第24話 オーナーはたまに、青春の外側から余計なことを言う
日曜の昼過ぎ、101号室のインターホンが鳴ったとき、俺は本気で嫌な予感しかしなかった。
ぴんぽーん、という、特に特徴もない音。
でも、最近このアパートでその音が鳴ると、ろくでもないことが起きる確率が少し高い。
「出ろ」
と、DKのテーブルでノートを広げていた朱音が言う。
「なんで俺」
「お前の部屋だからだ」
「お前も住んでるだろ」
「ならば“我らの部屋”と言い換えてもよいが」
「急にそこだけ共有意識出すな」
「不満か」
「そういうとこだけ妙に自然なんだよな」
言い合いながら玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこに立っていたのは案の定だった。
「よ」
柏村真琴。
ハイツ水戸黄門のオーナーで、俺の又従姉妹。休日らしくラフな服装だが、手には書類の入ったクリアファイルとコンビニ袋を持っている。仕事をしているのか休みなのか、いつも判別しにくい人だ。
「うわ」
と思わず言うと、
「親戚に向かって第一声が“うわ”ってどうなの」
と真琴さん。
「いや、その、嫌な予感が当たったなって」
「失礼ね」
「でもだいたい余計なこと言いに来るときの顔してますよ」
「何その把握の仕方」
「長い付き合いなんで」
真琴さんは、ふん、と鼻を鳴らしてから中を覗き込んだ。
「入っていい?」
「よくなくても入るでしょ」
「そうね」
「そこは否定しろよ」
結局、真琴さんは当然みたいな顔で101号室のDKへ入ってきた。
「こんにちは」
と、朱音が言う。
「うん、こんにちは。何、その顔」
「何とは何だ」
「“また来たのか”って顔」
「否定はしない」
「素直ねえ」
真琴さんはコンビニ袋をテーブルへ置いた。
中にはお茶のペットボトルと、菓子パンが二つ、あと小さいカップスープみたいなものまで入っている。微妙に気遣いはある。あるのだが、何をしに来たのかは不明なままだ。
「で、何ですか」
俺が聞くと、
「共用部の確認」
と真琴さん。
「あと、ついでに生存確認」
「雑だな」
「大家ってそんなもんよ」
「絶対違うだろ」
そう言いながらも、真琴さんはほんとに部屋の中を一通り見る。
玄関まわり。
DKのテーブル。
流し台。
ベランダ側の窓際。
それから、なぜか少しだけ感心した顔になった。
「へえ」
「何ですか」
「思ったよりちゃんとしてる」
「失礼だな」
「いや、もっとごちゃついてるかと思ったの」
「我がいるからな」
朱音が言う。
「生活動線は一定水準以上を維持している」
「その言い方」
俺が言うと、
「でもまあ、そういうとこはほんと助かってる」
「……」
朱音が一瞬だけ止まる。
「何だ」
「いや」
「何だ」
「またそういうこと言うのかと思って」
「どういうこと」
「“そういうの平気で言うな”ってやつ」
「……」
朱音は少しだけ目を逸らした。
「今さら毎回言っても面倒だ」
「慣れたんだ」
「慣れてはいない」
「どっちだよ」
「両方だ」
「便利な返しだなあ」
真琴さんは、そのやり取りをじっと見ていた。
見ていて、明らかに面白がっていた。
「何ですか、その顔」
俺が聞くと、
「いやあ」
真琴さんは妙にしみじみした声を出した。
「若いって面倒ね」
「お前が言うな!」
「何で」
「絶対今、完全に見世物として見てたでしょ」
「まあ、少しは」
「認めるな」
「だって分かりやすいんだもん」
真琴さんは椅子に勝手に座った。
「同居の従妹と、隣の同級生と、しかもお前がその間で妙に中途半端な顔してるんだよ? そりゃ見るでしょ」
「中途半端って何ですか」
「決めきってない顔」
「勝手に分析するな」
「親戚の特権です」
「そんなもんない」
朱音が低い声で言った。
「真琴」
「何」
「余計な挑発をするな」
「挑発?」
真琴さんは片眉を上げる。
「してないわよ。事実確認してるだけ」
「その言い方、最近この部屋で流行ってるな」
俺が言うと、
「何それ」
「“事実だから”“確認だから”“管理じゃない”とか」
「はは」
真琴さんが笑う。
「やばい、地雷原の言語体系できてるじゃん」
「やめろその呼び方」
「もう定着してるでしょ」
「してないって」
真琴さんは笑いながら、コンビニ袋からお茶を取り出した。
「で、GWどうすんの?」
「いきなりそこ行くんですか」
「今いちばん面白い話題でしょ」
「面白さ基準やめてくれません?」
「でも気になるじゃない」
「俺は気になってほしくない」
「無理」
「早いな」
真琴さんはまるで当然のように続ける。
「一階でどっか行く話してるんでしょ」
「……」
「何で知ってるんですか」
「オーナーなめないで」
「オーナーの情報網ってそんな精度なんですか」
「というか、ひなたくんがこの前すごく楽しそうに話してた」
「そこからかよ」
「それで?」
「それでって」
「どこ行くの」
「まだ決まってない」
「決まってないの?」
真琴さんは少しだけ意外そうにした。
「そこで揉めてるんじゃないの?」
「揉めてはない」
俺が言うと、
「揉めてはいない」
と朱音。
「ただ、人数と行動範囲と騒がしさの制御に課題がある」
「お前の言い方、ほんと面白いな」
真琴さんが吹き出す。
「何が課題よ。遠足か」
「似たようなものだろ」
と、俺。
「そこ否定しないのね」
「否定しきれないからな」
真琴さんはお茶を一口飲んで、ふっと笑った。
「でもまあ、いいんじゃない?」
「何が」
「その感じ」
「どの感じですか」
「まだ何も決まってないくせに、決まってないこと自体でちょっと空気が動いてる感じ」
「……」
「そういうの、若いときにしかないでしょ」
「急に年寄りみたいなこと言うな」
「二十九です」
「微妙に言い返しづらい年齢出すな」
朱音がそこで口を挟む。
「真琴」
「何」
「お前は、外から見てそんなに分かりやすいのか」
「誰が?」
「この部屋の構図だ」
「構図って」
「恒一を中心とした、あれこれだ」
「うわ、言い方がもう面白い」
「答えろ」
朱音は真顔だった。
真琴さんは少しだけ目を細めて、それから珍しくちゃんと考える顔になった。
「分かりやすいよ」
と、はっきり言った。
その場の空気が、少しだけ止まる。
「……」
「……」
「何、その顔」
真琴さんが俺たちを見る。
「むしろ、分かりやすくないと思ってたの?」
「いや」
と俺が先に言う。
「分かってはいたけど」
「けど?」
「そこまで外から見てもそうなんだなって」
「そうよ」
真琴さんはあっさり言う。
「お前、自分では普通にしてるつもりかもしれないけど、依子ちゃんのこと気にしてる顔と、朱音ちゃんのことで反応してる顔、だいぶ違うし」
「やめてください」
「何で」
「聞きたくない」
「現実逃避?」
「そうです」
「素直だねえ」
「親戚の前なんで」
真琴さんはそこで、今度は朱音を見る。
「で、朱音ちゃん」
「何だ」
「あなたも分かりやすい」
「……」
「何か言えよ」
俺が思わず言うと、
「言いたくない」
と、朱音。
「それだけでだいぶ図星っぽいな」
「うるさい」
朱音は真琴さんへ向き直る。
「どの辺がだ」
「全部」
「雑だな」
「じゃあ丁寧に言う?」
「言え」
「生活の中で恒一くんの位置を先に押さえようとしてるとこ」
「……」
「帰宅時間気にするとこ」
「……」
「隣がどうこう言いながら、結局一番生活の中心にいるとこ」
「……」
「あと、あれね」
「何だ」
「張り合い方がかわいい」
「そこは撤回しろ!」
朱音が珍しく声を張った。
真琴さんは腹を抱えて笑いそうになるのをこらえている。
「いやだって本当だし」
「それを言うな」
「えー」
「えー、じゃない」
「でも、かわいいわよ?」
「いらぬ評価だ」
「はいはい」
「はいはい、ではない!」
俺はそのやり取りを見て、思わず笑ってしまった。
朱音がすぐに睨んでくる。
「笑うな」
「いや、だって」
「笑うな」
「真琴さんの言い方が悪い」
「そこ、否定しきらないのが一番腹立つ」
「ごめん」
「ごめんで済むか」
そこで真琴さんは、今度は少しだけ真面目な声になった。
「でもさ」
「何ですか」
俺が聞くと、
「その“分かりやすい”って、別に悪いことじゃないと思うのよ」
「……」
「若いときって、もっと変な見栄とか、もっと変な意地とか、いろいろあるじゃない」
「ありますね」
「あるでしょ」
「あなたに言われると妙に説得力あるな」
「人生経験です」
「重いな」
「で、今のお前たちは、その辺まだちゃんと面倒だけど、少なくとも“何もないふり”はだんだん下手になってる」
「……」
「それは、まあ、前進じゃない?」
その言葉には、少しだけ返しづらい真っ当さがあった。
朱音も、すぐには何も言わない。
「で」
真琴さんはまた空気を軽くするみたいに言った。
「GW終わる頃には何か一つくらい進んでんじゃないの?」
「やめろ」
俺が即答する。
「何も進まなくていい」
「そう?」
「そうです」
「でも、お前のそういう“進まなくていい”って顔、だいたい進む前の人のやつよ」
「何その呪い」
「呪いじゃなくて経験則」
「経験則の種類が嫌すぎる」
そこでチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
三人ともそちらを見る。
「……誰だ」
と朱音。
「嫌な予感しかしない」
俺も正直そう思った。
ドアを開けると、そこにいたのは依子だった。
「こんにちは」
と、穏やかに言う。
そして俺の後ろを少し見て、状況を察したらしい。
「……真琴さん」
「はい、こんにちは」
真琴さんが妙に明るい声を出す。
「いいところに来たわね」
「何が“いいところ”なんですか」
俺が振り返って言うと、
「青春査定」
「最悪だ」
「すごいワードですね」
依子が小さく笑う。
そこへ依子が加わると、空気はまた少し変わった。
依子は最初、少しだけ様子を見ていたが、すぐにいつもの静かな調子で入ってくる。
「何の話してたんですか?」
「お前たちが外から見ても分かりやすいって話」
真琴さんが即答した。
「言うな!」
俺が言うと、
「なんで?」
「本人がいるのに」
「本人がいるからでしょ」
依子はそれを聞いて、少しだけ首を傾げた。
「分かりやすい、か」
「そう」
真琴さんは面白そうに依子を見る。
「あなたも大概よ」
「私も?」
「うん」
「どの辺が」
「その“私も?”って顔がまず強い」
「それは抽象的すぎません?」
「じゃあ具体的に言う?」
「言ってください」
「恒一くんの予定確認しすぎ」
「……」
「空いてる日を知りたがる」
「……」
「教室ではちょっと引いて、帰り道で詰める」
「……」
「めちゃくちゃ分かりやすいわよ」
「……そうなんですね」
依子は少しだけ考え込むような顔をした。
「自分では、もう少し自然なつもりでした」
「そこがまた強いんだって」
俺が思わず言うと、
「やっぱりそう見える?」
依子がこっちを見た。
「見える」
「そっか」
「そっか、じゃない」
真琴さんはそのやり取りを見て、もう完全に面白がっている。
「ほらね」
「何がですか」
「お前たち、ほんとその距離感でまだ決まってないの逆にすごい」
「決める必要ないです」
「言い切った」
「言い切ります」
「そういうとこだよねえ」
「真琴」
朱音が低く言う。
「余計な火をつけるな」
「つけてないって」
「つけている」
「でもまあ」
真琴さんは立ち上がった。
「外から見るとそういうことよ、ってだけ。あとは勝手にやりなさい」
「雑すぎる」
「大家の仕事は終わり」
「青春査定は仕事に入らないでしょ」
「副業」
「副業にするな」
真琴さんはコンビニ袋の残りを置いたまま、あっさり帰る準備を始めた。
「じゃ、私は戻るから」
「二階だろ」
「戻るは戻るでしょ」
「まあそうだけど」
「朱音ちゃん、頑張りなさい」
「何をだ」
「いろいろ」
「雑だな」
「依子ちゃんも」
「はい」
「楽しそうですね」
依子が笑うと、
「そりゃ楽しいわよ」
真琴さんは即答した。
「だって若いもの」
「その言い方ほんと腹立つな」
真琴さんが去ったあと、101号室のDKには微妙な静けさが残った。
依子は玄関の近くに立ったまま、少しだけ笑っている。
朱音は不機嫌そうに椅子へ座り直している。
俺はテーブルの端に立ったまま、どう話を戻すか分からなくなっていた。
「……」
「……」
「……」
最初に口を開いたのは依子だった。
「真琴さん」
「何だ」
と、俺。
「外から見て、やっぱりそんなに分かりやすいんだね」
「他人事みたいに言うな」
「でも少し安心した」
「何で」
「私だけが変に意識してるわけじゃないんだなって思って」
「……」
「それを言うな」
と、朱音。
「なぜ」
「なぜ、ではない」
「でも、本当でしょ?」
「……」
「鬼塚さんも」
「お前は、本当に静かに刺すな」
「そう?」
「そうだ」
「でも」
依子は少しだけ首を傾げた。
「鬼塚さんの方が、生活の中では強いよ」
「……」
「私はそこ、たぶん勝てないし」
「勝つ負けるで言うな」
俺が言うと、
「でも気になるでしょ?」
と依子。
「なるけど」
「ほら」
「お前、その“ほら”もやめろ」
朱音はその会話を聞いていたが、不意にぽつりと言った。
「……それでも」
「何」
依子が静かに聞く。
「外に出れば、お前は普通におる」
「……うん」
「それが面倒だ」
「それ、褒めてる?」
「褒めていない」
「でも、認めてはいるんだよね」
「……」
「鬼塚さん、そこ最近ちょっと素直だよね」
「お前は」
朱音が顔をしかめる。
「本当に嫌なところだけ拾うな」
「そう?」
「そうだ」
「でも、ちゃんと話してくれるの、私は好きだよ」
「……」
「やめろ」
朱音は小さく言う。
「何を?」
「そうやって、普通の顔でそういうことを言うのを」
「普通の顔って、そんなにだめ?」
「だめではない」
「じゃあいい?」
「……よくない」
「どっち」
「……面倒だ」
「それ、最近よく言うな」
俺が思わず口を挟むと、
「お前は黙っていろ」
と、すぐ怒られた。
それでも、前みたいに棘だけで終わる感じではない。
真琴さんの言う通り、外から見ればもう十分“分かりやすい”のかもしれない。
オーナーはたまに、青春の外側から余計なことを言う。
そして、その余計なことが案外間違っていないから、いちばん困るのだ。




