白銀の影の影①
取調室には重苦しい空気が満ちていた。扉と窓は密閉され、夏の気温と湿度で蒸し暑いくらいだというのに、極度の緊張感で唇が乾燥を訴えてくる。
卓を挟んで向かい合うカスツァーとロナに至っては、親の葬式に出ているような陰気さだ。
「あの、ロナさん?」
「はっ、はひっ?」
意を決してカスツァーは口を開いた。極力ロナを刺激しないよう、努めて穏やかな口調で、遠慮がちに声をかける。それでもロナの肩が跳ね上がり、目尻から透明な滴が溢れて零れた。
「す、すみません。緊張で、涙が……」
「あーあ、苛められっ子が女の子を泣かしたぞ」「苛められっ子が苛めっ子化するのは、一番卑劣な鞍替えの一つだ」「サイッテー」「上司として恥ずかしい」
その取調室の様子を監視映像ごしの隣室から、ディードとシェラ、スティ、そしてクラーブの四人が見つめていた。
長方形に区切られた映像の中で、カスツァーが『うう、なぜだか胸が痛い。それも尋常じゃなく。まるで四人くらいから責められているような痛さだ』と苦痛を訴えていた。
「それで、ロナが重要参考人とはどういう了見だ?」
「順を追って話そう。まず、先ほど科捜研が《白銀の影》の襲撃を受けた」
クラーブが取り出した写真に写されているのは、おそらく科捜研の兵錬武科研究室だったのだろう。『だった』というのは、室内が見る影もなく破壊されていたからだ。
素人には用途の知れない機器から、壁一面の本棚に敷き詰められた数々の専門書、職員らの私物で埋まった机、何より厳重に隔離されていた最奥の証拠品保管室までもが徹底的に破壊しつくされていた。
「全ての職員が昼食に出払っていて、人的被害のなかったことがせめてもの救いだ」
さらに室内には破壊以外の痕跡も残されていた。室内のいたる場所に散乱しているのは、真昼の陽光を反射して眩い輝きを放つ銀色の液体、銀血だ。
「十中八九聖銀の仕業、とまで分かっていてロナを喚問するということは、余程の証拠があるのだろうな?」
親友の嫌疑に対して、シェラはいつになく攻撃的だ。氷の凶器じみた鋭い視線を向ける。
いまだかつてない妻の憤激に、クラーブは神妙な面持ちで録画機を操作した。
画面に科捜研の監視映像が映される。受付と挨拶を交わし、廊下を進んでいくのは、ロナ・カークケイト以外の何者でもない。
クラーブは映像を早送り。数十分が省略され、数人の職員が出入りを繰り返し、ロナが再び姿を現して科捜研を後にする。
さらに数分間が進められ、ロナが科捜研に戻ってきた。受付と二言三言言葉を交わし、首を傾げる受付を余所に廊下の奥に歩を進めて、悲鳴。警備員が駆けていく。
そこでクラーブは映像を止めた。
「研究室の入出記録を調べたところ、カークケイト嬢退出後の入室記録はない。つまり時間軸上、犯人はカークケイト嬢以外にありえない」
ディードの視線は監視映像の隅、時刻表示に注がれていた。
「犯行が発覚したのは、俺たちが別仕事の会談を始めたあたりか」
正確には飛行船が発着場から飛び立った数分後だ。《ゾルキス》社の名と依頼の内容を口にするわけにもいかず、ディードは小難しい顔で口を閉ざす。
「密かに誰かが侵入した、という痕跡はないのか?」
「侵入の痕跡が残っていると思うのか? この状態で?」
「研究室をここまで徹底的に破壊したということは、侵入の痕跡を消そうとした、と考えるのが妥当ではないか?」
「侵入の痕跡を消そうとした、と思わせるように偽装した、とも考えられる」
クラーブの切り返しは的確だ。引き下がるしかなかったシェラは、逆切れとばかりに眉を吊り上げ、敵意を剥き出しにしてクラーブを睨みつける。
普段からは想像もつかない激昂を見せるシェラに、見兼ねてディードが助け舟を出す。
「侵入の証拠が出ない以上、ロナさんが暫定で最有力容疑者であるのは認める。だが、過去の聖銀事件でのロナさんの不在証明は調べたのか?」
「犯行を行ったのが、監視映像に映ったカークケイト嬢である事実は揺らがない。なぜならこの時間、カークケイト嬢は我々と協議中だったからだ」
三人はクラーブの言葉に齟齬を覚えて沈黙する。やがて徐々に理解が広がっていった。
「ロナの偽者、ということか」
「だろうな。他ならぬ我々自身が証言者のため、解放は時間の問題だろう」
シェラは安堵して胸を撫で下ろした。クラーブはその様をご満悦で見つめている。
ディードはクラーブの腹黒さに呆れ顔だ。クラーブはロナの無関係を確定させた上で、シェラを可愛がるためだけに遠回しな説明をしていたのだ。
ディードが注目したのは、クラーブの腹黒さだけではない。
「つまり《白銀の影》には変装技術者がいる、ってことか?」
それは恐ろしい仮説だった。これでは《白銀の影》は不意打ちのやりたい放題ではないか。
「一つ、初歩的な質問をしていい?」
それまでちんぷんかんぷんで沈黙していたスティが、唐突に口を挟んできた。
「カークケイトさんが双子だった、っていう定番の展開はないでしょうね?」
「……ベルゲルシア、お前はどこまで脳が小さいんだ……」
ディードは恋人を擬装用の名で呼び、大いに肩を落として呆れを表現した。呆れ自体は偽装した反応ではなく、本物の感想だが。
「残念ながら、カークケイト嬢に姉妹がいないのは調査済みだ。また彼女の家は《血の王庭》事件とは関係のない一般家庭であったことも確認されている」
「このソニス市で、出生が特定できたのか?」
「彼女は遠いエギランセ領の出身で、《大戦》が起こる直前にソニス市に越してきたらしい。《大戦》で戸籍の変更手続きが行われず、エギランセの戸籍が処分されていなかったのだ」
ロナを疑うことは、最初から徒労に終わるよう計算されていたわけだ。
「しかしどうして、《白銀の影》は危険を冒してまで科捜研を襲ったんだ?」
「証拠品が邪魔だったんじゃないの?」
ディードの疑問にスティが軽い調子で答えを返す。スティの貧困な発想にディードは手刀を振り上げ、下ろそうとしてやめた。これ以上脳細胞を減らされても困るだけだ。
「あのなぁ、現段階でも証拠品は予告状だけで、捜査に進展がないんだぞ? 役に立たない証拠品を消しても……」
ディードの表情が豹変した。自分の発言によって記憶が呼び寄せられ、役に立ちそうな物品が一つだけ存在していた事実を思い出したのだ。
「名簿……そうだ! 名簿は無事なのか?」
「残念ながら、鑑定に回していた現物及び保存用の複写品まで持ち去られていた」
クラーブの表情は無念そのものだ。
事件解決への最大の光明が閉ざされたことで、室内に陰鬱な空気が満ちていく。
嫌な展開だ。証拠品の強奪以上に、《白銀の影》は誰が捜査に関わっていて、どう揺さぶれば効果的なのか、どう捜査させれば無駄骨になるかを心得ていた。
「ん? 待てよ……」
ディードは疑問を覚えて眼鏡を押し上げた。
「名簿を手に入れたのは昨日の夕方だぞ? いくらなんでも相手の対応が早すぎないか?」
「科捜研の襲撃は予定されていて、名簿の入手によって急遽実行された、とも考えられる」
クラーブの推論でもディードの懸念は消せない。最悪の可能性に気付いてしまったからだ。
「まさかとは思うが、この展開は」
「その先は言うな!」
クラーブは鋭い口調でディードの疑問を遮った。厳しい表情で口答えを拒否する。
もしもディードの懸念通りだとしたら、それを口に出してはならない。誰にも気付いた素振りを見せてはならない。
本当に、内通者がいるのだとしたら。




