第32話「二人の時間」
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1. 母のいない家
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【藤堂邸・リビング】
美咲の母が骨折して入院した。
たいしたことはないが、美咲は、しばらく実家に帰って付き添うことになった。
「お父さん、ご飯できたよ」
彩花が台所から声をかけた。
テーブルには、みそ汁と焼き魚と卵焼きが並んでいた。
「……うまそうだな」
藤堂が言った。
「彩花が作ったのか?」
「健太が米を炊いて、私がおかず」
彩花が答えた。
「私も時々料理のお手伝いをしていたから、これくらいは作れるのよ」
健太が少し得意げに言った。
「俺、上手くご飯が炊けたよ。水の量はばっちりさ」
三人で食卓を囲んだ。
しばらく食べていると、健太が言った。
「お母さんがいないと、なんか変な感じだな」
「そうね」
彩花が頷いた。
「いつもいるのが当たり前だから」
藤堂は、みそ汁を一口飲んだ。
美咲の味と少し違うが、悪くない。
「お母さんのみそ汁、好きなんだよな」
健太が呟いた。
「いつも同じ味なのに、なんか落ち着く」
「健太、お母さんのこと好きだよね」
彩花が笑った。
「当たり前だろ」
健太が答えた。
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藤堂は黙って二人を見ていた。
「お父さんは?」
彩花が聞いた。
「お母さんのどんなところが好き?」
藤堂は少し考えた。
「お母さんのいいところはたくさんある」
「じゃあ、逆に聞くが、彩花にとってお母さんってどういう人なのかな?」
「そうね。聞き上手だと思う。だから学校で何かあったとき、
帰ったらお母さんに話そう、聞いてもらおうと考える。
良くないことがあったときもお母さんに話したら、翌朝は吹っ切れてる」
彩花が言った。
「お母さんは聞いているだけではないぞ。褒めたり、ダメ出しするだけでもない。
共感して、勇気づけてくれているんだ」
「いいことがあったときは、『よかったね。私も嬉しいわ。いいことがあったらまた教えてね』という感じ。
よくないことがあったときは、『残念だったね。気持ちはわかるわ。次にリベンジしたときは教えてね』と言われると、
また今度頑張ってリベンジして、お母さんに話そうと思うんだよ」
健太が言った。
「僕も何かあったときは、家に帰ったらお母さんに話そうって思うな」
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藤堂は健太にも言った。
「健太はサッカーをやっていて、こんなことを思ったことはないか?
シュートを決めたやつばかり目立っているけど、
ディフェンス陣やゴールキーパーが点を取られるのを防いだから勝てたのに……って」
健太が答えた。
「しょっちゅうだよ」
「でもな。見ている人はいるんだぞ。各選手がどれだけ貢献しているかをな」
「それも思ったことがあるよ。ある日、僕が試合で相手選手の速攻を止めた場面があったんだけど、
試合後に監督に褒められたんだ。
『あのシーンは、相手の攻撃を止めたことで1点を奪われずに済んだということだけじゃなかった。
相手の反撃を打ち切ったことで、モメンタムをうちのチームに引き戻したんだ。
試合の勝敗に大きな影響を与えたプレーだったぞ』ってね」
「お父さん何が言いたいの?」
彩花が聞いた。
「ごめんごめん。ついついスポーツの話になると理屈っぽくなってしまうんだ。
何が言いたいかというと、お母さんは我が家では、
自らシュートを決める選手ではなく、
シュートを蹴りやすいように上手にパスを出してくれる選手なんだ。
その役割を敢えて選んでいるんだ」
「アシストだね。アシストのうまい選手は頼もしい戦力になる」
健太が言った。
「さっき彩花が言った、よくないことがあった翌朝に吹っ切れていて、また頑張ろうという気持ちになっている。
それがお母さんのマジックとでもいうのかな。
しかもそのマジックを目立たないようにさりげなくやっている。
それがお母さんの魅力なんだよ」
「わかるような気がする。お母さんは子供たちだけでなく、
日本の総理大臣のアシストもしているのね」
彩花が笑った。
「その通り」
「知らぬ間に勇気づけられてる。
それがどれだけ、ありがたいことか……」
彩花と健太が顔を見合わせた。
「お父さんって、たまにすごくいいこと言うよね」
彩花が笑った。
「たまに、か」
藤堂も笑った。
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しばらくして、健太が言った。
「お母さん、昔すごく大変だったんだよな」
「どういうこと?」
藤堂が聞いた。
「俺が小さい頃の話、彩花ねえから聞いたことあって」
彩花が続けた。
「私が小学校の低学年の頃、お父さんが選挙で大変な時期があったでしょ。
その上、まだ小さかった健太が熱を出したの。
あの時お母さん、健太の看病もしながら毎晩遅くまで選挙の事務作業を手伝って、
大変だったのにお父さんは『家のことは頼む』って感じで、冷たかったわ。
でも翌朝はちゃんと朝ごはんを作って私を送り出してた。
一度だけ、台所で泣いているのを見たことがあるの」
「お母さんが?」
藤堂の箸が止まった。
「うん。気づいてないと思ったのかな。
私が声をかけたら、すぐに笑顔になって
『ちょっと玉ねぎが目にしみただけよ』って言ったけど」
「玉ねぎ、切ってなかったのにね」
健太がぽつりと言った。
藤堂は黙っていた。
「でもね」
彩花が続けた。
「お母さんって、不思議なんだよね。
愚痴を言わないの。
大変なのに、ずっと穏やかで、怒るときも怒鳴らないし」
「それがお母さんの強さだと思う」
健太が言った。
藤堂は、二人の顔を見た。
藤堂(心の声)
*台所で泣いていた……*
*私は、知らなかった*
*誠司さんも、知らなかったのかもしれない*
*この人は、ずっとそうやって*
*一人で支えてきたんだ*
「ごちそうさま」
藤堂が言った。
「うまかった」
彩花と健太が、嬉しそうに笑った。
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2. アルへの相談
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【美咲の帰宅】
数日後、美咲が実家から帰ってきた。
「もういいのか?」
「退院して、まだギプスは取れていないけど、家のことはできるって。
こっちのことはいいから、誠司さんのそばにいてあげなさいって、母が」
「久しぶりに実家に帰ったんだから、もっとゆっくりしてくればいいのに」
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【その夜・書斎】
「アル」
藤堂が画面に向かって言った。
「何?」
「ここまでたどり着けたのは、家族の応援があったからだと思うんだ。
何か、感謝を形で表したい。
いい考えはないか?」
アルは少し間を置いた。
「すごくベタだけれど……プレゼントがいいんじゃない?」
アルが答えた。
「美咲さんには好きなものを選んでもらって、
彩花さんと健太くんへのプレゼントは2人で選ぶ。
そのために、美咲さんと2人で出かけてみたら?」
「……そうだな」
藤堂が頷いた。
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「美咲さんとの馴れ初めは、以前教えてあげたわよね」
アルが続けた。
「政治ディスカッションのイベントで論破されたって話だろ」
「その続きの話をしてあげる」
「誠司、一目惚れしたらしいの。
でもその日は、声をかけられなかったから何もなかったの。
それで数日後に出場者の集まりで合コンをすることになって。
いつもは全く興味がなかった誠司に、誰かがこう言ったの」
「何て?」
「『藤堂を論破したあの子が来るらしいよ』」
アルが少し楽しそうに言った。
「それを聞いた誠司、即決で合コンに参加したの。
誠司が4年生、美咲さんが1年生だったわ」
藤堂は思わず笑った。
「論破されたのに、惚れたのか」
「そういうことね」
アルが答えた。
「それと……美咲さんが気に入っていた喫茶店があるの。
2人でよく行っていた場所。
プレゼントの後に立ち寄れるといいわね」
「ありがとう、アル」
「どういたしまして」
アルが静かに言った。
「……初デートね、翔」
藤堂は少し照れて、画面から目をそらした。
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3. 二人の時間
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【都内・百貨店】
SPの責任者伊丹には正直に伝えていた。
「総理として大きな成果を上げられたので、久しぶりに妻とデートしたいんだ。
私用に付き合わせて申し訳ない」
「どうぞどうぞ。我々のことは気にしないで、奥様サービスしてあげてください。
長崎旅行の時も思いましたけど、藤堂総理は大変なお仕事をされているのに家族のことも大切にしておられる。
流石だなっていつも仲間と話しているんですよ。
あなたのような方の護衛ができるなんてSP冥利に尽きますよ。
なるべく目立たないように同行しますので、ご遠慮なく」
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美咲は少し不思議そうな顔をしながら、藤堂の隣を歩いた。
「本当に買い物に来たの?」
美咲が言った。
「当たり前だ。子供たちへのプレゼントを一緒に選んでほしい。
それと……美咲が欲しいものも買う」
藤堂が答えた。
「先日のG7は一世一代の大仕事だった。
総理大臣になって無我夢中でやってきたけれど、
正直言ってここまでやれるとは自分でも思っていなかった。
感謝してるんだ。そう言えば、これまで一度もプレゼントなんてしたことがなかったなって思ってさ。
今日は好きなものを選んでくれ」
美咲は少しの間、藤堂を見た。
それから、小さく笑った。
「……変なの」
「変か?」
「ううん」
美咲が言った。
「嬉しいわ」
美咲(心の声)
*プレゼントは若い頃何回かもらってるんだけどな*
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二人は、まず子供たちへのプレゼントを選んだ。
健太へはサッカーのスパイク。
彩花へはピアノの楽譜集とヘッドフォン。
藤堂が彩花への楽譜集を手に取ったとき、
美咲が言った。
「彩花、最近ショパンにはまってるの。知ってた?」
「知らなかった」
藤堂が正直に答えた。
「そうよね」
美咲が微笑んだ。
「あなたは知らないことの方が多いけど……
でも、ちゃんと子供たちのことを見てるわ」
藤堂(心の声)
*美咲は……こういう言い方をする人だ*
*責めるのではなく、そっと認めてくれる*
美咲のプレゼントは、スカーフだった。
深い青色の、シンプルなもの。
「これがいいか?」
藤堂が聞いた。
「どうして分かったの?」
美咲が驚いた。
「勘だ」
藤堂が答えた。
「……嘘ね」
美咲が笑った。
「でも、嬉しいわ」
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藤堂夫妻が総理専用車に戻ってくると、
後を追うように百貨店の店員が両手に大きな紙袋を持って来た。
伊丹「何ですか、これは?」
藤堂「SPの方は今日非番の人を加えて全員で10人ですよね。
これは、皆さん本人宛ではなくて、奥様へのプレゼントです。
皆さんがいつも立派にお仕事をされているのは、
きっと奥様方の内助の功があってのことだと思いますので、ほんの気持ちです。
でも2人の独身の方へは本人宛です。包み紙の種類を変えています」
伊丹「先日、私に全員既婚者ですかって尋ねられたのはそういうことだったのですね。
ありがとうございます。妻も、いえ、全員喜ぶと思います。
あなたはすごい方です。政治家として抵抗勢力には毅然として立ち向かう強さをお持ちである上に、
このような細かい気遣いもできる」
藤堂「いえいえ、本当に気持ちだけなので、中身はあまり期待しないでください」
藤堂はこの日、百貨店で秘書官を含むスタッフ全員へのプレゼントを
官邸に宅配する手配も済ませていた。
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【喫茶店】
プレゼントの紙袋を持ち、二人は近くの喫茶店に入った。
SPは外で待機している。
窓際の席。
コーヒーが運ばれてきた。
「ここは……」
美咲がゆっくりと店内を見回した。
「お付き合いしていた頃、よく来たわね」
「そうだったな」
藤堂が答えた。
美咲はコーヒーカップを両手で包んだ。
「合コンで再会した日のこと、覚えてる?」
美咲が言った。
「その日にデートを申し込むなんて、びっくりしたわ」
「若気の至りだよ」
藤堂が答えた。
「何だか、若かったから判断をミスったみたいに聞こえるけど?」
美咲が笑った。
「いや、誤解だよ」
藤堂が続けた。
「若かったから、思い切ったことができたということだ。
今の自分には信じられないけど」
美咲は少し嬉しそうに、窓の外を見た。
藤堂(心の声)
*20歳前後って、ためらわず行動に移せる年頃なんだよな*
*俺はあの頃……何も怖いものがなかった*
*でも今も、そうだったかもしれない*
*怖いのは、この人を傷つけることだけだ*
しばらく、二人は会話を楽しんだ。
翔は家の外で、仕事を忘れて美咲と2人でゆっくりと時間を過ごすのは初めてだった。
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「美咲」
藤堂が言った。
「何?」
「台所で泣いていたこと、あったんだな」
美咲の手が、少し止まった。
「……子供たちから聞いたの?」
「ああ」
美咲は、少しの間を置いた。
それから、静かに笑った。
「あの子たち、ちゃんと見てたのね」
「私は、見ていなかった」
藤堂が言った。
「それが……申し訳なかった」
美咲は首を振った。
「謝らないで。
あなたが大切なことをしているのは、分かっていたから」
「それでも」
美咲は藤堂を見た。
その目は、穏やかだった。
「今日みたいな日があれば、それで十分よ」
藤堂は、美咲の顔を見た。
藤堂(心の声)
*誠司さんなら、今、何と言うだろう*
*……いや*
*今日は、私の言葉で言おう*
「一緒にいてくれて、ありがとう」
藤堂が言った。
美咲は少し驚いたように藤堂を見た。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……こちらこそ」
窓の外、東京の街が静かに流れていた。
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4. サプライズ
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【藤堂邸・玄関】
帰宅すると、玄関が暗かった。
「あれ、健太は?」
美咲が言った。
リビングのドアを開けた瞬間——
「お父さん、お母さん、銀婚式おめでとう!」
明かりがついた。
テーブルには、手作りのケーキと花が飾られていた。
彩花と健太が、満面の笑みで立っていた。
美咲は目を丸くした。
「え……銀婚式?」
「今年で結婚25年でしょ」
彩花が言った。
「忘れてたの?」
「忘れてたわけじゃないけど……」
美咲が照れたように笑った。
藤堂は、彩花と健太を見た。
「……お前たちが、用意したのか」
「お父さんは絶対気づいてないと思って」
健太が言った。
「だから俺たちでやることにしたんだよ」
「お母さんはたぶん気づいてると思ったけど」
彩花が美咲を見た。
「黙っててくれてよかった」
「もちろんよ」
美咲が笑った。
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【回想・数日前・彩花の部屋】
「ねえ健太、お父さんとお母さんの結婚記念日って知ってる?」
彩花が聞いた。
「知ってるよ。何年目だっけ」
健太が答えた。
「25年。銀婚式なのよ」
健太が目を見開いた。
「え、すごい」
「お母さんは絶対気づいてると思うけど」
彩花が続けた。
「お父さんは気づいてないと思うんだよね。
あの人、そういうこと覚えてなさそうで」
「確かに」
健太が頷いた。
「じゃあ、俺たちが先にお祝いしてあげようよ。
お父さんに気づかせてあげるために」
「そうしよう」
彩花が笑った。
「ケーキ、私が焼く。花は健太が買ってきて」
「了解」
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【現在・リビング】
ケーキを囲んで、四人が座った。
「じゃあ、乾杯しよう」
藤堂が言った。
「何で乾杯するの?」
健太が言った。
「25年に」
藤堂が答えた。
「……それと、この家族に」
彩花が、少し目を潤ませた。
「お父さん、また急にいいこと言う」
「たまに、だろ」
藤堂が笑った。
四人のグラスが、静かに重なった。
美咲は、藤堂を見た。
美咲(心の声)
*あなたが誰であれ……*
*この家族でよかった*
*本当に、よかった*
藤堂(心の声)
*いずれ、この家族と別れる日が訪れる*
*でも——こんな夜があった*
*美咲と夫婦で、よかった*
窓の外、東京の夜が静かに広がっていた。
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第32話 完
次回:第33話「北朝鮮シミュレーション」
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第32話 あとがき
SPリーダーの名前は、ある人物にあやかって付けました。
その人物とは、イギリスのロックバンドQUEENが6回来日した時およびお忍びで来日した時にフレディ・マーキュリーのボディガードを務めた伊丹久夫さんです。伊丹さんはフレディが亡くなった今も彼からもらったクリスマスカードを大切に保管しているとのこと。封書にはフレディの手書きで伊丹さんの住所や名前が書かれているそうです。




