第3話 隣の同級生は、優しい顔で生活圏に入ってくる
翌朝、俺は普段より三十分早く起きた。
正確に言えば、起きたというより起こされたに近い。
目覚ましが鳴るより少し前に、部屋のドアがこんこん、と二回叩かれたのだ。
「恒一。生存確認を行う。返答せよ」
眠気の残る頭で、俺は布団の中から天井を見た。
「……お前、まだ来てないだろ」
「精神体で先行侵入した」
「朝から意味分かんねえこと言うな」
「では現実的に言い直そう。母上が起こせと言った」
「そっちを最初に言え」
襖――じゃなくて引き戸の向こうで、朱音が小さくふんと鼻を鳴らしたのが分かった。
「外で待つ。五分以内に現れろ」
「命令すんな」
「時間感覚の緩んだ個体は信用できん」
「個体って言うな」
そう言い返したものの、俺はもう眠気をごまかしきれなかった。
今日は朝から荷物搬入だ。真琴さんの言う通り、業者が九時には来る。寝坊してる場合ではない。
布団から出る。二月の朝は冷える。
ハイツ水戸黄門は水回りこそ綺麗だが、断熱性能まで立派なわけではない。フローリングに降りた足の裏から、ひやりとした感触が上がってくる。
寝癖を手で押さえながらDKへ出ると、部屋の中にはすでに人の気配があった。
テーブルの上にはコンビニのおにぎりとペットボトルのお茶。
そして、まだ正式には住人ではないはずの朱音が、当然のように流し台の前に立っていた。
「おはよう」
と、俺が言うと、
「遅い」
と返ってきた。
「いやまだ全然朝だろ」
「準備の初動が遅いと言っている」
「軍事作戦みたいに言うなよ」
「居住環境の再編は戦いに近い」
「そうかもしれないけど」
朱音は黒っぽいパーカーの上にコートを羽織っていて、昨日のいかにも“儀式の正装”みたいな服ではなかった。そういうところはわりと現実的だ。髪もいつもの少し跳ねた感じのまま結ばず下ろしていて、見慣れた従妹の顔に近い。
ただ、目つきだけは朝からきりっとしている。
「母上は?」
「真琴と追加の荷の確認に行った」
「真琴さん呼び捨て!?」
「親戚筋の序列調整だ」
「便利な言葉みたいに使うな」
言いながら洗面所へ向かう。
顔を洗って、鏡の前で髪を整える。
ここだけは本当に綺麗なんだよな、と毎回思う。真新しい洗面台、明るい照明、使い勝手のいい鏡。外観との落差がいまだにすごい。
そのまま歯を磨いていると、洗面所の扉の向こうから朱音の声がした。
「お前、昨日のうちにあの部屋を多少片づけたな」
「多少な」
「もっと片づけておけ」
「起きて五分の人間に要求するテンションじゃないぞ」
「住環境の質は精神の安定に直結する」
「朝からずっとそれ言ってるな」
「重要だからだ」
口をすすいで扉を開けると、朱音は腕を組んで立っていた。
その後ろのDKにはまだ二人分の生活の影は薄い。だが、昨日の夜にはなかった段ボールが一つ、すでに壁際へ置かれている。たぶん小物類だろう。
その段ボールを見ただけで、少しだけ現実感が増した。
「とりあえず飯食って、そのあともう少し片づけるか」
「うむ」
「返事が偉そうなんだよなあ」
「当然だ。我はこれからこの空間の最適化を担う」
「普通に手伝うって言え」
俺がコンビニのおにぎりを一つ取ると、朱音は「それは鮭だ」と言った。
「見れば分かる」
「我のだ」
「お前のだったのかよ」
「消去法で考えればそうだろう」
「消去法で鮭の所有権主張するやつ初めて見た」
仕方なく別のツナマヨを取る。
朱音は満足げに鮭を手にし、椅子へ座った。
昨日まで、ここで朝食を食べるのは俺一人だった。
今は向かいにこいつがいる。
それだけで、部屋の広さが少し変わった気がする。
「何だ」
朱音が警戒したように言った。
「いや」
「じろじろ見るな」
「見てねえよ」
「見ていた」
「……まあ、ちょっと」
「気持ち悪いな」
「お前ほんと容赦ねえな」
俺が呆れて笑うと、朱音は少しだけ視線を逸らした。
それから、小さく言う。
「……昨日までは、いなかったからな」
「ん?」
「お前の生活空間に、我が」
言葉を選んでいるような言い方だった。
「だから見慣れぬのも無理はない」
「そっちもそう思うんだ」
「思わないとでも?」
朱音は鮭おにぎりの包みをいじりながら、少しだけ口を尖らせた。
「我とて、知らぬ場所にいきなり居を移すのは初めてだ」
その一言だけで十分だった。
昨日からずっとこいつは平気な顔をしているが、やっぱり緊張していないわけではないのだ。
「まあ、すぐ慣れるだろ」
「当然だ」
「その切り替えの早さ好きだよ」
「ほめても何も出ぬ」
「別に出そうと思ってない」
そんなくだらないやり取りをしていると、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん、という、あまり大きくない音。
俺と朱音は同時に顔を上げた。
「……早くないか?」
「業者か?」
「まだ八時前だぞ」
おにぎりを置いて玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこに立っていたのは業者ではなかった。
「おはよう、恒一くん」
白沢依子だった。
学校で見る制服姿ではなく、薄いベージュのニットにロングスカート。髪はいつも通りきれいに整っていて、手には小さな紙袋がある。朝の光の中で見ると、やっぱり妙に整った顔をしていた。
「あ……おはよう」
「朝早くにごめんね」
「いや、別に」
「昨日、引っ越しって聞いたから。忙しいかなと思って」
そう言って、紙袋を少し持ち上げる。
「差し入れ」
「差し入れ?」
「簡単なお菓子と、使い捨ての雑巾。あとゴミ袋」
「……実用的だな」
「引っ越しのときって、甘いものより先にそういうの欲しくなることあるでしょ」
「あるけど、そこまで分かるのか」
依子は少しだけ首を傾げた。
「前に、うちも引っ越したことあるから」
「ああ、そっか」
「あと、昨日見てたら、たぶん足りなくなりそうだったから」
昨日見てたら。
その言葉が少しだけ引っかかったが、内容自体はありがたかった。
「助かる。ありがとう」
「ううん。隣だし」
その“隣だし”を、依子は本当に便利に使う。
そのとき、DKから朱音が顔を出した。
開いた扉越しに依子を見て、あからさまに表情が変わる。
「……早いな」
「おはよう」
依子は穏やかに言った。
「鬼塚さん」
「名を把握しているのか」
「昨日聞いたから」
「そうか」
昨日聞いたら今日もう覚えているのか、という顔を朱音はしていた。
いやまあ、普通は覚えるんだけど。
「今日は本格的に荷物入るんだよね?」
依子が俺を見る。
「うん。九時くらいから」
「じゃあ今のうちにこれだけ渡しとこうと思って」
「気が利くなあ……」
「そんなことないよ」
言いながら依子は、玄関の中を少しだけ見た。
別に露骨ではない。露骨ではないのだが、視線の動きが静かすぎて、逆に気になる。
「部屋、片づけ進んだ?」
「まだ途中」
「手前の部屋を使うんだよね」
「え?」
思わず聞き返すと、依子は一瞬だけ間を置いてから微笑んだ。
「間取り、こっちと同じだから。音の感じで、たぶん手前の方かなって」
「音の感じって」
「昨日、少し荷物動かしてたでしょ」
「……聞こえてたのか」
「壁、そこまで厚くないし」
何でもないことのように言われたが、朱音が横でじっと依子を見ているのが分かった。
まずい。
この空気はあまりよくない。
「まあ、そう。手前の部屋を朱音が使う予定」
「そっか。じゃあ動線はいいね」
「どういう意味だ」
朱音がすっと口を挟んだ。
依子は穏やかなまま、視線だけを彼女へ向ける。
「洗面所とかキッチン使うとき、奥の部屋から出てくるより手前の方が便利でしょ」
「……」
「最初の部屋分けって、案外大事だから」
正しい。
正しいのだが、正しすぎて少し怖い。
朱音もたぶん同じことを思ったのだろう。
微妙に言い返しづらそうな顔で、ひとまず黙った。
「あと」
依子は紙袋を差し出しながら、俺に言った。
「このアパート、燃えるゴミは火曜と金曜。資源ごみは月曜。段ボールはまとめて階段下の置き場で大丈夫」
「助かる」
「真琴さん、そういう説明ちょっと雑だから」
「それは分かる」
「あと、朝九時くらいなら、ちょうど共用廊下の人通り少ないから、荷物入れやすいよ」
「……なんか、住民力高いな」
「長いからね」
長いから、という一言で片づけられたが、やっぱりこの子は生活圏に対する解像度が高い。
そしてそれが、俺の生活にまで少しだけはみ出している気がする。
「ありがとう」
改めてそう言うと、依子は少しだけ目を細めた。
「ううん。恒一くん、そういうとこちゃんと言うよね」
「え」
「お礼」
そんなことで褒められるとは思わなかった。
むしろ普通じゃないのか。
「いや、普通じゃない?」
「普通だよ」
依子は柔らかく笑った。
「でも、普通にできる人って、意外と少ないから」
そう言われると少しむずがゆい。
一方、横で聞いていた朱音は、明らかに面白くなさそうだった。
「……恒一」
「何」
「朝食が中断されている」
「圧のかけ方が雑」
「空腹は思考を鈍らせる」
「それはそうだけど」
依子がそのやり取りを見て、小さく笑う。
「仲いいんだね」
「よく言われる」
「言われたくはない」
朱音が即座に言う。
「これは一時的な共同戦線にすぎぬ」
「一緒に住むのにその言い方するやつ初めて見た」
「概念の問題だ」
「概念で生活すんな」
依子はまた少し笑って、それから一歩だけ下がった。
「じゃあ、私はもう戻るね。準備あるだろうし」
「あ、うん。ほんとありがと」
「何か困ったら言って」
「分かった」
依子はそれで終わりにせず、ほんの少しだけ間を置いて言った。
「たとえば、片づけの順番とか、収納の使い方とか」
「そこまで?」
「引っ越しって、最初の配置でわりと生活しやすさ変わるから」
「……詳しいなあ」
「だから、前に経験あるし」
「そっか」
納得しかけたところで、依子は最後に朱音の方を見た。
「鬼塚さんも、困ったら遠慮なく聞いてね」
「必要ない」
「そう?」
「我は環境適応能力が高い」
「うん。でも、知らない場所で最初から全部一人でできる人って、そんなにいないから」
柔らかい口調。
否定しない。
見下しもしない。
なのに妙に逃げ道のない言い方だった。
朱音の眉がぴくりと動く。
「……我はその“そんなにいない”の外側に位置する存在だ」
「そうかもしれないね」
依子はにこりと笑った。
「でも、隣にいるから」
またその言葉だ。
依子は軽く会釈して、102号室へ戻っていった。
扉が静かに閉まる。
廊下に短い沈黙が落ちた。
「……」
「……」
俺が何か言う前に、朱音が小さく言った。
「危険だ」
「え?」
「隣室個体」
「個体って言うなって」
「いや、あれは危険だ」
ものすごく真面目な顔である。
「いや、いい人じゃん」
「表層だけ見ればな」
「朝から差し入れ持ってきてくれる親切な隣人だぞ」
「それが危険なのだ」
「どういう理屈」
「生活圏への侵食速度が速い」
……ああ。
言われてみると、少しだけ分からなくもない。
昨日会ったばかりなのに、もう引っ越し手伝いみたいな距離で入ってきている。
それが自然すぎて、こちらが警戒しにくいのだ。
けれど、それをそのまま認めるのも何だか負けた気がした。
「気にしすぎだろ」
「お前は気にしなさすぎだ」
「お前、昨日から依子に対してずっと厳しいな」
「厳しくもなる」
「なんで」
「……」
朱音は言葉を探すように少しだけ黙り、最後には顔を逸らした。
「何となくだ」
「勘かよ」
「我の勘を侮るな」
「まあ、昔から変なところで当たるけど」
「なら重く受け止めろ」
「重いって」
そう言って玄関を閉める。
紙袋をDKのテーブルに置くと、中には本当に使い捨て雑巾とゴミ袋、個包装の焼き菓子がきれいに入っていた。
「……完璧か」
「完璧だな」
と、朱音まで言った。
そこは認めるんだ。
「よし、とりあえず飯再開」
「うむ」
「その返事、ほんと偉そう」
「指揮官として当然だ」
「どこの」
「この空間の」
「二日目で支配者ヅラするな」
俺たちはテーブルに戻る。
コンビニおにぎりの続き。
でも、さっきまでより部屋の空気が少し変わっていた。外から依子が一度入ってきただけで、生活圏の輪郭が妙にはっきりしたのだ。
「……恒一」
「何」
「紙袋の中の焼き菓子、二つある」
「あるな」
「ひとつは我のだ」
「何でも先に確保すんのやめろ」
「引っ越し作業には糖分が必要だ」
「まあそうだけど」
結局、俺は焼き菓子の片方を朱音に渡した。
朱音は当然の権利みたいな顔で受け取り、でもすぐには食べず、袋の端を指先でいじっていた。
「……何」
「別に」
「食わないのか」
「あとで食う」
「ふうん」
言葉の奥に、何か考えている気配がある。
たぶん、依子のことだろう。
俺も少しだけ考えていた。
白沢依子。
同じクラスの、静かで、きれいで、目立たないようでいて印象に残る同級生。
その彼女が、壁一枚向こうに住んでいて、引っ越しの朝に当然みたいな顔で差し入れを持ってくる。
親切だ。ありがたい。助かる。
でも、それだけで片づけていいのかは、少しだけ分からない。
――と、そこで玄関の外がにわかに騒がしくなった。
「お、開いてるー?」
という聞き覚えのある声と、
「ちょ、まだ早いって!」
という慌てた声。
次の瞬間、ノックもそこそこにドアが開いた。
「よう、引っ越し朝会に来たぞ!」
103号室の大友が、やたら元気に現れた。
その後ろから、104号室のひなたが申し訳なさそうに顔を出す。
「お、おはようございます……」
「何で来たんだよ」
「だって絶対面白いだろ、今日」
「最低の理由だな」
「手伝いもするって」
「ついでみたいに言うな」
大友は室内を見回し、すぐに頷いた。
「おお、まだそこまで侵食されてない」
「侵食って言うな」
「いやでも今日から本格的に二人暮らしだろ?」
「仮だ」
朱音が即座に言う。
「これは仮の共同駐留だ」
「何ひとつ分からん」
大友が素で返した。
ひなたは朱音の方を見て、にこりと笑った。
「鬼塚さん、今日はよろしくお願いします」
「……うむ」
「わ、今日は昨日より警戒されてない」
「ひなたに対する警戒は、性別認識の混乱を含んでいただけだろ」
俺が言うと、
「いやそれもどうなんですか先輩」
とひなたに笑われた。
人が増える。
声が増える。
101号室の空気が、昨日までの“俺だけの部屋”からどんどん離れていく。
そしてそれを、俺は少し騒がしいと思いながらも、完全に嫌だとは思えなかった。
「よし」
大友が勝手に気合いを入れる。
「本日の目標、鬼塚さんの部屋を文明化する!」
「文明化とは何だ」
「中二病ワールドから現代生活へ戻すってこと」
「貴様」
「ほらもう面白い」
そのやり取りを聞きながら、俺は思う。
たぶん、こうやって人が増えていくのだ。
少しずつ、当然みたいな顔をして。
気づけば生活の中へ入り込んでいて、前の静けさを思い出しにくくしていく。
隣の同級生も、今ここにいる従妹も、きっとそうだ。
そのとき、外の廊下から車の止まる音がした。
真琴さんたちと、業者が来たのだろう。
朱音がぴんと背筋を伸ばす。
俺は椅子から立ち上がる。
大友はすでにやる気満々の顔をしていて、ひなたは「僕、ガムテープ取りますね」と言いながら流し台の横を見ている。
いよいよ、本当に始まるらしい。
俺は玄関へ向かいながら、小さく息を吐いた。
隣の同級生は、優しい顔で生活圏に入ってくる。
そして俺の従妹は、最初から遠慮なく部屋の中に入ってくる。
どっちが面倒かと聞かれたら、たぶんまだ答えは出ない。




