六. 古き神来たりて
肌を冷たい雨が打つ感触でセラタは己を取り戻した。
天井はなくなっていた。かわりに頭上には重苦しい雷雲が立ち込めている。
無残に倒壊した柱や瓦礫が散乱し、大広間であったはずのその場所は豪奢さももはや見る影なく風にさらされていた。
「これは…いったい、どうして…」
顔に吹き付ける雨がうるさく、兄の变化から髪の短い少女の体にすがたを変えたセラタはなかば惑乱して頭をかきむしった。雨霧と粉塵のせいで見通しも効かない。
すぐそばで立ち上がったのは兄のシーヤだった。そのシーヤに掴みかかる勢いでセラタは問いかける。
「なぜこんなことが起こるんだ。アルヒ様は?いったい、何が起こっているんだ」
「落ち着くんだ、セラタ」
そう言いながらも、シーヤもひどく狼狽しているようだった。
そんな態度を見て落ち着けるはずがない。セラタにわかることは、なにか巨大な力がこの宮を呑み込んだということだけだ。
そしてその力は、セラタが身を投げ出してでも守るべきアルヒがテロスと力を添わせることにして生まれた…。とにかく、アルヒの無事だけでも確認したかった。
「見ろ!」
背後から喚叫するラミの声にセラタとシーヤはびくりと動き、指を指した先へ目を向ける。
そこに、巨大な影が立ち昇っていた。
はじめはそれが何なのかセラタにはわからなかった。よくよく目をこらすことで、それがルサであることがわかる。
目を閉じたまま足を地に向けて、ルサが浮かびあがっていた。
ルサの体には生き物のように巨大な影がまとわりついてゆらめいている。あたかもルサが黒々とした棒にはりつけられているかのようだ。
あまりに異様な光景だ。そのそばで膝をついたアルヒとテロスのすがたにも目をくれず、セラタはルサばかりを注視していた。
『ココは…どこだ…』
ルサが口を開いて、頭の中で直接響くような声でしゃべりはじめる。
それは、ルサの声ではなかった。雷雲がうなるような、本能的に人を震え上がらせるような声だった。
『私は…どれほど、眠っていたんだ…』
ルサにまとわりついた影のゆらめきから、ときおり人の顔が浮かび上がる。
「お前は、誰だ」
額に汗をにじませながらもテロスは問う。
それにルサが目を開いた。白目まで純黒に染めたような、穿った穴に似たひとみが問いかけたテロスを不思議そうに眺める。
『私はイツクシミヤのイト。我が血を連ねし者よ、その名も知らずに私を呼んだというのか』
名乗ったしゅんかん、影のなかに垣間見えていた人の顔が形をなしはじめた。ルサを透かして、男の姿が浮かび上がる。
「あれが…カゲなのか…」
シーヤが震える声で言う。
「どういうことなんだ」
「口寄士…そのなかでも、規範を守ることに重きを置く者たち…いや、そのさらに深淵にいる、カゲを呼び起こす者たち…かれらの悲願だ。
宮主の力は、いかにその血を濃く継ごうとも、時代の流れとともに変わりゆくさだめにある。それにあがなうために口寄士たちがいて古い方法を護り伝えているのだが、知識や教えというのは色褪せるのだから、いずれは限界が出始めるというのがご初代の考えだった。
未来を憂いた初代の宮主は命が尽き果てる間際になっておのれの意思をカゲとして子に刻んだんだ」
ラミが立ち上がり、シーヤの言葉を継ぐ。
「イツクシミヤ直系の子の血の中に眠ったカゲを起こすには、初代をも上回る巨大な力の巡りが必要だった。そのためにふたりの力をひとつに合わせる必要があった」
ふたりの話は現在の状況に符号する。アルヒとテロスが力をひとつにしたことによって、たしかにこの惨状はうまれた。
だが、このふたりが力を合わせるきっかけは何だったろうか。そのきっかけになったルサはなぜ命を散らしたのだろうか。
「…そうか。これが儀式…このために、私は兄さんと戦わされた…」
「はじめはカゲの『容器』となるのはシーヤになる予定だった。シーヤにはずっとそのつもりで動いてもらっていたし、そもそもこの戦いでシーヤはテロスと魂繋などしていなかった。
戦いのなかでシーヤには命を散らしてもらい、それをふたりが蘇らせることによって、カゲを呼び起こそうとしたんだ」
暗雲を背にして、カゲは悠然とした態度で己が子孫を見下ろしていた。
『…なるほどな。その力を持て余しこの私を呼んだとみえる』
「ルサは…ルサは、無事なのか?」
『ルサ?ああ、この体の持ち主たる娘か』
ようやく自分がどんな体を借りているのかに気がついたように、カゲは視線を落とす。
『血の流れたあとがあるな。今は無事だと言えるだろうが、このような華奢さで私の力に耐えられるかどうかは保証はできぬ』
「ならば、その体から離れろ!」
立ち上がり食ってかかろうとしたテロスは立ちくらみに襲われてよろめいた。視界がちかちかと点滅し、頭のなかから揺さぶられているように感じる。
急激に力を使った影響かと思ったが、少し違うようだった。顔を上げれば、となりで同じように膝をつくアルヒが額をおさえている。
『私に立ち向かうのは無謀だ。私の力とそなたらの力は引き合いすぎる。力を吸収しつくされ、枯れ果てるぞ』
「何のために、お前は現れたんだ…」
地面が動いているような三半規管の狂いに気分を悪くしながら、アルヒは問いかける。
『お前たちに力を授け、道を示すためだ。そなたらが正しく私を求めるのならば、力の流れはそなたらに向こう。
この体を通じて記憶が流れ込んでくる。今のこの国の様相が見えるぞ。
口寄士どもめ、己が役目を忘れ権威に走ったか。絲の力を武力ととらえ、覇道に乗り出す者…己の優越感を満たす者…果ては、斎王なる者に癒着し権威を強固なものにしようとする者。快楽に身を任せた豚は見るに耐えぬ。
そしてこの国の民も同様だ。もはやイツクシミヤの奇跡を虚栄心を満たすための道具にしか思っておらぬ…。
わが末裔の娘よ、お前はそれを憂い己の力を疑い嫌っているな』
「道をお示しください」
よく響く声でラミが告げる。
「我は口寄士ツタド家十五代目ラミ。口寄士衆を代表して恐み恐みも申す。未来の宮主に、正しき道を」
黒々としたひとみがラミをよくよく眺める。常人であれば震え上がり平伏したくなるほどだが、ラミは背筋を正したまま真正面からその視線を受けとめた。
『正しき道などないのだ、ツタドの末裔よ。山の中にあって引かれた道など、人びとが都合で引いたものに過ぎぬ。
真に己が望んだ場所へいたるには、みずからの経験と意思のもと、道を築くよりないのだ。…若い宮主ども』
カゲがアルヒとテロスへと向きなおる。
『私に何を望むか。この国を変革するほどの力が欲しいか。それとも腐ったこの国を一度更地に戻すほどの絶対なる破壊か』
「私は…」
テロスの口もとが震える。さまざまな感情が巡り、そのどれもが違う答えを叫ぶ。はやく答えなくてはルサの体がもたないと思うが、なかなか言葉は出なかった。
口火を切ったのは、そのテロスの迷いをまざまざと見つめていたアルヒだった。
「あなたに、眠っていただくことを望みます」
『何だと?』
アルヒが足を震わせながらもなんとか立ち上がり、カゲをまっすぐに見すえる。
「この力をすべて、あなたにお返しします。この力をもって、どうか安らかにお眠りください。
宮主が絶対的な力をもって人びとを導き守護する時代は終わりました。この力は、人を尽きない夢へ酔わせてしまう」
アルヒの口からすべりだす言葉のひとつひとつがよどみなく紡がれていく。
『この力なくてはこの者を救うことはできなかったとしてもか?』
「圧倒的な力を使うことは、己を見失う。それを称えるものが多ければ多いほど酔いは醒めません。傲慢さは伝染し、やがて他人を支配できると錯覚できるようになる」
あれほど力を使うのはこわいと思っていた。それがどうだろう。
ノーシの命を救えたことによって、アルヒの心には今までにないものが芽生えた。…いざとなれば、自分には大事なものを救う力がある。
セラタにシーヤを殺させようとしてしまった。たしかに表面上では、こんなことはよくないと思っていた。それでもただ「儀式の先へ行くこと」にすがりついたのは、間違いなく驕りがあったからだ。
そうだ。セラタがシーヤに致命傷を与えることがあれば…それによってテロスが傷つくことがあっても、自分の力で癒やせばいいとどこかで思っていた。
だからこそ、ルサを救えると強い気持ちで言えたのではないか。
きょうだいが殺し合って傷つくのは体だけではない。その行為を良しとする驕心がアルヒのなかには確かにあった。テロスと力を合わせルサを蘇らせようとしたときの高揚感の正体がこれだ。
「私も、アルヒと同じ意見です」
ふらつく足で同じように立ち上がったテロスが言葉を継ぐ。
「すでにこの国は豊かさを手に入れ、地盤を手に入れました。それを導くための神の力は、もう必要がないのです。
糸が足りないことはなく、編み目は十分にある。これにさらに糸を紡いで加えようとするのは、均衡を崩します」
『そうか。すでにそなたらふたりの意見はひとつ、ということなのだな?』
アルヒとテロスが同時に首肯する。しばし、カゲに面白がるような表情が浮かんだ。
大地を叩きつける雨足が一層強まる。ゴロゴロと空に敷き詰められた灰の雲が唸りをあげ、遠くの空に閃光が走った。
突如として、カゲの手がアルヒとテロスの首をつかむ。それを見るやとっさに飛び出しかけたセラタとシーヤをラミが制した。
『私を滅ぼせるなどというのが驕りだということを、思い知るが良い―!』
雷光が閃く。
大気をつんざいて、まばゆい雷槌がふたりを襲った。




