酔いどれ探偵、閉じ込められる
建物の中は、素っ気なかったけれど、おそろしく清潔だった。ほこりの一つも落ちていない。ただ、薄暗くて良くは見えなかったけれど。壁は白く、廊下は黒かった。黒い床板は不気味でもあった。明り採りの窓には、全て黒いカーテンがかけられ、光りは天井の暗い蛍光灯だけだった。静かで、誰もそこにはいないようにさえ思われた。
少しだけ消毒液の匂いがした。それが病院を思い出させた。でも、この薄暗さって、霊安室だわ。
わたしは、慌てて頭を振った。
こんな時に、洋一のことを思い出しているわけにはいかないわ。
友美は、いくつかあるうちの一室の前で足を止めた。それからノックする。
「どうぞ。入って」
中から、男の声がした。妙に明るい、はきはきした声だった。
「失礼します。」
静かにそう言って、友美はドアを開いた。わたしは、その場に立っていた。ドアの向こうは明るくて、アンティークのテーブルや落ち着いた色合いのカーペット、それから彫り物のある額縁に入った抽象画があった。思わず、廊下との違いで、その中にいるはずの男の姿を見つけるのに時間がかかってしまった。
男は、窓を背に立っていた。紺色のスーツを着ている。男は、ちらっと振り返ると、
「小早川くんは、もう行っていいよ。時間に遅れるから」
友美は、ほっとしたように頷くと、わたしの横をすり抜けて行った。
「友美」
わたしは、声をかけたけれど、彼女は振り向きもしなかった。
「蓮田さん。まあ、入ってください。コーヒーでもお出ししますよ」
わたしのことは調査済み、ってことかしらね、名前まで知っているってことは。
「いいわ」
わたしは、部屋の中に入った。
「すみません、蓮田さん。ドアは閉めてください」
歩きかけたところで、男は言った。
「自分でどうぞ」
わたしは、一瞬だけ足を止めたが、そのまま歩いて行って、テーブルの端に立った。もし本当にこの男が、ドアを閉めに行くのなら、わたしの横を通ることになる。
男は、ドアを閉めに行かなかった。
「まあ、いいでしょう」
そう言うと、微笑んでインターホンに手を伸ばした。
「コーヒーを二つ、持ってきてくれ」
そう言うと、それを置き、それからテーブルの反対側に歩いてきた。
「どうぞ、お座りください」
そう言って、テーブルに合わせてあつらえたような椅子を指した。四脚の椅子も、使い込まれたような色合いが美しいアンティークだった。
わたしは、近くの椅子を引き、そこに腰掛けた。男は立ったままだった。わたしは、生地のよさそうなスーツから目を離した。
「ゴーギャンです。残念ながら、模造品ですけど」
わたしの視線の先を見透かすように言った。何枚かかかっている絵のうちの一枚だった。
わたしは、視線を戻した。
「失礼します」
そこへ、コーヒーを持って、女の子が現われた。二十歳くらいかしら。わたしよりも一つか二つ、年下に見えた。かわいい感じの女の子。
「ありがとう。そこに置いておいて」
テーブルの上にコーヒーの盆が乗せられた。
クッキーくらい付けて欲しいわ。
「どうぞ」
立ったままの男が言った。
コーヒーはいい香りを放っていた。女の子は、失礼します、と言うとドアを閉めて出て行った。
わたしは、コーヒーに手を出さなかった。バイクに乗っていた時、あれほど飲みたかったのに、今は全然そんな気にならなかった。
「まずは、自己紹介させてください」
そう言うと、男は、右手を自分の胸に持っていった。その時、わたしは、年齢当てをしていた。たぶん、三十くらい。ひょっとすると、もう少し上かも。スーツは高そう。ネクタイもいい趣味のものだ。
「わたしは、鳥井と申します。トランステクノロジーでトレーナーをしています」
わたしは、それで?といった感じで頷いてみせた。とりあえず、横柄な態度でいこう、と心に決めた。
「蓮田さん、あなたのことは小早川くんから聞きました。はっきり言いますが、彼女はトレーニングが終わるまで、帰るつもりはありません。ですから、今後、近づかないでいただきたい」
一気にそう言うと、鳥井は、椅子を引き、わたしの真正面に座った。それから、わたしに微笑んだ。
「そうはいかないわ。わたしは、頼まれて、連れ戻しに来たの」
鳥井は、微笑を崩さないまま言った。
「連れ帰ってどうするんですか?また彼女をペテンの世界に戻すのですか?せっかくあと少しで癒されようとしているのに」
「癒される?丸め込まれるの間違いじゃないかしら」
鳥井は、それでも微笑み続けた。こうなってくると、その笑顔にはなんの意味も無いことがはっきりした。ただの仮面だ。
「あなたには分からないことですよ、蓮田さん。どう思ってもらっても結構です。ただ、私達は、小早川友美さんを救ってあげたいだけなんですよ」
わたしは、首を振った。
「現実から逃げたって何の解決にもならないわ。とにかく、今は一旦友美を返して欲しいの。トレーニングを続けたいなら、友美は、また戻ってくる。彼女にとって、何がいいのか、彼女に考えてもらいたいの」
「それは、出来ません。もう転がり始めているんです。運命の輪が」
わたしは、ふっと笑った。
「運命の輪ですって?」
鳥井は、頷いた。微笑したまま。
「そう、運命の輪です」
わたしは言った。
「鳥井さん、あなたが天使だとは気が付かなかったわ」
鳥井は、満足そうに頷いた。
「そう、ある意味、わたしは天使です。多くの人に幸せをもたらそうとしているのですから」
わたしは、呆れた。
「くだらないわ。友美を連れて帰るわ」
そう言うと、わたしは立ち上がった。
「無理ですよ」
鳥井も立ち上がり、それからインターホンに手を伸ばした。
「説得に応じていただけなくて残念です」
そう言うと、インターホンに向かって「はじめてくれ」と言った。
わたしは、慌てて言った。
「連絡はしてあるわよ。わたしがいないことに気が付いたら、仲間が警察に行くでしょうね」
鳥井は、にっこりとした。
「田辺君ですか?それとも町田君?いずれにしても、彼等には何も出来ないですよ」
そう言うのが終わらないうちにドアが開いて、それから四、五人の若い男が入ってきた。さっきのワンボックスに乗っていた男達だった。
「瞑想ルームに入れておいてくれ」
鳥井は、そう言うと、乱れてもいないスーツの襟を直した。
「鍵はちゃんと掛けるんだ」
何が瞑想ルームよ、とわたしは思っていた。
窓の無い地下室で、ドアが一枚あるだけ。あとは粗末なベッドと、黴臭い布団が一組。あとは何も無かった。
これは独房よ。
そうは思ったけれど、だからと言って状況が良くなるわけでもなかった。
連れて来られるときに、バッグは取り上げられたから、携帯電話も無い。
いつまで、ここに閉じ込めて置く気かしら。
その時、はっと気が付いた。
トイレはどうするのよ。
独房ならトイレも作るべきでしょう。
わたしは頭を振った。
冷静になるべきだわ。トイレがどうとか言っている場合じゃない。それよりも、どうやってここを抜け出すかを考えたほうがいい。
わたしは立ち上がった。
ドアには鍵がかかっている。ドア自体は木製で、古くなってガタが来始めていたけれど、壊れるかといったら、壊れそうにもなかった。蝶番はしっかりしているし、第一、工具もない。
あ、ポケットにナイフが一つあるけど。
と言っても、カッターナイフの小さいやつだけど。こんなのでこじった日には、ドアが壊れる前に、ナイフがぽっきり折れてしまう。
このナイフは他の用途に使ったほうがいいわ。
あとの出口は、と天井を見上げた。明りは、裸電球が一つ切りで、それもトイレ用の薄暗いやつだったから、ぼんやりと見えるだけだった。そのスイッチは、ドアの横についていた。
空気の取り入れ口もなかった。
たぶん、ここは『トランステクノロジー』が買い入れる前はホテルか何かで、この部屋は、物置きだったのだろう。うちっぱなしのコンクリートの壁も、そう考えれば納得がいく。
わたしは、大きくためいきをついて、ベッドに腰を下ろした。
ほこりが舞った。
喘息になるかもしれない。




