表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/21

第3話 隣の同級生は、優しい顔で生活圏に入ってくる

 翌朝、俺は普段より三十分早く起きた。


 正確に言えば、起きたというより起こされたに近い。

 目覚ましが鳴るより少し前に、部屋のドアがこんこん、と二回叩かれたのだ。


「恒一。生存確認を行う。返答せよ」


 眠気の残る頭で、俺は布団の中から天井を見た。


「……お前、まだ来てないだろ」

「精神体で先行侵入した」

「朝から意味分かんねえこと言うな」

「では現実的に言い直そう。母上が起こせと言った」

「そっちを最初に言え」


 襖――じゃなくて引き戸の向こうで、朱音が小さくふんと鼻を鳴らしたのが分かった。


「外で待つ。五分以内に現れろ」

「命令すんな」

「時間感覚の緩んだ個体は信用できん」

「個体って言うな」


 そう言い返したものの、俺はもう眠気をごまかしきれなかった。

 今日は朝から荷物搬入だ。真琴さんの言う通り、業者が九時には来る。寝坊してる場合ではない。


 布団から出る。二月の朝は冷える。

 ハイツ水戸黄門は水回りこそ綺麗だが、断熱性能まで立派なわけではない。フローリングに降りた足の裏から、ひやりとした感触が上がってくる。


 寝癖を手で押さえながらDKへ出ると、部屋の中にはすでに人の気配があった。


 テーブルの上にはコンビニのおにぎりとペットボトルのお茶。

 そして、まだ正式には住人ではないはずの朱音が、当然のように流し台の前に立っていた。


「おはよう」

 と、俺が言うと、


「遅い」

 と返ってきた。


「いやまだ全然朝だろ」

「準備の初動が遅いと言っている」

「軍事作戦みたいに言うなよ」

「居住環境の再編は戦いに近い」

「そうかもしれないけど」


 朱音は黒っぽいパーカーの上にコートを羽織っていて、昨日のいかにも“儀式の正装”みたいな服ではなかった。そういうところはわりと現実的だ。髪もいつもの少し跳ねた感じのまま結ばず下ろしていて、見慣れた従妹の顔に近い。


 ただ、目つきだけは朝からきりっとしている。


「母上は?」

「真琴と追加の荷の確認に行った」

「真琴さん呼び捨て!?」

「親戚筋の序列調整だ」

「便利な言葉みたいに使うな」


 言いながら洗面所へ向かう。

 顔を洗って、鏡の前で髪を整える。

 ここだけは本当に綺麗なんだよな、と毎回思う。真新しい洗面台、明るい照明、使い勝手のいい鏡。外観との落差がいまだにすごい。


 そのまま歯を磨いていると、洗面所の扉の向こうから朱音の声がした。


「お前、昨日のうちにあの部屋を多少片づけたな」

「多少な」

「もっと片づけておけ」

「起きて五分の人間に要求するテンションじゃないぞ」

「住環境の質は精神の安定に直結する」

「朝からずっとそれ言ってるな」

「重要だからだ」


 口をすすいで扉を開けると、朱音は腕を組んで立っていた。

 その後ろのDKにはまだ二人分の生活の影は薄い。だが、昨日の夜にはなかった段ボールが一つ、すでに壁際へ置かれている。たぶん小物類だろう。


 その段ボールを見ただけで、少しだけ現実感が増した。


「とりあえず飯食って、そのあともう少し片づけるか」

「うむ」

「返事が偉そうなんだよなあ」

「当然だ。我はこれからこの空間の最適化を担う」

「普通に手伝うって言え」


 俺がコンビニのおにぎりを一つ取ると、朱音は「それは鮭だ」と言った。


「見れば分かる」

「我のだ」

「お前のだったのかよ」

「消去法で考えればそうだろう」

「消去法で鮭の所有権主張するやつ初めて見た」


 仕方なく別のツナマヨを取る。

 朱音は満足げに鮭を手にし、椅子へ座った。


 昨日まで、ここで朝食を食べるのは俺一人だった。

 今は向かいにこいつがいる。


 それだけで、部屋の広さが少し変わった気がする。


「何だ」

 朱音が警戒したように言った。

「いや」

「じろじろ見るな」

「見てねえよ」

「見ていた」

「……まあ、ちょっと」

「気持ち悪いな」

「お前ほんと容赦ねえな」


 俺が呆れて笑うと、朱音は少しだけ視線を逸らした。

 それから、小さく言う。


「……昨日までは、いなかったからな」

「ん?」

「お前の生活空間に、我が」


 言葉を選んでいるような言い方だった。


「だから見慣れぬのも無理はない」

「そっちもそう思うんだ」

「思わないとでも?」

 朱音は鮭おにぎりの包みをいじりながら、少しだけ口を尖らせた。

「我とて、知らぬ場所にいきなり居を移すのは初めてだ」


 その一言だけで十分だった。

 昨日からずっとこいつは平気な顔をしているが、やっぱり緊張していないわけではないのだ。


「まあ、すぐ慣れるだろ」

「当然だ」

「その切り替えの早さ好きだよ」

「ほめても何も出ぬ」

「別に出そうと思ってない」


 そんなくだらないやり取りをしていると、玄関のチャイムが鳴った。


 ぴんぽーん、という、あまり大きくない音。


 俺と朱音は同時に顔を上げた。


「……早くないか?」

「業者か?」

「まだ八時前だぞ」


 おにぎりを置いて玄関へ向かう。

 ドアを開けると、そこに立っていたのは業者ではなかった。


「おはよう、恒一くん」


 白沢依子だった。


 学校で見る制服姿ではなく、薄いベージュのニットにロングスカート。髪はいつも通りきれいに整っていて、手には小さな紙袋がある。朝の光の中で見ると、やっぱり妙に整った顔をしていた。


「あ……おはよう」

「朝早くにごめんね」

「いや、別に」

「昨日、引っ越しって聞いたから。忙しいかなと思って」


 そう言って、紙袋を少し持ち上げる。


「差し入れ」

「差し入れ?」

「簡単なお菓子と、使い捨ての雑巾。あとゴミ袋」

「……実用的だな」

「引っ越しのときって、甘いものより先にそういうの欲しくなることあるでしょ」

「あるけど、そこまで分かるのか」


 依子は少しだけ首を傾げた。


「前に、うちも引っ越したことあるから」

「ああ、そっか」

「あと、昨日見てたら、たぶん足りなくなりそうだったから」


 昨日見てたら。

 その言葉が少しだけ引っかかったが、内容自体はありがたかった。


「助かる。ありがとう」

「ううん。隣だし」


 その“隣だし”を、依子は本当に便利に使う。


 そのとき、DKから朱音が顔を出した。

 開いた扉越しに依子を見て、あからさまに表情が変わる。


「……早いな」

「おはよう」

 依子は穏やかに言った。

「鬼塚さん」

「名を把握しているのか」

「昨日聞いたから」

「そうか」


 昨日聞いたら今日もう覚えているのか、という顔を朱音はしていた。

 いやまあ、普通は覚えるんだけど。


「今日は本格的に荷物入るんだよね?」

 依子が俺を見る。

「うん。九時くらいから」

「じゃあ今のうちにこれだけ渡しとこうと思って」

「気が利くなあ……」

「そんなことないよ」


 言いながら依子は、玄関の中を少しだけ見た。

 別に露骨ではない。露骨ではないのだが、視線の動きが静かすぎて、逆に気になる。


「部屋、片づけ進んだ?」

「まだ途中」

「手前の部屋を使うんだよね」

「え?」


 思わず聞き返すと、依子は一瞬だけ間を置いてから微笑んだ。


「間取り、こっちと同じだから。音の感じで、たぶん手前の方かなって」

「音の感じって」

「昨日、少し荷物動かしてたでしょ」

「……聞こえてたのか」

「壁、そこまで厚くないし」


 何でもないことのように言われたが、朱音が横でじっと依子を見ているのが分かった。


 まずい。

 この空気はあまりよくない。


「まあ、そう。手前の部屋を朱音が使う予定」

「そっか。じゃあ動線はいいね」

「どういう意味だ」

 朱音がすっと口を挟んだ。


 依子は穏やかなまま、視線だけを彼女へ向ける。


「洗面所とかキッチン使うとき、奥の部屋から出てくるより手前の方が便利でしょ」

「……」

「最初の部屋分けって、案外大事だから」


 正しい。

 正しいのだが、正しすぎて少し怖い。


 朱音もたぶん同じことを思ったのだろう。

 微妙に言い返しづらそうな顔で、ひとまず黙った。


「あと」

 依子は紙袋を差し出しながら、俺に言った。

「このアパート、燃えるゴミは火曜と金曜。資源ごみは月曜。段ボールはまとめて階段下の置き場で大丈夫」

「助かる」

「真琴さん、そういう説明ちょっと雑だから」

「それは分かる」

「あと、朝九時くらいなら、ちょうど共用廊下の人通り少ないから、荷物入れやすいよ」

「……なんか、住民力高いな」

「長いからね」


 長いから、という一言で片づけられたが、やっぱりこの子は生活圏に対する解像度が高い。


 そしてそれが、俺の生活にまで少しだけはみ出している気がする。


「ありがとう」

 改めてそう言うと、依子は少しだけ目を細めた。


「ううん。恒一くん、そういうとこちゃんと言うよね」

「え」

「お礼」


 そんなことで褒められるとは思わなかった。

 むしろ普通じゃないのか。


「いや、普通じゃない?」

「普通だよ」

 依子は柔らかく笑った。

「でも、普通にできる人って、意外と少ないから」


 そう言われると少しむずがゆい。


 一方、横で聞いていた朱音は、明らかに面白くなさそうだった。


「……恒一」

「何」

「朝食が中断されている」

「圧のかけ方が雑」

「空腹は思考を鈍らせる」

「それはそうだけど」


 依子がそのやり取りを見て、小さく笑う。


「仲いいんだね」

「よく言われる」

「言われたくはない」

 朱音が即座に言う。

「これは一時的な共同戦線にすぎぬ」

「一緒に住むのにその言い方するやつ初めて見た」

「概念の問題だ」

「概念で生活すんな」


 依子はまた少し笑って、それから一歩だけ下がった。


「じゃあ、私はもう戻るね。準備あるだろうし」

「あ、うん。ほんとありがと」

「何か困ったら言って」

「分かった」


 依子はそれで終わりにせず、ほんの少しだけ間を置いて言った。


「たとえば、片づけの順番とか、収納の使い方とか」

「そこまで?」

「引っ越しって、最初の配置でわりと生活しやすさ変わるから」

「……詳しいなあ」

「だから、前に経験あるし」

「そっか」


 納得しかけたところで、依子は最後に朱音の方を見た。


「鬼塚さんも、困ったら遠慮なく聞いてね」

「必要ない」

「そう?」

「我は環境適応能力が高い」

「うん。でも、知らない場所で最初から全部一人でできる人って、そんなにいないから」


 柔らかい口調。

 否定しない。

 見下しもしない。

 なのに妙に逃げ道のない言い方だった。


 朱音の眉がぴくりと動く。


「……我はその“そんなにいない”の外側に位置する存在だ」

「そうかもしれないね」

 依子はにこりと笑った。

「でも、隣にいるから」


 またその言葉だ。


 依子は軽く会釈して、102号室へ戻っていった。

 扉が静かに閉まる。


 廊下に短い沈黙が落ちた。


「……」

「……」


 俺が何か言う前に、朱音が小さく言った。


「危険だ」

「え?」

「隣室個体」

「個体って言うなって」

「いや、あれは危険だ」


 ものすごく真面目な顔である。


「いや、いい人じゃん」

「表層だけ見ればな」

「朝から差し入れ持ってきてくれる親切な隣人だぞ」

「それが危険なのだ」

「どういう理屈」

「生活圏への侵食速度が速い」


 ……ああ。

 言われてみると、少しだけ分からなくもない。


 昨日会ったばかりなのに、もう引っ越し手伝いみたいな距離で入ってきている。

 それが自然すぎて、こちらが警戒しにくいのだ。


 けれど、それをそのまま認めるのも何だか負けた気がした。


「気にしすぎだろ」

「お前は気にしなさすぎだ」

「お前、昨日から依子に対してずっと厳しいな」

「厳しくもなる」

「なんで」

「……」


 朱音は言葉を探すように少しだけ黙り、最後には顔を逸らした。


「何となくだ」

「勘かよ」

「我の勘を侮るな」

「まあ、昔から変なところで当たるけど」

「なら重く受け止めろ」

「重いって」


 そう言って玄関を閉める。

 紙袋をDKのテーブルに置くと、中には本当に使い捨て雑巾とゴミ袋、個包装の焼き菓子がきれいに入っていた。


「……完璧か」

「完璧だな」

 と、朱音まで言った。


 そこは認めるんだ。


「よし、とりあえず飯再開」

「うむ」

「その返事、ほんと偉そう」

「指揮官として当然だ」

「どこの」

「この空間の」

「二日目で支配者ヅラするな」


 俺たちはテーブルに戻る。

 コンビニおにぎりの続き。

 でも、さっきまでより部屋の空気が少し変わっていた。外から依子が一度入ってきただけで、生活圏の輪郭が妙にはっきりしたのだ。


「……恒一」

「何」

「紙袋の中の焼き菓子、二つある」

「あるな」

「ひとつは我のだ」

「何でも先に確保すんのやめろ」

「引っ越し作業には糖分が必要だ」

「まあそうだけど」


 結局、俺は焼き菓子の片方を朱音に渡した。

 朱音は当然の権利みたいな顔で受け取り、でもすぐには食べず、袋の端を指先でいじっていた。


「……何」

「別に」

「食わないのか」

「あとで食う」

「ふうん」


 言葉の奥に、何か考えている気配がある。

 たぶん、依子のことだろう。


 俺も少しだけ考えていた。


 白沢依子。

 同じクラスの、静かで、きれいで、目立たないようでいて印象に残る同級生。

 その彼女が、壁一枚向こうに住んでいて、引っ越しの朝に当然みたいな顔で差し入れを持ってくる。


 親切だ。ありがたい。助かる。

 でも、それだけで片づけていいのかは、少しだけ分からない。


 ――と、そこで玄関の外がにわかに騒がしくなった。


「お、開いてるー?」

 という聞き覚えのある声と、

「ちょ、まだ早いって!」

 という慌てた声。


 次の瞬間、ノックもそこそこにドアが開いた。


「よう、引っ越し朝会に来たぞ!」

 103号室の大友が、やたら元気に現れた。


 その後ろから、104号室のひなたが申し訳なさそうに顔を出す。


「お、おはようございます……」

「何で来たんだよ」

「だって絶対面白いだろ、今日」

「最低の理由だな」

「手伝いもするって」

「ついでみたいに言うな」


 大友は室内を見回し、すぐに頷いた。

「おお、まだそこまで侵食されてない」

「侵食って言うな」

「いやでも今日から本格的に二人暮らしだろ?」

「仮だ」

 朱音が即座に言う。

「これは仮の共同駐留だ」

「何ひとつ分からん」

 大友が素で返した。


 ひなたは朱音の方を見て、にこりと笑った。


「鬼塚さん、今日はよろしくお願いします」

「……うむ」

「わ、今日は昨日より警戒されてない」

「ひなたに対する警戒は、性別認識の混乱を含んでいただけだろ」

 俺が言うと、

「いやそれもどうなんですか先輩」

 とひなたに笑われた。


 人が増える。

 声が増える。

 101号室の空気が、昨日までの“俺だけの部屋”からどんどん離れていく。


 そしてそれを、俺は少し騒がしいと思いながらも、完全に嫌だとは思えなかった。


「よし」

 大友が勝手に気合いを入れる。

「本日の目標、鬼塚さんの部屋を文明化する!」

「文明化とは何だ」

「中二病ワールドから現代生活へ戻すってこと」

「貴様」

「ほらもう面白い」


 そのやり取りを聞きながら、俺は思う。


 たぶん、こうやって人が増えていくのだ。

 少しずつ、当然みたいな顔をして。

 気づけば生活の中へ入り込んでいて、前の静けさを思い出しにくくしていく。


 隣の同級生も、今ここにいる従妹も、きっとそうだ。


 そのとき、外の廊下から車の止まる音がした。

 真琴さんたちと、業者が来たのだろう。


 朱音がぴんと背筋を伸ばす。

 俺は椅子から立ち上がる。

 大友はすでにやる気満々の顔をしていて、ひなたは「僕、ガムテープ取りますね」と言いながら流し台の横を見ている。


 いよいよ、本当に始まるらしい。


 俺は玄関へ向かいながら、小さく息を吐いた。


 隣の同級生は、優しい顔で生活圏に入ってくる。

 そして俺の従妹は、最初から遠慮なく部屋の中に入ってくる。


 どっちが面倒かと聞かれたら、たぶんまだ答えは出ない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ