第2話 2DKに従妹ひとり追加は、ルール作りから始まる
その日の夜、俺は人生でそう何度も使わないだろう言葉を、わりと真面目な顔で口にしていた。
「……つまり、同居ってことですか?」
二階204号室。
ハイツ水戸黄門のオーナー室でもある柏村真琴さんの部屋は、外見から想像するよりずっと普通だった。いや、普通というか、生活感がある。テーブルの端にノートパソコン、ソファの背もたれに投げられたカーディガン、飲みかけのペットボトル、資料らしき紙の束。社会人の部屋というのは、たぶんこういうものなのだろう。整っているようで、どこか疲れている。
そのテーブルを囲むようにして、俺と朱音と叔母さん、そして真琴さんが座っている。
というより、俺だけが座っていて、朱音は部屋の隅に立ったまま、窓の外を見ていた。さっきからずっと、「我は別にどちらでもよい」みたいな顔をしている。そういう顔をしているときが、一番気にしているときだと俺は知っている。
「そういうことになるわね」
真琴さんは、あまりにもあっさり言った。
「そんなに難しく考えなくてもいいでしょ。二DKなんだから」
「いや、難しく考えるでしょ普通」
「考えすぎなのよ、あんたは」
「考えなさすぎなんですよ、そっちは」
叔母さんが困ったように笑う。
「ごめんねえ、急な話で」
「いや、それは別に……」
「でも本当に、条件としては一番安心なのよ。親戚の物件で、親戚の子が住んでて、学校へも通いやすいなら」
「まあ、それはそうですけど」
俺は正直にうなずいた。
実際、話としては分かるのだ。
朱音の実家は、俺の地元よりさらに奥だ。道を一本間違えたら「今どこにいるんだ?」ではなく「人里に戻れるのか?」が心配になるくらいの場所である。そこから毎日高校へ通うのは、いくらなんでも無理がある。
だから水戸に出てくる。
そこまでは分かる。
問題は、その住まい候補がよりによって俺の部屋だという点だ。
「でも101は一人で使うには少し広いし」
真琴さんが指を折る。
「水まわりは新しい。部屋は分けられる。家賃も抑えられる。通学も問題ない。さらに私が上に住んでる。はい、かなり優良物件」
「最後、管理の意味で言ってます?」
「そうだけど?」
「身内の圧が強いんですよ」
真琴さんはにやっと笑った。絶対楽しんでるな、この人。
「朱音ちゃんの親としても、他人の女子寮より安心でしょ?」
「ええ、それは本当に……」
叔母さんは小さくうなずいてから、ちらりと朱音を見た。
「この子、見た目はこうだけど、わりと気を張るところがあるのよ」
「母上」
「知らない土地で一人、ってなると、たぶん最初はしんどいと思うの」
朱音がぴくりと肩を揺らした。
見た目はこうだけど、という表現に少しだけ引っかかったが、そこは突っ込まないでおく。叔母さんの中で、今の朱音はもう「そういうもの」として処理されているのだろう。
「別に我は、未知の環境に臆するほど軟弱では」
「はいはい」
叔母さんが流した。
「でも、不安じゃないわけじゃないでしょ」
「……」
朱音は答えない。
代わりに、窓の外を見たまま、
「我は合理性の話をしているだけだ」
と、少しだけ低い声で言った。
「既知の人員が近くにいるなら、その方が効率的だということだ」
「既知の人員」
真琴さんが復唱して、俺の方を見る。
「だって」
「いや、そこ見ないでください」
「朱音ちゃん、ちゃんと頼りにしてるじゃない」
「違っ――」
「違わないわよ」
叔母さんにまで即座に切り返されて、朱音は口を閉ざした。耳だけ少し赤い。俺は視線の置き場に困って、テーブルの端を眺めた。
頼りにされている、というのは、まあ、嫌ではない。
むしろ、少しだけ嬉しい。
ただそれを今ここで認めると、いろいろ面倒なことになる気がした。
「恒一くんは、どう?」
叔母さんがそう聞いてきた。
俺は少し考える。
正直に言えば、突然すぎるし、平穏な一人暮らしが壊れる感じはすごくする。
俺は別に、孤独が好きなわけではない。けれど、静かな生活にはだいぶ慣れていた。学校から帰って、鍵を開けて、誰もいない部屋に入って、適当に夕飯を作って、勉強して、風呂に入って、寝る。
その繰り返しは、少し地味だけど、かなり快適だった。
そこに朱音が入ってくる。
たぶん、うるさい。
たぶん、面倒も増える。
たぶん、今まで通りにはいかない。
でも。
「……嫌では、ないです」
と、俺は言った。
「たぶん、うるさくはなると思いますけど」
「うるさいとは何だ」
「うるさいだろ、絶対」
「失礼なやつだな」
「いや今日会ってまだ数時間しか経ってないのに、もうかなりうるさいぞ」
「お前の感受性が脆弱なのだ」
「人の聴覚を何だと思ってるんだ」
朱音がようやくこちらを見て、むっとした顔をする。
その顔が、なんだか昔と変わらなくて、俺は少しだけ力が抜けた。
叔母さんがふっと表情を緩める。
「じゃあ……本当に、お願いしてもいい?」
「いや、お願いっていうか」
「家賃とか生活費とかは、もちろんきちんとするから」
そう言ったあとで、叔母さんは少し申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「最初のうちだけでも、近くにいてくれたら助かるの」
そこまで言われると、もう断る理由はほとんどなかった。
そもそも、俺が断ったところで、朱音が別の部屋に一人で住んで、そこへ俺が様子を見に行く未来と、同じ部屋で生活動線を共有する未来の差は、そこまで大きくない気もする。いや、大きいか。大きいな。だいぶ大きい。
でも、少なくとも面倒を見るという意味では、大差ない。
「じゃあ、決まりね」
真琴さんが、ぱん、と手を打った。
「101号室、二人使用に変更。書類まわりは私の方でやっとく」
「いや、進行が早い」
「社会人は段取りが命なのよ」
「雑に見えるんですけど」
「雑に見えても進んでるなら勝ち」
「そういうものなんですか」
「そういうもの」
よく分からない理屈だったが、社会人の目はしていた。
朱音はまだ腕を組んだまま、どこか気まずそうにしている。
叔母さんがそんな娘の様子を見て、わざとらしく明るい声を出した。
「じゃあ、部屋のことも決めないとね。恒一くん、どっちを使ってるの?」
「ああ、今は奥の洋室を寝室にしてて、手前の六畳は荷物と机置いてるだけです」
「じゃあ、手前を朱音にすれば動線は悪くないか」
真琴さんがすぐに間取りを頭に浮かべる。
「DKを挟んでお互いの部屋がある形になるし」
「……なんか一気に現実感が」
「今まで何の話してたと思ってるの」
たしかにそうだ。
でも、実際に「どっちの部屋を誰が使うか」という話になると、急に同居の輪郭がはっきりしてくる。
俺の生活の中に、こいつの生活が本当に入ってくるのだ。
「我はどちらでも構わぬ」
朱音が、やっと会話に戻ってきた。
「だが、外界への導線が取りやすい方がよい」
「……手前の部屋がいいってこと?」
「そうとも言う」
「最初からそう言え」
「言葉の階位を落とす趣味はない」
面倒くさい。
でも、まあ、こいつだ。
「じゃあ手前な」
「勝手に決めるな」
「いや今お前がそう言っただろ」
「我は希望を述べただけで、最終判断権は」
「別に争う気ないから安心しろよ」
「……そうか」
その「そうか」が、少しだけ拍子抜けしたように聞こえて、俺は変な気分になった。
ほんの少し、警戒していたのかもしれない。俺が嫌がることを。
そう思うと、少しだけ胸がちくりとした。
「じゃ、今日はもう遅いし、荷物の本格搬入は明日ね」
真琴さんが立ち上がる。
「私は仕事あるから途中で抜けるけど、午前中に業者来るようにしとく」
「業者まで手配済みなんですか」
「だから段取りだって言ってるでしょ」
「怖いなあ」
叔母さんも立ち上がり、朱音の肩に軽く手を置いた。
「よかったね」
「何がだ」
「知らない場所に行くの、少しは心配だったでしょ」
「そんなことは」
「あるでしょ」
朱音はきっと否定したかったのだろう。
でも言い返せなくて、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
その横顔を見て、俺はふと、小さい頃のことを思い出した。
まだ今みたいな喋り方をしていなかった頃。
山の方の祭りで人が多くて、朱音が少しだけ俺の服の裾を掴んでいたことがある。自分からは「迷子になるかも」とは言わないくせに、しっかり離れないようにしていた。
こいつは昔から、強がり方だけは一級品だった。
「……恒一」
叔母さんたちが荷物の話を始めた隙に、朱音が小さく俺を呼んだ。
「なに」
「お前の部屋」
「うん」
「……本当に、使ってよいのか」
「今さらそこ?」
「今さらではない」
朱音は少し視線を逸らす。
「我が入れば、お前の平穏は乱れるぞ」
「自覚あったんだ」
「あるに決まっている」
俺は思わず笑いそうになったのを、なんとかこらえた。
「まあ、乱れるだろうな」
「なら」
「でも別に、嫌とは言ってない」
「……」
「むしろ、お前が変なところ住むよりは安心するよ」
言ってから、少しだけ言いすぎた気がした。
だが朱音は、すぐには何も返さなかった。
その代わり、わずかに目を見開いて、それから気まずそうに視線を伏せた。
「……ふん」
と、ようやく出てきたのはそんな一言だった。
「当然だ。お前に管理責任が発生するのだからな」
「何その責任」
「幼少期より我を見てきた者としての義務だ」
「勝手に重くするな」
「いやなら撤回してもよいが?」
「しないよ」
「……ならよい」
よくない顔で言うなよ。
けれど、耳がまた少し赤い。
分かりやすいな、と俺は心の中でだけ思った。
その夜、話し合いは一時間もしないうちに終わった。
叔母さんと朱音は一旦ホテルに戻るらしく、明日の朝また来ることになった。真琴さんは最後に「101の鍵、明日一つ追加で渡すから」とだけ言って、あくびを噛み殺していた。仕事帰りらしいから、たぶん相当疲れている。
俺は二階から一階へ降りる。
ハイツ水戸黄門の夜の廊下は静かだ。
外見は古いし、共用灯も少し頼りない。でも、この時間の空気は嫌いじゃない。冷えた外気と、各部屋の中にだけある生活の気配が混ざる感じが、妙に落ち着く。
101号室の前まで来て、ポケットの鍵を取り出す。
そこへ、102号室のドアが、静かに開いた。
「あ」
と、小さく声を漏らしたのは白沢依子だった。
学校で見るのとは少し違う、部屋着の上にカーディガンを羽織った姿。相変わらず髪は整っているし、表情も穏やかだ。たぶん今からゴミでも出すところだったのだろう。手には小さな袋がある。
「おかえり、恒一くん」
「……ただいま」
「二階、長かったね」
「まあ、ちょっといろいろ」
「決まった?」
さらりと聞かれて、俺は一瞬だけ答えに詰まった。
依子はそれを待つように、静かに立っている。
変に急かさないのに、逃げ道はあまりくれない感じが、やっぱりちょっとだけ不思議だ。
「……たぶん、決まった」
「そっか」
依子は小さくうなずいた。
「じゃあ、春から賑やかになるんだね」
「春からっていうか、たぶん明日から」
「明日からなんだ」
「そうみたい」
「早いね」
口調は柔らかい。
でもその言葉のあとで、依子はほんの少しだけ俺の目を見た。
「少し、寂しいかも」
「え」
「今まで、隣は静かだったから」
そう言ってから、依子はすぐに微笑んだ。
「……なんて。冗談」
「いや、冗談に聞こえないんだけど」
「そう?」
「そう」
依子は楽しそうでも困ったようでもない、曖昧な表情をした。
それからゴミ袋を少し持ち直して、何でもないことのように言う。
「でも、手伝えることがあったら言ってね。引っ越しって大変だし」
「ありがとう」
「ううん。隣だし」
その“隣だし”が、妙に耳に残った。
依子が先に廊下を歩いていく。
控えめな足音。開く共用扉。外の冷たい空気。
俺はしばらくその背中を見送ってから、ようやく101号室の鍵を開けた。
中へ入る。
静かな部屋だ。
まだ誰もいない。朱音の荷物も、本格的には来ていない。なのに、もうこの部屋は昨日までの部屋ではない気がした。
ダイニングキッチンの電気をつける。
少し広めの流し台、きれいな洗面所、奥の部屋、手前の部屋。
明日になれば、ここに段ボールが積まれて、布団が運ばれて、服が増えて、食器が増えて、声が増える。
俺の生活の導線に、もう一人分が入り込む。
「……マジかあ」
誰もいない部屋で、思わずそう漏らした。
嫌だとは思っていない。
でも落ち着かない。
そしてたぶん、これからかなり面倒だ。
俺はとりあえず冷蔵庫を開け、昨日作ったおかずの残りを確認した。
明日から二人分にしないといけないのか、と考える。
米の減りも早くなるだろう。洗濯の回数も増える。風呂の順番も考えないといけない。
生活というのは、思ったより具体的だ。
そのとき、スマホが震えた。
画面には真琴さんからの短いメッセージが表示されていた。
『明日9時に業者。寝坊すんな。あと朱音ちゃんの前で変な兄ヅラすんなよ』
余計なお世話だ。
そう思いながら、そのすぐあとにもう一件通知が来る。
差出人は、朱音。
珍しいな、と思って開いてみると、本文は一行だった。
『明日、荷の搬入後に我が部屋の結界配置を確認する。覚悟しておけ』
「結界配置って、収納のことだろ……」
思わず口に出た。
でも、その文面の奥に、わずかに緊張している気配が見えるのが分かってしまう。
だから俺は、少しだけ悩んだあと、短く返した。
『了解。とりあえず手前の部屋、片づけとく』
送信して、少し待つ。
数秒後、返ってきたのはこれだった。
『当然だ』
それだけ。
だけどその二文字で、なんとなく、明日から本当にこいつが来るのだと実感した。
俺はスマホを机に置いて、手前の部屋の襖――じゃないな、引き戸を開けた。
今は半分物置みたいになっている六畳の部屋。段ボール、季節外れの布団、使っていない棚。
ここが明日から朱音の部屋になる。
「……片づけるか」
誰に言うでもなく呟いて、俺はとりあえず床に積んであった雑誌を脇へ寄せた。
一人暮らしは、たぶん今日で終わった。
正確には、明日で終わる。
そしてその変化は、案外もう、始まっているのかもしれなかった。




