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第1話 春の部屋探しで、俺の平穏はだいたい終わった

 二月の水戸は、思っていたより風が冷たい。


 いや、正確に言えば、俺の地元の山奥に比べればずっと人の気配があるぶん、寒さがやけに現実的なのだ。刺すような寒さではない。けれど、自転車のハンドルを握る手にじわじわ染みてきて、「ああ、今日も帰ってきたな」と思わせる程度には冷える。


 高校からの帰り道、俺――桐谷恒一は、いつもの坂を下って住宅街の細い道へ入った。


 夕方の空は薄い灰色で、日の落ちるのがまだ早い。街路樹は裸で、通りすがりの家々の窓には、もう明かりが灯り始めている。駅前の賑やかさはここまで来ると少し遠くて、代わりに洗濯物を取り込む音や、どこかの家の夕飯の匂いが漂ってくる。


 この感じが、俺はわりと嫌いじゃなかった。


 派手すぎず、静かすぎず。人はいるのに、放っておいてくれる街。


 地元みたいに、隣の家までが遠くて夜になると山の音しかしないわけじゃない。でも東京みたいに、何もかもが多すぎて息苦しいわけでもない。


 水戸は、俺みたいな人間が一人暮らしを始めるには、ちょうどいい場所だった。


 たぶん。


 そう思っていた。少なくとも十分前までは。


「……なんだ、あれ」


 見慣れたはずのアパートの前に、見慣れない軽ワゴンが停まっていた。


 俺が住んでいるのは、住宅街の端っこにある、木造二階建ての学生向けアパートだ。名前はハイツ水戸黄門。初めてこの名前を聞いたときは、冗談かと思った。今でも友達に住所を言うと、たまに笑われる。


 外見は正直かなり古い。


 外壁は色あせたクリーム色、共用廊下の鉄柵には年季が入っていて、階段の手すりもところどころ塗装が剥げている。郵便受けは微妙に傾いているし、玄関灯もなんだか頼りない。初見で「ここに住みたい」と思う人間は、たぶん少ない。


 でも中は案外悪くない。


 各部屋は学生向けにしては珍しく二DKで、一人で住むには少し広い。しかも風呂、トイレ、洗面台、キッチンだけはきっちりリフォームされていて、生活のしやすさだけならかなり上等だ。


 そのギャップと家賃の安さが、このアパートの唯一にして最大の武器だった。


 そして、俺はその「妙に住みやすいボロアパート」の一階、101号室に住んでいる。


 なのに今日は、そのアパートの前に見覚えのない車が停まっていて、しかも玄関先にはよく見知ったスーツ姿の女が立っていた。


 柏村真琴。


 このアパートのオーナーで、俺の又従姉妹だ。


 年齢は二十九。仕事は忙しいらしい。たまに夜遅くに帰ってきて、すごく疲れた顔のままコンビニの袋をぶら下げている。なのに朝はちゃんと出勤しているから、俺は密かに「社会人って怖い」と思っている。


 その真琴さんが、今日は二階から降りてきて、玄関前で誰かに部屋を案内しているらしかった。


「……内見?」


 珍しいな、と思いながら自転車を停めようとして――その横顔を見た瞬間、俺は思わず動きを止めた。


 見覚えがある。


 というより、忘れる方が無理な顔だった。


 小柄で、少し吊り目気味の大きな目。黒髪は肩のあたりで揺れていて、冬物のコートの上からでも分かるくらい、本人だけ妙にぴんと張りつめた空気をまとっている。


 その少女は、俺に気づくより先に、こちらの自転車のブレーキ音に反応して振り向いた。


 一瞬、目が合う。


 そのまま彼女は、俺の顔を見て、数秒だけ固まった。


 そして次の瞬間――、


「……やはり、ここにいたか」


 と、低く言った。


「は?」


「先に前線拠点を確保していたとはな。さすがに予想外だったが、そういうことなら話は早い」


「いや、何が?」


「水戸制圧のための橋頭堡としては悪くない。むしろ及第点だ」


 俺は数秒かけて状況を理解し、それから深く息を吐いた。


 間違いない。


 こいつだ。


「……朱音」


 鬼塚朱音。


 俺の一歳下の従妹で、幼なじみでもある少女。小さい頃から顔を合わせることは多かった。夏休みや正月に会えば、一緒に山道を走り回ったり、川で遊んだり、虫を追いかけたりしていた。


 そして中学に入ったあたりから、なぜか急に中二病を拗らせた。


「久しぶりの再会でその反応か。やはり都会の瘴気は人の感性を鈍らせる」

「水戸は都会じゃないだろ」

「我が基準では十分に都市部だ」

「基準が極端なんだよ」


 思わずそう返すと、朱音はふん、と小さく鼻を鳴らした。


 その仕草まで昔のままで、俺は少しだけ拍子抜けした。


「恒一くん?」


 そこで、朱音の横にいた女性が、ほっとした顔で俺を見た。


「あ、叔母さん。お久しぶりです」

「やっぱり恒一くんだ。大きくなったねえ」

「いや……去年も会いましたよね」

「そうだけど、こうして街で見るとまた違うのよ」


 朱音の母さん――俺から見れば叔母にあたる人は、地元にいた頃と変わらない柔らかい笑顔でそう言った。


 その隣で真琴さんが、面白そうに片眉を上げる。


「知り合いじゃなくて親戚なんだから、そりゃ話早いわよね」

「いや、真琴さん、これ……どういう状況ですか」

「どういうもこういうも、内見よ。朱音ちゃん、この春から水戸の高校に進学するんでしょ」


 俺はまじまじと朱音を見た。


「……マジで?」

「虚言を弄する理由がどこにある」

「その喋り方の時点で、ちょっと全部疑いたくなるんだけど」

「失礼だな、お前は」


 口調は相変わらず妙だったが、朱音は少しだけ顎を上げて、胸を張った。


「この春より、我は新たな学びの地へ赴くこととなった」

「普通に言え」

「高校進学ってことよ」


 叔母さんがすぐに訳してくれた。


「家からじゃ通うのが難しいから、水戸で住む場所を探しててね。最初は女子寮とかも見たんだけど、なかなか条件が合わなくて」

「で、うちの親戚筋を辿ったら、このアパートに行き着いたわけ」


 真琴さんがそう言って、古びた外壁を軽く叩く。


 ハイツ水戸黄門。築年数は古い。名前もどうかしている。けれど、学生が住むには意外と条件は悪くない。


 ……ということは分かる。分かるんだが。


「よりによって、ここ?」

「何よ、よりによってって。失礼ね」

「いや、名前が」

「私がつけたんじゃないから! 前のオーナーが置いてったの!」


 真琴さんが即座にキレた。


 やっぱり気にしてたんだな、その名前。


 朱音はそんなやりとりを気にも留めず、じっとアパートの外観を見上げていた。


「外殻は相応に老朽化しているな」

「言い方」

「だが、水脈の気配は悪くなかった」

「水脈って、お風呂とかキッチンのこと?」

「……そうとも言う」


 つまり、気に入ったらしい。


 叔母さんが困ったように笑う。


「この子ね、水まわりだけはすごく見るのよ」

「そこ大事ですからね……」

「恒一くんもそう思う?」

「いや、はい。ここ、中は意外といいです。キッチンも使いやすいし、風呂も普通にきれいだし」

「ほらね」

「でも見た目でだいぶ損してるからね、このアパートは」


 真琴さんが真顔で言った。オーナーが言っていい台詞じゃない。


 俺が自転車を駐輪場に寄せている間に、四人でなんとなく一階の廊下へ移動する流れになった。冬の夕方の空気は冷えるけれど、会話があるぶん、さっきまでの一人の帰り道よりずっと騒がしい。


 101号室の前で、朱音が俺の部屋のドアをじっと見た。


「……ここか」

「そうだけど」

「お前はこの拠点を単独運用していたのか」

「一人暮らしを、そんな軍事用語みたいに言うな」

「二DKを一人で使うとは贅沢だな」

「それはちょっと思ってる」


 正直、一人で住むには少し広い。


 ダイニングキッチンに六畳の洋室、もう一部屋。収納もそこそこある。最初は持て余したけれど、そのうち「片方を寝室、もう片方を物置兼勉強部屋」にして落ち着いた。


 でも、朱音はドアの前に立ったまま、やけに真剣な顔で部屋の奥まで見通そうとするように目を細めていた。


「何」

「別に」

「いや、絶対なんかあるだろ」

「……思ったより、悪くない」

「評価そこなんだ」

「お前がまともに生存できているなら、居住環境として最低限は保証されている」


 ひどい言われようだった。


 ただ、そう言ったあとの朱音の表情が、ほんの少しだけやわらいだ気がして、俺はなんとなくそれ以上突っ込めなかった。


 知らない街で、知らない高校に通う準備をしているのだ。


 こいつなりに、緊張していないわけがない。


 それをわざわざ言葉にするほど、俺たちは小さくもないし、気まずいほど離れてもいない。


 だから、俺は代わりに、何でもないふうを装って聞いた。


「高校、どこ受けるんだよ」

「お前の近辺だ」

「ざっくりしてんな」

「同一通学圏内、というやつだ」

「急にまともな言い方になるな」

「たまにはな」


 朱音が少しだけ口の端を上げる。


 その瞬間だった。


「……恒一くん?」


 静かな声が、すぐ横からした。


 振り向くと、102号室のドアが半分ほど開いていて、そこから一人の女子が顔を覗かせていた。


 白沢依子。


 同じクラスの同級生だ。


 学校では目立たないけれど、整った顔立ちと、いつもきちんとした制服の着こなしで、印象には残る。黒髪のロング。白い肌。表情はあまり大きく動かないのに、たまに笑うと妙に目を引く。


 その依子が、俺を見て、次に叔母さんと真琴さんと朱音を順に見た。


「……あ」

「白沢?」

「やっぱり。恒一くん、ここだったんだ」

「えっ」

「私、隣。前に言わなかったっけ」

「聞いてないけど」


 依子は少しだけ首を傾げ、それから柔らかく笑った。


「そっか。学校で住んでる場所の話、あまりしないもんね」


 たしかにそうだ。


 俺もわざわざ「ハイツ水戸黄門に住んでる」なんて言いたくなかったし。


 その一方で、朱音は依子を見た瞬間、わずかに目を細めた。


 分かりやすい。


 俺は頭が痛くなってきた。


「こんにちは。内見ですか?」

「あ、そうなの。親戚の子が春からこっちで高校通うことになってね」


 叔母さんが答えると、依子は「そうなんですね」と丁寧に頷いた。


 それから、ほんの一瞬だけ、俺の顔を見た。


「……じゃあ、これから少し賑やかになりますね」

「いや、まだ決まったわけじゃ――」

「決まりつつあるわよね?」


 真琴さんが横から刺してくる。


 え、待ってくれ。


 なんでそんな流れになってるんだ。


「いや、だから、部屋は別にここじゃなくても」

「でも親戚の子が近くに住んでるなら安心だし」

「101、二DKでしょ。あんた一人じゃ持て余してるじゃない」

「いやいやいや」

「同居なら家賃の負担も調整しやすいしねえ」


 叔母さんまで乗り気になってきた。


 朱音はというと、何やら一人で考え込んだあと、静かに俺の部屋のドアノブを見つめていた。嫌な予感がする。


「……朱音?」

「合理的ではある」

「何が」

「我が新たな生活基盤として、この拠点を共有利用することは」

「待て」

「見知らぬ環境へ単独で降り立つより、既知の人員がいる方が各種リスクは低い」

「待てって」

「それに」

「それに?」

「……お前がいるなら、少しはましだ」


 最後だけ、声が少し小さくなった。


 俺だけじゃなく、叔母さんも真琴さんも聞こえたらしい。朱音本人は、言った直後にしまったという顔をして、すぐにそっぽを向いた。


「ち、違う。今のは、そういう意味ではなく」

「どういう意味だよ」

「つまり、地理的未知領域における既知個体の存在は精神衛生上の」

「はいはい分かった分かった」


 昔からこいつは、照れると面倒くささが三倍になる。


 ただ、その面倒くささ込みで、ほんの少しだけ懐かしかった。


 地元を出てから、そういう気持ちになることはあまりなかったから、自分でも少し意外だった。


 依子が、そのやりとりを静かに見ていた。


 相変わらず穏やかな顔なのに、視線だけは妙にまっすぐで、俺はなぜか少し落ち着かない。


「……仲がいいんだね」

「いや、別に」

「幼なじみでもあるからねえ、この二人」


 叔母さんが嬉しそうに言う。


 依子は小さく「そっか」とだけ言って、それからまた微笑んだ。


「それなら、安心ですね」


 その“安心”が誰に向けた言葉なのか、俺には少し分からなかった。


 でも朱音は、明らかに気に入らなそうな顔をした。


 やめてくれ。


 まだ何も始まってないのに、もう空気が妙だ。


「じゃあ、とりあえず今日は部屋の話を詰めるとして」

 真琴さんが、ぱん、と手を打った。

「恒一、あんたも後で二階来なさい。いろいろ確認あるから」

「え、俺も?」

「そりゃそうでしょ。住民本人なんだから」

「いや、それはそうですけど」

「あと、もし本当に朱音ちゃん入れるなら、部屋の使い方も相談しないといけないし」

「まだ決定じゃないですよね?」

「九割決まってる顔してるわよ、全員」


 見れば、叔母さんは本気でほっとした顔をしていたし、朱音は気まずそうにしながらも、部屋を見る目がすでに“候補”ではなく“確認”のそれだった。


 依子だけが、相変わらず静かで、でもなぜか一番何かを考えていそうな顔をしていた。


 俺は頭を抱えたくなった。


 今日、俺はいつも通り学校から帰ってきただけだ。


 いつも通り自転車を停めて、いつも通り101号室の鍵を開けて、いつも通り静かな二DKに入るはずだった。


 そのはずだったのに。


「恒一」

 と、叔母さんが柔らかく呼ぶ。

「この子、たぶん強がってるけど、けっこう不安だと思うの。もし近くにいてくれたら、本当に助かる」

「母上、余計なことを」

「はいはい」


 朱音は耳まで少し赤くして、ものすごく不満そうな顔をした。


 でも否定しきれないあたりが、昔と変わらない。


 俺はため息をついて、それからもう一度、自分の住んでいるアパートを見上げた。


 ハイツ水戸黄門。


 名前はダサい。見た目も古い。だけど中は意外と住みやすい、妙に現実的な学生向けアパート。


 そこで始めた一人暮らしは、思っていたより静かで、思っていたよりちゃんとしていて、たぶんこのまま平穏に続いていくはずだった。


 ――このときの俺は、まだ知らなかった。


 この春から、この部屋に中二病の従妹が転がり込んでくることも。


 壁一枚隔てた隣に、少し近すぎる同級生が住んでいることも。


 そして、このボロアパートで過ごす日々が、俺の高校生活を思っていた以上に騒がしく、甘く、面倒くさいものに変えていくことも。


 ただ一つ確かだったのは。


 俺の平穏な一人暮らしが、だいたいこの日で終わったということだけだった。

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