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白銀の影の影③

「今日は完璧に出し抜かれちまったな」

 その日の夜、ディードは自宅の湯船に浸かりながら愚痴のように呟いた。湯船の縁に胸を乗せ、両腕を外に出して、茫洋とした視線を前方に彷徨わせている。

「仕事をお風呂にまで持ちこまないでよ」

 ディードの目の前では二つの球体が揺れていた。球体に続くのは鎖骨のくびれ、細い首、そして雀斑をあしらった女の顔。

 ディードの目の前で、スティが髪の毛を洗っていた。入浴中なので当然全裸だった。

「今は事件のことよりも、髪の毛洗うの手伝って」

「へいへい」

 ディードは洗髪剤を手にとって、スティの長い髪を先端から洗い始める。二人とも髪が長いので、髪の洗い合いは同棲を始めてからの共同作業になっていた。

「しかし、今回は本当に考えることの多い事件だよ」

 ディードは拳を目の前に掲げた。現実にはありえないが、腕っぷし一つで事件が決着するならどんなに楽なことだろうか。

「ディードって見境なしに見えて、意外と悩み屋さんよね。ハゲるわよ?」

 スティは恋人の愚痴を聞きつつ、洗い終わった髪の毛を頭の上にまとめ、石鹸を泡立てて体を洗っていく。

 目の前の絶景が泡に隠されて、ディードは舌打ちを放ちたい気分だった。

「そういえば、昼間は緊急事態だから訊きそびれたけど、《白百合》社で動いてるのはお前だけなのか?」

「そうよ」

「『そうよ』って、即答かよ……」

 実にあっけらかんとしたスティの態度に、ディードは肩を落として脱力した。

「《白百合》社は《厄介者の群》と違って警備契約があるし、姐さんは妨害対策で動かせないから、私一人で頑張るしかないの」

「……正論だな」

 ディードは苦々しげに頷いた。《白銀の影》が真製兵錬武を所持している以上、免許持ち級でなければ足手まといになる。《白百合》社の対応は正しい。

 しかしその正しさと引き換えに、スティの危険性が跳ね上がっているのも事実だ。

 スティはシャワーで泡を流し、惜しみもなく裸身を晒してディードに近寄っていく。

「お邪魔します、っと」「あいよ」

 ディードとスティは二人で並んで湯船に浸かった。

「もしかして、心配してくれてる?」

「恋人の心配をしない奴がいるわけないだろ」

 スティはからかうようなにやけ顔で訊いたが、ディードは真面目な顔付きで答えを返す。途端にスティの顔が赤くなった。

(ディードってときどき、大真面目な顔で恥ずかしいこと言うのよねぇ)

「うへへ」と気色の悪い笑みを浮かべるスティから、ディードはちょっとばかり身を引いた。

 それからしばらくして、二人は湯から上がった。ディードは下着一枚で足早に脱衣所を去り、冷蔵庫から果実酒と炭酸水を持ち出して、居間のソファに腰かける。

「私にもお酒ちょーだい」

 映画の地上波を見て寛いでいると、寝巻き姿のスティが現れた。ディードは新しく硝子杯を取ってきて、二人でソファに並んで座り、ビスケットに鱒や鯰の切り身、鮭の卵が乗った夜食を摘みながら酒杯を重ねていく。

「スティって、酒に弱くなかったっけ?」

「なぁによぉ~。わたひがのんでちゃ、いけないってぇのぉ~?」

 完璧に呂律が回っていなかった。何を無理しているのかと考えてみるが、思い当たる節は一つしかない。

「もしかして、俺がロナさんの心配をしたから拗ねてる?」

 スティは鋭い視線でディードを睨みつけた。それから俯き、こくりと小さく頷く。

 ディードは指を伸ばして、スティの頬っぺたや唇をつついてみる。スティは熱っぽい瞳でディードを見上げ、全てを預けるようにしな垂れかかってきた。

(やべぇ。今すぐ食べてしまいたい)

 ディードは涙ぐんでいた。女運の悪すぎる自分が、こんな幸せな気持ちを味わえるとは夢にも思っていなかった。

 肩にかかる重み。瞼をとろけさせていたスティが、いつの間にかディードに頭を預けて寝入っていた。無防備な恋人の寝顔に、ディードは幸福感と愛おしさで笑みを浮かべる。

 携帯が鳴り出し、ディードはスティを目覚めさせぬようにと素早く手を伸ばした。

「こんな夜更けに何のようだ? 今からスティとイチャつこうと思っていたのに!」

『同棲を始めたくせに童貞のてめえが何を言う?』

 聞こえてきた声は例の親友のものだった。的確に弱点を指摘され、ディードは面白くもなさそうな仏頂面を浮かべる。

『いい報せと悪い報せがあるけど、どっちから聞きたい?』

 親友の言葉にディードは少し悩んで、「じゃあいい報せから」と答える。

『先ほど、ロナ・カークケイトの拘留解除が決まった』

 親友の口調は、いい報せにしては歯切れが悪い。それだけでディードは何かを察する。

「じゃあ、悪い報せってのは?」

『聖銀による新たな犠牲者が出た』

「……そうきたか……」

 拘留中に聖銀が活動したことで、ロナの無実が確定したというわけだ。

 ディードは天井を仰いだ。遠くを見つめるその顔に去来しているのは、昼間の議論だ。

「……聖銀は狙ってやったのかな?」

『どっちの意味で?』

『ロナに目が向いている隙に事件を起こした』のか、『ロナの無実を証明するために事件を起こした』のかと訊いてくる親友に、ディードは「両方だよ」と答える。

『さすがにあれだけ狡猾な連中が、好機を無視するとは思えない。だけど、』

「人道を否定する根拠もない、か。だとしたら、別の意味でもやりにくいな」

『やりにくいってだけで、殺らないわけじゃないんだろ?』

 確認するような、いや、退路を断つかのような言い草だった。ディードには最初から選択肢など存在しないのだと、改めて突きつけているようだった。

「ああ、分かっている……」

 ディードは己に言い聞かせるように、噛み締めるように頷いた。同類の命を背負うことを決断した、決意と苦痛の表情だった。

「それと、少し調べてもらいたいことがある」

『何だよ改まって。僕とお前の仲じゃないか』

「《血の王庭》事件に関与していた連中を割り出すことは可能か?」

『造作もない』

 即答だった。ディードは呆気に取られて苦笑を浮かべる。

「軍でも難しい追及だぞ? 簡単に言ってくれるな」

『公的機関の軍は政治的に動きづらいが、僕のような個人であれば圧力は関係ないからな』

 親友の口調は、まるで隣の家の献立を調べに行くような気楽さだ。

『それで? 《血の王庭》を掘り返してどうするつもりだ?』

「決まっているだろう?」

 神妙な声音で尋ねてくる親友に、ディードは好戦的な口調で答えてやる。

 ディードはきつく瞼を閉じた。《血の王庭》事件を想像し、瞼の裏に映し出す。

 それでも明確には想像できない。事件の被害者をスティや姉、親友や同僚に、舞台をソニス市に、《十一人戦争》に置き換えて、ようやくその苦痛の一端が垣間見られた。

 男も女も、ぬいぐるみを抱えた幼子も、杖をついた老人も、家族同然に暮らしていた動物も、誰も彼もが見境なく虐殺される光景。親しんだ我が家は崩れ落ち、見慣れた街頭は燃え上がって、全ての居場所が失われる喪失感。

 そして残された者は、一人絶望の中で生きていく。

 最悪なのは、それらの非道を行った連中がのうのうと暮らしている事実だ。

 開かれたディードの両目では、殺意の鬼火が燃え盛っていた。

「兵錬武で悲劇を生む奴は、俺が全員殺してやる」

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