逃避行
ひたすら、歩き続けるのもつらい。ただでさえ、真っ暗で幽霊でも出そうなのに、現実の問題も後を追っかけてくる。何度も振り返らずにはいられなかった。
「追いつかれると思う?奈々」
「そうならないようにしたいわ」
とにかく、前へ進むしかない。十キロを歩くのに、どのくらいかかるだろう。それに、追い抜いて行ったワンボックスだって、いつかは引き返してくるはずだ。何か方法を考えなくては。
「他に道は無いの?友美」
友美は、答えずに首を振ったようだった。暗くて良く分からない。友美もそのことに気がついて、
「無いわ」
と答えた。
「そっか」
じゃあ、いつかは見つかることになる。どうすればいいのだろう。
山へ入る、とか?
こんな闇夜に明りも無しで?不可能だわ。
じゃあ、川に降りる。
山よりはましかもしれないけれど、無理だ。それに、そんなことをしていたら追いつかれてしまう。朝になって明るくなれば、こっちが不利だ。
その時、声が聞こえた。
「友美、追いつかれたみたい。走って」
わたし達は、走り出した。でも、このままじゃはさみ打ちだわ。どうすればいいの?
息が切れた。喉が痛いほどに呼吸がつらい。心臓は、もうこれ以上早くは打てないというほど激しかった。だんだんとペースは落ちていく。けれども走るのをやめるわけにはいかなかった。
「奈々、ま、って」
友美が、離れ始めた。わたしはペースを落とし、そして歩いた。
「歩き続けて」
鼓動がやかましくて遠くの音まで聞こえない。落ち着いて、落ち着いて。心臓に向かって声をかけた。耳に神経を集中させる。鳥の声が聞こえた。不気味な声。まるで、助けを求める断末魔のような声。
「隠れたほうがいいんじゃないの、奈々」
友美は、苦しそうに言った。そう、その方がいいかもしれない。でもどうやって?道は暗く、川の流れに沿って曲がりくねっているから二、三十メートルも行かないうちに死角になる。つまり追手にとって、どんなに強力なライトを使っても三十メートル以上は見えない。こちらに明りは無いから、枝と枝の合間から見つけられるということは無い。道の上を歩いていたとしても、前後三十メートル以内に近づかれない限り、発見されることはない。だったら、このまま歩き続けていればいいんじゃないかしら。
駄目よ、奈々。落ち着いて。落ち着いて考えるの。
もしも、自分が追いかける方だったらどうする?冷静考えるの。
使える道具は?
向こうには車が二台ある。それからライト。あとは?
携帯電話。圏外かもしれないけれど、そうだとする根拠はない。じゃあ、携帯電話をどう使う?
連絡をとるわね。施設とワンボックスの間で連絡を取るとしたら、どうやって追い詰める?
「友美。はさみうちになるわね、このままじゃ」
「だから、何処かに隠れなきゃいけないんじゃない」
友美は呆れたように言った。
「そうね」
けれど、道から降りれば、絶対に不利になる。川側にしろ山側にしろ、入れば身動きが取れなくなる。こんな暗がりでは視界が利かない。それに動けば必ず音を立てる。道路に沿って移動するのは不可能。道を歩いている者からは、その音を聞かれてしまう。そうなったら、捕まる可能性が高い。
捕まったら、今度こそ逃げ出せない。
わたしは、頭を振って、その考えを頭から追い出した。捕まった後のことを考えると
気が狂いそうだった。こんなところでパニックになっていては駄目よ。
「ねえ、友美、本当にわき道は無いの?」
「無いって言っているでしょ」
その間も、歩き続けていた。
「友美、時計、持ってる?」
「持って無いわ」
最悪。感覚で時間を計らなくちゃいけない。ワンボックスをやり過ごしてからどのくらい時間が経ったんだろう。そろそろ戻ってくるんじゃないかしら。
「川に降りましょう。どうにもならないわ」
わたしは友美に言った。
「だから、さっきからそう言っているじゃない」
友美は、そう言うと、わたしの右手を掴んだ。
「じゃあ、行くわよ。ゆっくりね」
再び川へ。茂みは深く、何処が低いのか、何処が高いのか、第一地面があるかどうかさえ分からない。
「やっぱりやめましょう」
わたしは急に気が変わった。
「何を言っているの?」
友美は怒った声を出した。
「気が変わったの。その辺りの草、なぎ倒して」
「そんなことしたら、ここから降りたって分かっちゃうじゃない」
「それが狙いよ。わたしは、もう少し先まで草を倒すわ。友美は草をなぎ倒したら、待っていて」
「みんなが来ちゃうわ」
「急いでやるわよ」
急いで、草を踏み倒す。それから、少し先へ進んで、そこも踏み倒した。急いで、といっても這うようなスピードだったけれど、道へ戻った。
「靴の土を落として。道路に足跡を残さないでね」
湿った土は、靴にべったりと付いていた。
「よく分からないわよ」
「大体でいいわ。手で触って、大体落ちていたら、それでいい」
耳をすませたまま、その作業を手早く追えた。
「走るわよ」
わたし達は、再び走り出した。さっきからあ、去年一年分くらい走っているんじゃないかしら。体力のないことが、つくづく悔やまれる。すぐに息が上がる。
「もう、いいわ。歩きましょう」
たぶん、百メートルくらいしか走っていなかったと思う。辛くてそれ以上走れなかった。
「追いかけてくるに決まっているわ」
友美は、声を震わせて言った。
「さっきの所に気がつかないわけないと思うわよ」
「でも、車の方はどうするの?」
「川に降りるわ。もう少し行ったらね」
彼等は、わたし達が川へ降りたと思うに違いない。川を歩いて行った、と思うはずだ。しばらくは、そこで捜索をするだろう。何分か捜索した後、彼等は、川へ降りるのは諦めたのだ、と思うに違いない。わざとやった、と考えたりはしないはずだ。こんなに切羽詰まった状態で、わざわざそんなことをするはずが無いじゃない。普通に考えれば。
裏をかいて、もう一度、川へ降りる。
「この辺りでいいわ」
わたしは、わざと木が多い場所を選んで川に降り始めた。友美の腕を掴んで。
「そっと入ってきてね」
木が多いところには、草は少ない。つまり、痕跡が残りにくい。けれど、気をつけるに越したことはない。落ちた枝を踏む度に、「ミシ」とか「ポキッ」と音がして、寿命が縮まる思いだった。川の音のおかげで、それほど遠くまで響いてはいかないと分かってはいた。けれど、気持ちとしてはうれしくない。
少し進む度に、顔や腕に枝が当たる。
「痛 」
友美が時々声を出す。その何倍も、先を進むわたしには当たっていた。
手探りで進むうちに、ようやく川に出た。
「奈々、何か見える?」
「なんとなく、水が流れているのが、ね」
道路と違って、川の上には枝は伸びてきていなかった。そこが、たまたま川幅の広いところだったからかもしれない。先のことは分からない。
「川を渡りましょう」
足を置いた感触では、そこは小石が多く、水の流れはおだやかだ、と思えた。その時、さっと、辺りが明るくなった。わたしは、思わずどきっとして周りを見渡した。
「何?誰?」
友美も同じことを感じたらしい。けれど、空に月が出ただけだった。雲の切れ目から月が出ている。
「急いで川を渡りましょう。明るいうちに」
わたし達は、水に足を踏み入れた。
「冷たい」
友美が、そっと言った。
「ねえ、奈々。どうして渡らなきゃいけないの?意味無いでしょう?」
じゃぶじゃぶと水を掻き分けながら、浅い川を渡っていた。
「意味が無いから渡るのよ」
「なに、それ」
友美は明らかに憮然とした声で言った。
「追ってくる人が考える裏をかくの。常識的な考えはしない方がいいわ」
わたしは、靴下まで染み込んだ水の冷たさに顔をしかめた。
「それにね、友美。万が一、追いつかれた時、川をはさんでいれば、逃げ延びられる可能性が高くなるわ」
「そっか」
そう言った友美の声は、すでに震えていた。四月とはいえ、山の空気は冬のようだった。それなのに、シャツ一枚の服装で、ただでさえ寒かった。水は雪解け水で氷のようだった。
ようやく渡り、わたし達は進み始めた。月はすぐに雲に隠れて、足元は見えなくなった。
「奈々、怖いわ」
あたりは、水の音ばかりが聞こえていた。けれど、ほとんど視界は闇だった。じりじりと前進していたが、その速度は這うより遅い。時折、動物の鳴き声がした。
「奈々、怖いってば」
友美は、泣き出しそうな声だった。
「大丈夫。ここなら安全よ」
しばらく行くと、岩が多くなって、川幅がせばまった。岩場を水が流れ落ちていた。わたしは手探りで岩をさぐった。
「行き止まりね」
わたしは、その場の岩に腰をかけた。
「どうするのよ、奈々」
その声は、すでに泣き声だった。
「しばらく休みましょう」
わたしは、友美に座るように言った。友美は、素直に座った。たぶん、彼女も疲れているんだろう。
「あとどのくらいあるんだろう」
友美は、不安そうに言った。
「さあ。半分も来ていないでしょうね」
岩に水が当たる音が、とても大きく聞こえた。空には星も見えない。ただ、なんとなく明るい空に、張り出した枝がシルエットになって写る。道路よりは明るいけれど、その差は、ほとんど無い。何も見えないことは、とても恐ろしい。
「奈々」
友美は、腰をずらして、わたしに寄り添った。わたしも友美に触れていたかった。ここで頼れるのは、お互いしかない。
追手は、どういう行動をとるだろう。さっきまでと、同じ方法ではないはずだ。最初は車で追いかける。残りは、ライトなんかを用意して、追いかける。ある程度まで走ったら、わたし達を追い越してしまったことに気がつく。そこで、引き返す。
「奈々、疲れたわ」
友美は、ぽつりと言った。そうだろう。彼女はわたしと違って、昼間に寝ていたわけではない。
「ええ。もう少し休みましょう」
最善の方法は、ワンボックスで何キロか先まで移動し、そこで何人かを下ろし、捜索範囲をせばめていく方法だろう。車は、その範囲を往復する。
けれども、十キロ以上の範囲では、二十人では少なすぎる。網には抜け穴があるはずだ。十キロ、というのは広すぎる。時間的に言って、せいぜい三キロくらいを捜索すればいい。三キロの範囲に均等に人間を配置すると、三千割る二十で百五十。車を運転するものや、捜索に加わらなかった者がいるとしても、二百メートルごとに誰かがいる計算になる。明るくなっては、勝ち目が無い。
もちろん、一人づつになって行動すると言うのは、一つの可能性に過ぎないけれど。
その時、道路の方で、車のヘッドライトが通り過ぎるのが見えた。
「奈々」
友美は、とっさにわたしにしがみついた。
「大丈夫よ。ここなら見えないわよ、車からでは」
けれど、あんまりゆっくりもしていられない。彼等が、捜索体制を確立する前に、その捜索範囲を出なくては。問題は、この岩だ。
「どうやって乗り越えよう、この岩」
わたしはつぶやいた。月は出ないし、こんな闇の中で、こんなところを進むのは自殺行為かもしれない。それに、これを越えたとしても、次にまた、同じような岩が無いとは言えない。いや、むしろ、あると考えたほうがいい。
「やるしかないか」
わたしは、立ち上がると、その岩にさわった。手探りで、川のほうへそろそろと進む。
「友美。わたしのあとをついてきて。もう少しだけ進んで、目につかない場所で休みましょう」




