番外編 姉と弟
この話は番外編であり、本編を踏まえた内容・展開になっています。
本編を読了の上でご覧いただけると幸いです。
マユロウ伯の第二子であるカラファンドにとって、異母姉カジュライアは絶対的な存在だ。
カジュライアが正妻の子で、カラファンドが側室の子であることもある。だがそんな生まれの差以上に、姉の存在は大きかった。
側室を認める貴族社会であっても、継承権には大きな差がある。側室の子を正式に認めない家もある。正妻が子に関する全権を持つから、とても幸せとは言えない一生を送る庶子も少なくない。
だがマユロウ家では、正妻が庶子でしかないカラファンドを可愛がっていた。自分が子を一人しか生めなかった負い目もあっただろうが、自分の娘の盾となる定めのカラファンドを大切にした。
しかしカジュライアは、そんな母親の方針以上に異母弟をかわいがっていた。
生まれて間もない時から抱きたいと騒いでいた。歩けるようになると、飽きるまで散歩に付き合った。一緒に走れるようになると、森まで連れ回してマユロウの人々を慌てさせた。文字を教えるのだと言って、カラファンドが飽きて泣くまで絵本を見せていた。
カラファンドも、姉のためなら大概のことはできると思っている。
幼い頃には、きれいな蝶になる幼虫だけを集めろとか、野蚕の繭を籠いっぱい集めろとか、それなりに無茶な命令を受けてきた。しかしそんな時だって、姉カジュライアはカラファンドをいたぶるような気持ちはなく、一緒に森の中に入って探していた。
森で遊んでいて怪我をすれば手当をしてくれたし、足首をひねれば背負ってくれた。たった四歳違いの異母弟はきっと重かったはずだ。なのに、カジュライアはさんざん文句を言いつつ、最後まで背負ってくれていた。
そういう姉だから、カラファンドは姉の言葉は絶対となっている。
次期領主であっても武人ではない姉の代わりに、戦場に出られるように日々鍛錬を繰り返してきた。領主となる姉の補佐ができるように、知識もそれなりにつけてきた。いざとなったら影武者となれるよう、姉と同じ色の黒髪は長く伸ばした。何かあれば姉の代わりに死ぬことになるだろうと思ってきたし、それを嫌だと思うこともなかった。
カラファンドにとって、姉カジュライアはそういう存在だ。
姉から死んでくれと命じられても、自分は笑顔で受け入れるだろうと考えていた。
そんなことは想定していたが、二年前の姉の言葉は、反応に困るものだった。
「カラファンド。この姉とともに、婚約者に逃げられた男という汚名を着てくれないか?」
……まさか、そうくるとは。
カジュライアがハミルドを大切に思っていることは知っていた。姉の気性なら、ハミルドの恋を叶えてやるかもしれないとは思っていた。だが、まさか命令ではなく懇願がくるとは。
カジュライアの立場なら、庶子でしかないカラファンドには一言命じればすむのだ。メネリアを諦めろ、と。
なのに一緒に汚名を着てくれとは、どこまで優しい人なのだろう。
その上、カジュライアは自分がどういう立場になるかを理解していないように見えた。二十一歳になった貴族の娘に、今さら新しい結婚相手を探すなど、どれほど大変なのかを理解していないのではないかと危ぶんだ。
だからカラファンドは、深いため息をついた。
「カラファンド?」
「……僕はね、メネリアもハミルドも大好きですよ。でもこの場合、一番被害があるのは姉上ではありませんか? 失礼ながら、姉上はもう二十一歳で、新しく結婚相手を探すのは大変では?」
「私のことはどうでもいい。しかしおまえには、たった十七歳で嫌な思いをさせてしまう」
カジュライアはたぶん本気でそう言っている。
異母弟でしかないカラファンドだったが、十七年間一緒に育ったから姉の表情を読み間違えることはない。
だから、姉の言葉に脱力感すら覚えてしまった。
カラファンドは側室の子。そして自分の容姿が人より優れていることも自覚している。政略結婚はもちろん、何処かの奥方や令嬢の心を奪えと命じられる未来さえ想定している。命を含めてすべてを嫡子カジュライアに捧げろと生母にも言われてきた。
そういう庶子を弟として扱い、マユロウ内で力を与えるためにメネリアという嫡流の従姉と婚約させ、今は一緒に汚名を着てくれと懇願する。
こういう姉に、何を返せばいいのだろう。
まだ若いカラファンドには途方に暮れる思いだった。その日から、カラファンドは異母姉が幸せになってくれることをひたすら祈るようになった。
だからといって。
定めの儀式の前夜に父であるマユロウ伯に告げられたことは、カラファンドの容量を超えていた。
「父上……無理です……絶対無理です!」
父マユロウ伯や姉カジュライアに命じられれば、戦場の最前線にも行くし、誰かを殺せと命じられても否とは言わない。しかし、これは無理だとカラファンドは青ざめていた。
領主が主催する定めの儀式に、偽の当たりくじを入れてしまおうとは、そんな事態は許されるのだろうか。
「姉上は厳正な定めの儀式を望んだのではないのですか? こんな……こんな不正は望んでいないのではないのですか」
「あれは自分に厳しすぎるから、たまには周りが甘やかせてやらねばならんのだ。おまえもマユロウの未来を背負う一人として覚えておけ」
マユロウ伯は一瞬だけまじめな顔をしてそう言う。
「メトロウド殿となら、今まで通りのカジュライアであるだろう。ルドヴィス殿とは新たな可能性に踏み出すだろう。ファドルーン様と一緒に暴走すれば、マユロウ王朝を開くことになってもおかしくはないぞ。……だがな、そなたもわかっているだろう。カジュライアの表情がいつ和らぐか。我らと違って、カジュライアは不器用な女だ」
十九歳の多感な青年としては、いい年していまだに恋多き男である父親とは一緒にして欲しくはなかった。だが今のカラファンドには、その事を指摘する余裕はなかった。
「し、しかし……くじの順番は、アルヴァンス殿は最後になりますよ。他の三人だって姉上を嫌っているようには見えません。どちらかと言えば……ほ、惚れていると言うか……」
「惚れているだろうな」
「だったら、こんなわかりやすい当たりくじをいれていれば、アルヴァンス殿の時まで残るわけがないじゃないですか!」
「おまえもまだまだ子供だな。メトロウド殿はそうとわかっていれば、当たりくじを絶対に引かない。ハミルドの影がちらつくのを誰よりも嫌っている誇り高い男だ。ファドルーン様も皇帝陛下への反抗心から当たりくじはひかない」
「……ルドヴィス殿はどうするおつもりですか。あの人は本気ですよ」
「確かに危険な男だが、あれでカジュライアには甘い。愚かなくらいに甘やかす」
にやりと笑い、マユロウ伯は息子の肩をばしんと叩いた。
「まあ、これも運試しだ。そのときの運次第。もともと誰が選ばれても困らぬのだ」
「そんな……いや、でも、もし不正が明らかになったら、皇帝陛下の怒りを買ったりしませんか!」
「まずいだろうな」
「だったら無茶なことはやめてください」
「そのときは全面戦争だ。楽しいぞ」
マユロウ伯は笑うが、カラファンドは笑うどころではない。
皇帝との全面戦争など、マユロウ壊滅以外の未来は見えないではないか。
どうあっても父親の考えは変わらないと悟り、ひとしきり髪をかきむしってから目の前に置かれているくじを見た。
「……それで、これはいつ本物と入れ替えるのですか?」
マユロウ家に伝わる定めのくじとそっくりの偽物。端にごくごく小さな点がある。反対側の端には、マユロウ家の紋章。あたりくじの偽物だ。
「直前だ。私の手品が成功することを祈っておけ。そなたも長老の目をごまかすのに協力しろよ」
カラファンドは絶望のこもったため息をついた。
「ああ、やっぱり無茶ですよ……」
カラファンドは頭を抱え込んだ。
その夜は眠れる気がしなかった。……実際、ほとんど眠れないまま朝を迎えてしまった。
「よかった……本当に三人が人格者でよかった……!」
定めの儀式の後の宴では、カラファンドはひたすらそう言いながら泣いていた。
まだ若い彼には、この不正の秘密は重すぎたようだ。それ以上に酒を飲み過ぎている。
泣き上戸ではなかったはずなのにずっと泣いていたら、姉カジュライアに酔いつぶれかけたアルヴァンスを壁際の椅子に運ぶように命じられた。
間違いなく鬱陶しかったのだろう。
しかし泣き上戸になってしまっても、カラファンドは酒に強いマユロウ伯の体質を受け継いでいて、酒杯を取り落とすほど酔ったアルヴァンスを支えて歩くくらいは簡単だ。特に息を切らすまでもなく、赤髪の貴公子を椅子に座らせた。
酒杯を持てなくなって酒をこぼしてしまったアルヴァンスは、目を閉じて椅子の背の身を預ける。カラファンドもその横に座った。
「すっかり酔ってしまいましたね。せっかくのお召し物が濡れていますよ」
「……カラファンド君、あの当たりくじはいったい何だったんだ?」
もうまともな対応はできないと思っていたが、アルヴァンスの声は意外にしっかりしていた。カラファンドはわずかに目を見開いたが、彼もつい先ほどまで泣いていたとは思えないような落ち着いた顔で答えた。
「あなたに幸運をもたらした当たりくじでしょう?」
「……なぜあんなものがあるのか、と聞いているんだよ」
「我らがマユロウで、あなたと一緒にいる時の姉上が寛いだ顔で笑っているからですよ」
カラファンドは笑顔すら浮かべていた。
その笑顔を目を開けたアルヴァンスは見ていたが、またふらりと椅子に沈み込んだ。
「カラファンド君も大人になったな。私も年を取るはずだ」
「そういえば、アルヴァンス殿は三十歳を越えていたんでしたね。三十五歳も近かったのでしたか?」
「……そんなにいっていない。カラファンド君から見ると年寄りだろうが、まだそこそこ若いんだ」
アルヴァンスはややむっとしたようにぼそりとつぶやいた。
その様子がおかしくてカラファンドは笑った。笑いながらアルヴァンスの肩に手を置き、すっと顔を近づけた。
「一つだけ言っておきますよ。姉上を悲しませるようなことをしたら、僕はあなたを殺します」
笑みが残ったままのきれいな顔だったが、抜き身の刃のような表情だった。
しかしアルヴァンスは、薄い笑みを浮かべてカラファンドを見ただけだった。
「残念だが、君は私を殺せないよ」
今度はカラファンドがむっとした顔をした。しかしアルヴァンスはなだめるように苦笑した。
「君の腕は知っている。だけど、たぶん無理だよ。君に殺される前に他の方々に殺されている。……今日は散々言われてしまったよ」
三人に囲まれている間に、どういう会話があったのか。
カラファンドとしては、怖すぎて考えたくない。想像できるからいっそう怖い。
ため息をついた時、カラファンドは姉がこちらにやってくるのを見た。
「こぼしたところが汚れたままだ。上着を脱いでください。着替えはないが、とりあえず毛布はもらってきましたよ」
カラファンドが立ち上がって場所を作ると、カジュライアは当然のようにアルヴァンスの隣に座る。酔った貴公子から重ね着していた上着を器用に脱がせ、手や顔を布で拭き、他に汚れたところがないかと身を寄せて服に手を滑らせている。
……ちょっとそれは、まずいのではないか。
カラファンドがそう思った時、アルヴァンスの手が動いた。すぐそばにあった身体を捕まえ逃がさないように腕の中に包み込む。
困惑するカジュライアの肩に頭を乗せ、アルヴァンスは乱れた黒髪に頬を寄せた。
「アルヴァンス殿?」
「……あなたは温かいな」
すでにかなり酔いが回っているアルヴァンスは、それだけつぶやくと目を閉じる。それでもカジュライアを抱き寄せる腕は緩まず、そばにある体温を堪能しているように見えた。
ため息をついたカラファンドは、二人から少し目をそらした。
それから姉が取り落とした布と汚れたアルヴァンスの上着を拾い上げ、急いで周囲を見回した。
ルドヴィスはマユロウ伯の正妻が話し相手にしていた。ファドルーンの前には果物がまだ山盛りにある。カラファンドは通りかかった使用人に布と上着を預け、早足で父とメトロウドのところへ行く。
今、姉のためにできることは一つだけだろう。
「メトロウド殿!」
いつもの繊細な美貌を忘れさせるような殺気あふれる目が、アルヴァンスからカラファンドに移って少し緩む。
「剣舞をしませんか?」
今にもアルヴァンスに切りつけそうだったエトミウの貴公子は、腹立たしそうに舌打ちしたが、ここはカラファンドの誘いに応じてくれた。メトロウドのこういう激しさと義理硬さは、カラファンドも嫌いではない。アルヴァンスの扱いが荒くても、それはそれでカジュライアへの配慮でもある。
その苛立ちを晴らす勢いで本格的に剣を打ち合ったとしてもマユロウの宴なら許容の範囲であり、眠れない夜を過ごしたカラファンドとしても望むところだった。




