赤と銀②
銀行強盗を前にして、予断を許さない、緊迫した時間が張り巡らされていく。
しかしディードとシェラは一向に動かない。ディードは苛立ち混じりにあくびを噛み殺し、シェラは枝毛を探して、まるで二人して『野次馬にきました』と言わんばかりだ。
「お、おい貴様ら、何を突っ立っている?」
二人に詰め寄ってきたのは、銀行の支店長らしき中年男性だ。
「早くあの銀行強盗を何とかしろ! それが仕事だろうが!」
「警備契約を結んでいない俺たちには、関係のない話だな」
ディードは悪辣に口の端を持ち上げた。銀行強盗を目の前にして平然と言ってのけるあたり、やはりマトモな神経の持ち主ではない。
支店長の面相は怒りで真っ赤に茹で上がった。
「目の前に助けを求めている人間がいるんだぞ! それでもお前はACCか!」
「人助けだからといって殺人が許されるわけではない。それではただの殺人鬼だ」
シェラの口振りに含まれていたのは、かつての自警組織に対する皮肉だ。
そもそも二人は、ACCは慈善で事件に首を突っこんでいるわけではない。このように突発的な事件に一番乗りして報奨を得ようと、ハイエナのように機会を窺っているのだ。
二人に人情を期待した自分が馬鹿だったとばかりに、支店長は深く深くへこたれた。
「分かった。分かった! 望み通り君たちに報奨を出そう」
「断る」
しかしディードは静かな怒声で拒否した。どうにもこの支店長はオツムが弱いらしい。
「お前はまだ、自分に主導権があると思っているのか? どうしても状況を打開してもらいたかったら、こちらの提示する条件で契約するのが道理だろうが」
ディードは契約書を突きつけた。途端、支店長はこの数分間で何度目かの顔面蒼白に陥る。
「な、何だこの法外な金額は……!」
「非常時価格だ」
ディードは苛々とした調子で、支店長の退路を一つ一つ絶っていく。支店長の顔色は蒼白を通りこして、反対側が透けてしまいそうなまでに脱色されていた。
ディードは人質の安否を窺うように視線を移動させる。釣られて支店長も人質を見てしまい、女性の恐怖と懇願が綯い交ぜになった視線を直視してしまった。
「早く決断しないと大損害が出ますよ、支店長さん」
「…………わ、分かった。その条件で君たちを雇おう……」
ついに支店長の心がへし折れた。今にも膝から崩れ落ちんばかりの憔悴を見せている。
皮肉なことに、支店長の心を折ったのは、支店長としての責任感だった。勿論ディードはそこまで計算して、『支店長』の一言を強調したわけだが。
支店長は這う這うの体で契約書に署名して、その場にへたりこんでしまった。
「普段からACCと警備契約を結んでいないからこうなる」
失禁寸前に追いこまれた支店長へと、ディードは辛辣な言葉を吐き捨てた。
それにしても苛立たしい。つい今しがたまで仕事がなくて暇だったこともだが、目の前で兵錬武犯罪が起きている現状も、予防対策を練っていなかった支店長も、何もかもが苛立たしい。
その元凶である兵錬武自体が、最も苛立ちを刺激してくる。
強盗犯に視線を向けたディードから、途端に殺意が溢れ出してきた。瞳を鬼火のように輝かせ、強盗犯へと歩を進める。
「ち、近付くんじゃない! コレは本物の兵錬武だぞ!」
事態の急激な展開に錯乱した強盗犯は、涙声混じりで鋸を突き出した。愚かなことに、自らの安全を保障していた人質から凶器を離して、ディードに向けてしまったのだ。
そこから先は電光石火の出来事だった。
一瞬で強盗犯との距離を詰めたディードは、薙刀の刃で鋸を外側に弾く。踏みこみ、掌で耳朶を強打して鼓膜を破壊、その奥の三半規管まで衝撃を届かせて平衡感覚を失わせる。竜巻のように人質を奪い取り、安全圏へと後退する。
僅か数秒で、強盗犯は地べたに尻を落とす羽目になっていた。涙と鼻水に汚れた顔で、大斧を振り上げたディードを見上げる。
「た、助けて! どうか命だけは!」
「知らないのか? ACC各社には、兵錬武犯罪者の殺害が許可されている。例えそれがどんな軽犯罪だろうがな」
「む、息子が重い病なんです! 治すには莫大な治療費が必要なんです!」
「……そうか」
ディードの動きが止まった。俯き、表情を隠す。
再び上げられたディードの両目には、容赦どころかさらなる激情の炎が燃えていた。
「つまりお前は、自分が弱者だから虐げる側に回っても許されると言うんだな!」
「ひぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
男の絶叫は、いやに長く尾を引いた。
振り下ろされた大斧が男の頭頂から股間までを一気に駆け抜け、アスファルトを叩き割って飛礫を散らす。頭部を襲った圧力によって眼球が飛び出し、断面からは滝のように血液と脳漿と内臓が零れ落ちて、男の肉体は自らの内容物の上へと倒れた。
「お前が死んだのは、お前の愚かさが原因だ。お前の息子も愚かさの後払いをさせられる」
ディードの苛烈な弾劾が強盗犯の死体に叩きつけられる。死体の頬は涙で濡れていた。
その頃になってようやく、けたたましい警報音が聞こえてきた。
軍用装甲車が到着し、内部から一糸乱れぬ挙動で軍服の一団が姿を現す。軍人たちは強盗犯の死体とシェラを目にした途端、一瞬で状況を理解して頷いた。
その場に警察関係者は一人もいない。
兵錬武犯罪は警察ではなく軍の管轄となっていた。兵錬武同士の衝突は戦車が戦っているのに等しく、兵錬武の所持を許されていない警察組織では対処できないからだ。
また、怨恨による殺人や、万引きに道路交通法違反、銃器による犯罪や詐欺、それに密輸や密造や密航などがなくなったわけではなく、むしろ兵錬武犯罪よりも圧倒的に多い。
警察はそれら非兵錬武犯罪専門の公安局として、明確な住み分けが成されていた。
軍人たちは現場を保存し、人質になっていた女性を救急車に誘導し、聞きこみを始め、それぞれが迅速に行動していく。その中の一人がシェラを目に留めて、小さく頭を下げた。
「……何だ今の?」
「単なる昔の知り合いだ」
「ああ、そういえば、冷血眼鏡は元軍人だったな」
途端にシェラは無表情の温度を下げた。ディードはシェラが軍から追い出された経歴を知っていて、不機嫌になることまで計算ずくで口を滑らせたのだ。
「事件を解決したACCってアナタたちでしたのね、シェラ」
険悪な緊張感を漲らせる二人の間に、別の声が割って入ってきた。車両から出てきたのは、控えめで素朴な、清楚という表現が似合う小柄な女性だ。汚れのない白衣も、怜悧な科学者というよりは化学実験中の女子学生を連想させる。
「やあロナ、久しぶりだ」「ロナさん、こんにちは」
科捜研兵錬武科主任研究員ロナ・カークケイトは、二人とは既知の仲であった。
「二人がいると事件はすぐに解決するから、科捜研の出番なんてないですね」
ロナは憂鬱げに肩を落とした。それは職務に対する情熱の鎮火ではなく、前例からして無残な結末を迎えたであろう犯人への哀れみだ。
死体の傍らに屈んだロナは、手袋が血で汚れるのも構わず、強盗犯の瞼を閉じてやる。鈍色の瞳に浮かべられるのは憐憫の感情だ。
「彼には罪を犯さざるを得ない理由があった。彼は方法を間違えたけど、弱者であることがそんなにも悪いことなの?」
「だからといって兵錬武を、犯罪を正当化していい理由にはならない」
ディードは断固とした口調をロナに返した。ロナはさらに深く憂いを浮かべる。
ディードの目には憎悪があった。罪を憎みすぎて人まで憎んでいるような、濁りきった視線でロナを射竦める。
ロナは理解していた。ソニス市で生まれ育ったディードは《十一人戦争》の被災者だ。《大戦》の経験が兵錬武を、引いては兵錬武犯罪者を激烈に敵視させているのだ。
ロナとシェラも《大戦》の被災者だ。家族を失い、孤児院で育てられた。だからこそディードの感情も理解できる。
「でも、それでも、ディード君のやりかたは極端です」
「知っていますよ。だけど兵錬武犯罪者に殺害許可が下りているのは、兵錬武が兵器として強力すぎるからだ。兵錬武犯罪は発生が即大量殺人と大規模破壊に繋がる。生死問わずって積極的自衛で釘を刺しておかなきゃ、抑止にもならないんですよ」
「悪いが、私も凶暴眼鏡の意見に賛成だ。もしもあの男が私の可愛い息子に害意を向けていたかもしれないと考えただけで、私は自分の中の非情さを否定できない」
「育児放棄してる離婚者の言い分じゃねえな」
「童貞如きが人様の教育方針に口を挟むな」
ディードの危険薬品の視線とシェラの極寒の視線が火花を散らす。同じ意見であるはずなのに、二人の間に休戦という概念が成立する気配はなかった。
「第一、ロナさんも知っていると思うけど、兵錬武は一つで家が買えるほど値が張る代物だ。兵錬武を買う資金があるなら、それを治療費に回せばよかったんだよ」
「そうね。ワタシもアナタがたが間違っているとは断言できません。
だけど忘れないで。法律も倫理も、所詮は他人の決め事よ。法律が、社会がアナタたちを裏切る場合もある、ってことを」
ディードとシェラは神妙な顔を浮かべた。二人は社会が日常を裏切った例を、身に沁みて体感していたからだ。
他ならぬ八年前、エルレイド王国の滅亡と、エルレイド共和国の建国として。
二人はロナに別れの挨拶を残して、公園の駐車場に停めてある電動車へと戻った。電動車に三列ある座席の後ろ二列は畳まれて、銀色の単車が搭載されている。電動車の側面に印刷されているのは、《ブラック・プライド》の社名と羊の角を象った社章。
ディードはペルテキアを電動車の屋根に固定して、運転席の扉を開ける。シェラが助手席に乗りこんで、
「ちょっと待って!」
後ろからかけられた声に、鍵を回す手を止めた。窓を開けて声の方向を見る。
そこに立っていたのは、強盗犯の人質になっていた女性だ。年齢はディードよりも少し上、シェラやロナと同じ二十代中盤くらいだろうか。女性が身に纏った桃色の制服は、どこかで見覚えがあるような気がする。
女性は二人に深々と頭を下げた。
「先ほどは、救けていただいて有難う御座います」
気丈に振舞いつつも、女性の目尻にはいまだに恐怖の残滓がこびりついていた。
「それでいいのか?」
「え?」
思いもよらぬディードの言葉に、女性は疑問の表情を浮かべる。
「俺たちはあんたを見捨てないまでも、少なくとも意図的に恐怖を長引かせた。それに対する返答が、礼でいいのかと訊いている」
ディードの真剣な問いかけに、女性は考えを巡らせるように押し黙る。頷いた顔には、それでも笑みが残されていた。
「私が命を救われたことに変わりありませんから」
女性の笑みと言葉に、ディードは毒気を抜かれたようにきょとん顔を浮かべた。
「申し遅れました。私はこういう者です」
思い出したように女性が名刺を差し出してきた。ディードは声に出して、「《ゾルキス軍事開発工業》、アイゼリカ・ダーシュ」と読み上げる。
二人は弾かれたようにアイゼリカの顔を見た。
「《ゾルキス軍事開発工業》……軍式兵錬武を開発している、あの《ゾルキス》か?」