悪霊の再来①
ウラル・ウル・ウルトルガは、ディードの目の前で死体となっていた。数日前のアイゼリカと同じように、地べたに尻を落とし、倉庫の内壁に背を預けて絶命していた。
ウルの死体を目の当たりにして、しかしディードは動じない。怒りや悲しみを感じていないのではなく、余裕がなかった。まるで体の隅々、指先から体内に至るまでを百足が這い回っているように、正体不明の不安と焦燥が渦巻いている。
背後で物音。ディードは咄嗟に振り向く。
そこに悪霊が立っていた。
深夜、それも月光すら届かない倉庫の内部であるにも関わらず、周囲の闇よりもなお暗い黒一色の兵錬武だ。表皮は濡れているような光沢を放ち、金属製の革服という形容がぴたりと合う。両手両足の二十指は太く、一本一本が女の手ほどの大きさ。それらを保持する側である両腕両脚も巨大で、子供か小柄な女の胴体程度はある。
顔は仮面のような平面。幾何学状の凹凸と両目の白しかない。
怪人と呼ぶには人間から逸脱しすぎ、怪物や魔物と呼ぶには得体が知れなさすぎる。
ゆえに悪霊。
ディードの肌が総毛立ち、臍の奥が冷たくなる。思わず身震いして、ディードは不安と焦燥の正体に気付いた。恐怖だ。
ディードは悪霊が放ってくる威圧感を知っていた。覚えていた。忘れられなかった。
十年振りの再会だった。
「うぉぁぁあっ! イグニッション!」
次の瞬間、ディードは悲鳴じみた絶叫を上げてペルテキアを起動させていた。繭の崩壊と同時に飛び出し、悪霊目がけて大斧を大上段から振り下ろす。
悪霊がウルを殺したのかだの、《白銀の影》の三人目なのかだの、正体は誰だだの、ディードには問答するつもりなどない。潜在的な恐怖に支配され、何も考えられない。
大斧が悪霊の左肩から股間までを一気に縦断、コンクリの床を砕いて破片を散らした。
同時にディードの背中に衝撃が突き刺さる。
ディードは激痛も忘れて、目の前で起きている全く理解不能の現象に目を奪われていた。
切断したはずの、いや、切断したと思っていた悪霊の左半身が消失していた。消失したはずの左半身は、ディードの背後で肘鉄を繰り出している。
左半身だけではなく、瞬く間に頭部が、胴体が、右半身の指先から爪先までもが、光の粒子となって消失。同時に背後の左半身に右半身が再構築され、悪霊は完全な姿に復元される。
悪霊が身を捻り、ディードの背へと手刀を振り下ろす。同時にディードは脊椎反射で尻尾を横薙ぎし、悪霊の手刀と激突! 衝撃で烈風と火花が弾ける。
拮抗ではない。常に最大稼動状態であるペルテキア必殺の一撃を、悪霊は平時の膂力で相殺させたのだ。
仕切り直しとばかりに両者は距離を取る。
『ハッ! 〈屍狩り虫〉をそこまで使いこなしているか。やるじゃないか』
奇妙な声音だった。おそらく発声器官を調整して、変声機のように使っているのだ。
ディードは一度の攻防で絶望的に憔悴していた。もしも人工眼球による全方位視界と、最大稼動による運動能力がなければ、今の一動作で絶命していた。
『では、その視界と反応速度を凌駕させてもらうとするか』
悪霊はさらりと言ってのけた。
悪霊の姿が光となって消失する。いや違う、超高速で掻き消える。
ディードの人工眼球は悪霊の軌跡を目に焼きつけていた。しかしそれは全て残像だ。
倉庫の天井に出現したと思った悪霊は、瞬く間に後方の右壁、前方の左壁、梁、背後、そして懐へと流星となって高速移動。気付いたときにはディードの横腹に激痛が抉りこまれていた。
悪霊がディードの腹部に繰り出した拳は、しかし左手に受け止められている。ディードの背後に残されていた悪霊の下半身が回し蹴りを放ち、横腹に突き刺さっていたのだ。
背後からの攻撃が失敗した次の一手、さらに攻撃せずに背後から移動したせいで、ディードは『背後からの攻撃はない』と思いこんでしまったのだ。加えて懐に注意を向けた上で逆方向からの奇襲と、絶妙な連携だった。
「まさか、量子移動能力なのか?」
横跳びで距離を稼ぎつつ、ディードは叫びにも似た疑問を発していた。ディードが驚愕をしめしたのは悪霊の戦術にではない。能力そのものにだ。
「ありえない! 量子移動は一旦自分を分解して、移動先で再構築する技術だ。今の自分を消して複製を生み出す行為、まともな神経の持ち主が使うはずない!」
そして能力の行使を躊躇わない、悪霊の精神に対してだ。
『お前は十年前の自分と今日の自分が、同一の存在だと思っているのか?』
悪霊は肩を跳ね上げ、ディードの疑問に嘲りを返す。
『昨日のお前と今日のお前は同一の存在か? 生まれた直後のお前と死ぬ直前のお前は?
成人の骨格はおよそ三年で入れ替わると言われている。細胞分裂は日々繰り返され、古い自己から刷新されていく。
今日の記憶を持っているということは、昨日の自分ではないとも解釈できる。生物とは昨日と今日で違う存在、一瞬一瞬で変化する存在なのだ』
量子移動能力は、言い換えるなら自殺と複製だ。だが、悪霊の弁では複製されるべき原本自体がすでに複製品であり、生物は複製の複製を続ける存在だと言っていた。
自己の保存と連続性という本能の問題を、悪霊は生物学と哲学で否定してきたのだ。
だからと言って、『君の人生は複製が肩代わりしてくれるから、君は消えてもいい』と言われて、首を縦に振れる者がいるはずない。
『前提が違う。我々は常に消え続けている。一刹那で終わる連続性を不連続にすることなど、俺にとっては生きるのと同じだ』
自身の主張を肯定するように、悪霊の姿が光となって消失。同時に上半身が組み上げられ、ディードの横合いから手刀を繰り出す。
悪霊の手刀を長柄で受け止めつつ、ディードは歯噛みした。
これではまるで、あのときと同じだ。絶望的な力にではなく、絶対的な意志の前に屈服したあの日と同じだ。
これではまるで、自分はこの十年間、何の成長もしていなかったようではないか。
ディードが悪霊の顔面目がけて蹴りを繰り出すも、悪霊は光となって回避する。
にやりと、ディードの眼は下卑た輝きを灯していた。
ディードは体を旋回、ペルテキアの大斧が弧を描く。大斧の弧の終点に光が集まり、悪霊が出現。大斧が走り抜け、悪霊の左肘が切断される。
ディードの予想通り、悪霊は量子化と再出現を同時には行えないのだ。しかし再構築と分解の速度、その間隙の時間を考えれば、出現の瞬間を狙うのは並大抵の難易度ではない。
全身の人工眼球と運動性能、刹那の機会を狙う精密性、再出現位置を予想する実戦経験と勘の全てが揃い、さらに幸運に恵まれて、初めて成立する一手だった。




