10.抑えられない想い(三)
本日、3本目の投稿です。本エピソードが最終話となります。
私は床に立ち、体勢を整えて、そっとベッドの上に両膝をついた。俯いていた彼の顔が上がり、私が彼を見下ろす体勢になった。
「佐倉さんっ?」
彼が驚いた表情で私の名前を呼ぶ。私は返事もせず、彼の右手に触れないよう注意しながら彼との距離を詰めていく。そして、両手を伸ばして彼の肩を抱きしめた。
「さ、佐倉さんっ?」
「橘さんが抱きしめられないなら、私が橘さんを抱きしめますから……」
「――――」
彼の無言を、私が彼を抱きしめることへの肯定と受け取った。彼の頭を、自分の胸に引き寄せ、やさしく抱きしめる。心臓は、妙に穏やかでゆっくりと、リズムよく打ち鳴らしていた。
「――佐倉さん……」
「……!」
彼が呼ぶ声で、ハッとした。無意識に彼を抱きしめていることに気づき、伸ばした両手が固まった。
――ど、どうしようっ……私ったら、何て大胆なことをっ! 恋人でも家族でもないのに、こんなこと……! すぐに離れなきゃっ!
「――佐倉さん、ちょっと離してくれる?」
「…………」
「君の顔をしっかり見たいんだ」
「……!」
伸ばした両手を彼の体から解き、ゆっくりベッドについた。両膝に重心を預けて上半身を傾け、片足をベッドから下ろそうとした時だった。左足を下ろしかけた時に正面を見たら、目の前に彼の顔があった。すると、突然、左肩に彼の右手が圧し掛かり、私の顔は彼の顔へとさらに近づいていく。
「ちょ……橘さんっ……」
顔と顔が触れない限界まで近づくと、彼の右手が乗った左肩がさらに重みを増した。耐え切れず額が彼の額に触れた。彼が顔の角度を変えると唇が重なり合った。
――んっ? 温かい……こ、これって……き、キスっ!!
唇を離そうともがいたが、彼は離してくれなかった。その後も、角度を変え、重ねられた唇は徐々に濃厚なものへと変わっていく。繰り返されるキスに心地良さを感じ、私は目をそっと閉じる。彼の唇に抗おうとする思考は薄れていった。
――キスって、こんなに心地いいものだったんだ……。
繰り返されるキスの波に溺れていると、突然、彼の唇が離れてしまった。唇には、さっきまで触れていた彼の唇の熱と感触が残っている。次第にその熱は薄れていき、無性に淋しさを覚えた。
呆然としていると、彼が静かに口を開いた。
「佐倉さん……」
私の名前を呼ぶ彼の声は、いつもより熱っぽく、切なさを帯びていた。ぼんやりしていた頭は霧が晴れたようにはっきりしていき、徐々に自分が置かれている状況を理解するようになった。夢見心地から現実に引き戻され、顔の温度が一気に上昇したのが分かった。
――ど、どうしよっ、私、今、橘さんと……キスを……? どんな顔をすればいいの? 恥ずかしすぎるっ……! でもっ、橘さんはどうして、私に?
「ど、どうして、私に……き、キスを……?」
「咲が好きだからだよ。それ以外にある?」
「……えっ、今、何て?」
彼の言った言葉の意味を理解できず、俯いていた顔を上げると、彼と視線が重なった。彼は目を細め、やさしく微笑んでいる。熱を帯びるその瞳は確かに私を捉えていた。
「咲のことが好きだから、俺はキスしたんだよ」
「えっ……嘘っ!」
「嘘じゃないよ。どうして嘘だと思うんだよ……」
彼にしては珍しく、不貞腐れたような口調になっていた。
「――だって、私と橘さんじゃ……格差がありすぎます……」
「格差? あぁ、俺がCEOだってこと? 別に、俺くらいの人間なら世の中にいくらでもいるだろ? CEOだからって特別な人間って訳じゃないよ」
「でもっ――」
「咲は? 咲は俺のことどう思ってる?」
「どうって……」
「俺のこと嫌い? もう会いたくない?」
「そ、そんな訳ないじゃないですかっ!」
「――」
「私だって……私だって、橘さんのことが好き――んっ」
私の唇は、また彼の唇に塞がれた。今度は短いキスで開放してもらえた。
「はぁー、良かった……咲に嫌われてたらどうしようかと思ったよ……」
「…………」
――嘘っ……これは夢じゃない? 本当に、現実なの? 橘さんは私のことを好きで……私も、彼に好きだと言って……!
「咲……俺、本気で咲のことが好きだよ……好きだ……」
彼は熱い眼差しを私に向けていた。好きだと何度も言われ、うれしさを通り越して、恥ずかしくなってしまった。
「わ、分かりましたっ! そんな何度も言わないでください……恥ずかしすぎる……」
「ははっ……照れてる。咲は、本当に可愛いね」
「もうっ、またそんなことを言って! 揶揄わないでくださいっ」
「揶揄ってる訳じゃないよ。本気でそう思ってるから……」
――うっ、両想いになれたのはうれしいけど、この甘い空気をどうにか変えたいっ! このままじゃ、私、耐えられそうにない……どうしたら? あっ、そうだ! ケガのことっ。
「それよりっ、ケガは? ケガは大丈夫なんですかっ?」
「ケガ? あー、入院が長引いた……まぁ、仕方がないよね、こればっかりは自業自得だ」
――私のせいだ。私のせいで、橘さんはケガが悪化して……。
「咲、まさか、また俺のケガが悪化したのが自分のせいだって思ってないよね?」
「えっ、でも……それはっ――」
彼はそれ以上何も言わず、1点を見つめて何かを考えているようだった。私はベッドサイドの椅子に静かに座って、彼が話すのを待つことにした。すぐに、彼は蕩けそうな微笑みを浮かべて、その形のいい唇を動かした。
「――それなら……君が僕の手足になってくれないか?」
「はっ? 今、何て?」
彼の微笑みについつい見惚れてしまって、彼の言葉を聞き違えたのだろう。咄嗟に、聞き返してしまった。
「咲が、俺の手足の代わりになってよ。この通り、俺は手足が不自由だから、看病してくれる人が必要だろ? それに、咲はこの病室に寝泊まりすればいい。ここに泊まるのが不便なら、俺の家でもいいし」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
「俺と一緒にいるのは嫌?」
彼が寂しそうな表情で私の顔を覗いてきた。
――狡いっ、そんな顔されたら、断れないじゃないっ。ここに寝泊まりすればいい、だなんて……それって、まるで……! 2人っきりで……私ったら、何を想像してるのよっ。橘さんはケガ人なんだからっ!
「別に、嫌じゃないです……」
「良かった。咲はあそこのソファベッドを使って。布団は確か……」
彼は寂しそうな表情から一転して、にっこり笑顔になった。
――策士だっ! 橘さんは絶対に、自分の色気とか、魅力とかを分かって利用してる……! 狡いっ……。そういえば、橘さんに家族はいないのかな?
「橘さん?」
「ん? 何?」
「つかぬことをお聞きしますが、橘さんのご家族は?」
「あー、心配させるから話してないんだ。親は70代で高齢だからね……。ちなみに、兄は家庭を持っていて、今は海外赴任中だから国内にいないよ」
「そう、なんですね……」
――こんなに大ケガをしたのに、家族が誰1人お見舞いに来れないなんて……。よしっ、それなら、私が橘さんのお世話をしよう! そうと決まったら、今夜はホテルに帰って、明日荷物を持ってここへ来よう。
スマホの画面に表示されている時間は午後8時を回っていた。面会時間は過ぎていた。
「いけないっ、もう面会時間が過ぎてますっ。私、ひとまずホテルに戻りますね。明日チェックアウトしたら、ここに戻ってきますから――」
「今日、泊まって行けばいいのに……」
「と、とまっ……そんな急に……泊まるなんて……その、心の準備が……」
「ははは……痛っ」
「橘さん! 大丈夫ですか?」
ひどく痛んだ様子で、思わず彼の顔を覗くために顔を近づけた。彼の右手が私の肩に回され、懲りもなく彼に唇を奪われることとなった。彼の唇が離れると、彼は耳元で囁いた。
「咲……好きだよ。明日、待ってるから」
「なっ……!」
彼は「可愛い」と呟き、私の顔を見て笑い出した。きっと私の顔は真っ赤になっているのだろう。
6つ年上の彼はかっこよくて頼りがいがあって、素敵な大人の男性だ。でも、時には屈託のない笑顔で少年のような一面を見せてくれる。それでも、私はこの先もずっと彼から囁かれる甘い言葉に翻弄されるのだろう。いつかは主導権をこの手に奪いたいと思うが、それはいつのことになることやら……。
今はただ、彼の支えになりたい。私にできることは少ないかもしれないけど、やれることをやろうと思えるようになった。それも彼が毎日欠かさず、私に愛情表現をしてくれているお陰だと思う。ただ、人前で恥ずかしげもなく甘い雰囲気を出してくるのだけはどうにかしてほしい。
彼と想いが通じ合ったあの日から1年が経った――。
「咲、遅れるぞ」
「あ~、結人、待って……」
「新郎新婦が遅刻だなんて、シャレにならないぞ」
「だって……それは結人が……」
「今朝のこと? 咲だって、俺を求めてただろ?」
「そ、そんな訳――んっ」
「ほらっ、反応してる」
「もうっ! こんな時に何してるのっ!」
「だって仕方ないだろ……今日から咲は俺だけのものになるんだから」
「……!」
「あははは……本当に、咲は分かりやすいな」
「またっ! 結人っ!」
「俺の可愛い奥さん、いつまでもそのままでいてくれよ」
「……!」
第3集 完
『恋愛小説のオムニバス』を最後までお読みくださり、ありがとうございました。
元々、4つのストーリーをお届けする予定でしたが、本作、第3集『桜と橘』で完結することといたしました。
なぜ作品名が『桜と橘』なのかと疑問に思った方もいるかもしれません。
そこで、少しだけ制作裏側のお話をさせていただきます。
実は、本作の登場人物の名前を考えている時、リサーチ中にあるエピソードを知りました。
それは、京都御所の紫宸殿――明治まで天皇陛下のお住まいだった場所――に植えられている2つの木の話です。
紫宸殿の前庭には、平安時代から桜の木と橘の木が左右に植えられています。
紫宸殿は宮廷の儀式で使用される場所で、儀式の際に警護にあたったのが左右近衛府の武官だったことから、「左近の桜」「右近の橘」と呼ばれるようになったそうです。
その名残りか、桃の節句(雛祭り)の雛人形には桜と橘の木が飾られるようになりました。
本作のヒロインとその相手役に「佐倉」と「橘」と名付けました。
長らく隣り合う桜と橘の木のように、この2人の幸せが長く続くように、と祈りを込めて。




