死産された勝利者③
「……っぁ!」
声にならない息の塊を吐き出して、ディードはベッドの上で飛び起きた。体中にまとわりついた汗が重い。呼吸は乱れ、まるで陸上で溺れていたみたいだ。
深夜の寝室は暗闇に呑みこまれていた。何も見えない、何も触れない。ディードの荒い呼吸音だけが世界の全てだった。
大きく深く呼吸を繰り返して、鼓動が落ちつくのを待つ。意識が余裕を取り戻してくると、左手の温もりに気付いた。
視線を向けると、暗黒の中に二つの光点があった。スティの瞳の光だった。
「手、握っててくれたんだな」
「魘されてたから」
「……ありがとう」
礼を口にして、ディードは手を伸ばした。暗闇にも関わらず、伸ばされた手は真っ直ぐにスティの頬に触れた。柔らかく撫でると、スティがくすぐったそうに身をよじる。
これまでにも、悪夢に魘されて飛び起きることは何度かあった。そのたびにスティを起こし、心配させてしまうことを、ディードは申し訳なく思っていた。
「それと、死ね!」
突然豹変したスティの拳がディードの頬に直撃した。「へぶるぁっ!」という声を出してふっ飛んだディードは、室内を横切って後頭部から箪笥に激突する。
暗闇の中にはスティの荒い息遣いと、ディードの悶絶だけが聞こえていた。
「な、にをしやがるっ!」
「寝言で『アイゼリカさん』って言ってた」
「…………ぅあ」
ディードの激怒は、それ以上に怒り心頭に発しているスティの一言で抹殺された。ディードは情けない狼狽の声を漏らす。
「これにこりたら、金輪際、寝言で女の名前を口にしないこと!」
「せめて情状酌量の余地を与えてくれよ……」
気遣いもへったくれもないスティの判決に、ディードは気まずくなって視線を逸らした。暗闇の中をたどたどしい足取りで歩いて、ベッドの縁に腰を下ろす。
足元を凝視する背中は、暗闇に呑みこまれてしまいそうなほど小さく見えた。
その背中に重みがかかる。柔らかい感触だけで、スティだと分かった。
「……大丈夫?」
スティの体は熱かった。冷えきったディードに熱を分け与えようとするように。
「私は心配なの。いつか、ディードが耐えきれなくなっちゃうんじゃないかって。だけど私じゃディードを支えられない。その資格がないの」
スティの痛切な健気さから滲んでいるのは、ディードの過去を知らないことへの負い目だ。
ディードにはスティに隠しておく事柄など何もない。それでも自身が兵錬武を憎み、ACCとなった理由、〈ソニス4〉との関係だけは話す気になれなかった。
これはスティとの信頼の問題ではない。これは時間の問題だ。ディードにとって、彼の話題は昔話にするのに早すぎるのだ。
「スティ、俺は今でも充分に支えられてるよ。姉ちゃんや親友、言いたかないけど《厄介者の群》の連中にも」
ディードは自分の不誠実を塗り潰すように、精一杯の言葉をかける。
「だけどスティの役割は、俺を支えることじゃない。俺はスティと一緒に楽しんだり笑ったり、泣いたり怒ったりするだけでいい。一緒の時間をすごすだけで満足なんだ」
ディードは真っ直ぐにスティを見た。二人の視線を隔てているはずの暗闇は、しかし何の用も成していなかった。
「それに、スティの存在は助けになっているよ。
何と言うか、昔の俺は兵錬武犯罪者を殺すことに固執しすぎて、何も見えなくなっていた。お前がいなければ俺はとっくの昔に潰れていたかもしれない。
だけどスティに出会って、俺はほんの少しだけ余裕を持てた気がする」
ディードにとって、スティは自分の弱さを曝け出せる存在なのだ。ディードは胸の内に暖かさを感じながら、同時に脳裏の冷たさを覚えていた。
ディードは昼間に交わしたやり取りを思い出す。
(もしもアイゼリカさんにそういう存在がいれば、結果は違っていたのか?)
ディードは首を振って、取り留めのない思考を振り払った。どちらにしろ自分はアイゼリカにとって全てを話せる存在にはなれなかった。だったら口を出すべきではない。
何より別の可能性があったかもしれないなんて、考えたくなかった。
「なあ、スティ」
「なぁに?」
「この一件が終わったら、二人で旅行にでもいかないか?」
「なんで死ぬのが前提みたいに切り出すの?」
「いや、正直俺も打ちのめされて……まあ、打ちのめされてるのは毎回のことだけど、さすがに今回は度をこえてたんでな。療養と気分転換を兼ねて」
スティは思案するように視線を巡らせていたが、「そういえば、初めての旅行だね」と乗り気な笑みを返してくれた。
(げひひひひ、恋人と浜辺で水着で外泊旅行。童貞卒業は頂だ!)
この場で押し倒せないところが、童貞の童貞たる所以だった。
ディードが桃色の計算に拳を握り締めたそのとき、携帯の呼び出しが二人の間に割りこんできた。ディードはベッド頭に手を伸ばして携帯を摑み、着信者を確認する。
「こんな深夜に何の用だよ名探偵?」
『た、助けてくれ! 悪霊に追われている!』
「あン? そういう怪奇現象は霊能力者を頼れ」
『俺はとんでもない秘密を知っちまった! この事件の黒幕は……ひぃっ!』
ウルの言葉は明瞭な意味を成していない。しかし緊迫した様子だけで、彼が軒並みならない状況に置かれていることだけは確信できた。
『場所はお前とアイゼリカが戦った……くそっ! ヴェノニクス、変身!』
そこで通話は途切れた。かけ直してみるが繫がらない。
ディードは寝室の照明をつけ、素早く仕事着に袖を通す。ベッドの下に腕を突っこんで、ペルテキアを引っ張り出す。
「スティ、《厄介者の群》と《白百合》社、軍に連絡して、応援を呼んでくれ」
ディードの言葉にスティは目を丸くした。普段のディードならありえない発言だった。
「ディードが応援を呼ぶって、どれだけ危険なのよ?」
「はっきり言おうか? ……悪い予感しかしねえよ」
ディードの頬を冷や汗が伝う。表情は極度の緊張で強張っていた。
寝室を後にするディードの足取りに、余裕など微塵もない。




