をしてみる。
生きているのはわたしだけ。
月はわたしのためだけに輝いている。
現実には、この大学の構内にだって、まだ30人以上の人が起きているに違いないのだけど。もっとかな。サークル棟にはまだ誰かいるだろうし、理系の研究室にも誰かいるだろう。もちろん警備員もいるだろうし。
でも、今、月はわたしのために輝いている。
月を見上げたままわたしは道の真ん中で立ち止まった。空気が湿っていた。明日は雨かもしれない。柳の木もそう言っているように思える。
水銀灯に照らされて、わたしはしばらくじっとそうしていた。
静かに、瞑想するように、静かに、いるべきところに戻ってきたような気がした。
「奈々先輩」
はっきりと、田辺の声だと分かっていた。
「奈々先輩」
起こそうとしている、という事も分かっていた。
けれど、目を開けることが出来なかった。眠かったからだ。もう、本当に眠かった。あと2時間は寝ていたかった。
「小早川さんから電話がありました」
そう、それが何だっていうの?
「友美さんが家出したそうです」
そう、それが何だっていうの?わたしだって家出してるのよ。
「奈々先輩、起きてくださいよ」
田辺は遠くでそう言った。いや、わたしがそう感じただけだったかも。
「奈々先輩・・・・」
おやすみ、たなべくん。