第3話 辺境伯邸のキッチン改革と「トンカツ」
王都を出発してから五日。
私たちはついに、北の果てにあるヴォルグ辺境伯領へと到着した。
馬車の窓から見えたのは、荒涼とした大地と、針のように尖った山々。
そして、断崖絶壁の上にそびえ立つ、黒曜石で作られた巨大な城塞だった。
通称、『魔王城』。
……いや、正式名称はヴォルグ城なんだけど、領民ですらそう呼んでいるらしい。
「着いたぞ。ここが俺の領地だ」
ギルバート辺境伯が低い声で告げる。
城門をくぐると、ずらりと並んだ使用人たちが深々と頭を下げて出迎えた。
みんな一様に顔色が悪い。
目の下にはクマがあり、頬がこけている。
まるで幽霊屋敷だ。この城の空気、どんよりと重すぎる。
「お帰りなさいませ、閣下」
出迎えたのは、白髪の老執事セバスチャンだった。
彼は私を一瞥すると、怪訝そうに眉をひそめた。
「閣下、その薄汚れた娘は……? まさか、また新しい『生贄』ですか?」
「人聞きが悪いことを言うな。俺の専属料理人だ」
「料理人、でございますか? しかし、先月雇った料理長も『この城の食材は呪われている』と言って逃げ出しましたが」
「今度は逃げられん。俺が逃がさんからな」
ギルバート様は私の肩をガシッと掴むと、獲物を自慢する猛獣のような顔をした。
いや、逃げませんけどね。美味しい食材がある限りは。
「セシリアだ。厨房へ案内しろ。夕食は彼女が作る」
◇
案内された厨房を見て、私は絶句した。
「……汚い」
そこは、戦場跡地のようだった。
床には何かの脂がこびりつき、壁は煤で真っ黒。
調理器具は錆びつき、換気口は埃で詰まっている。
隅の方では、疲れ切った下働きの少年が、ジャガイモの皮を延々と剥いていた。
「なんですか、これ」
「……魔獣討伐が忙しく、食事は栄養さえ摂れればいいという方針でしたので。焼くだけ、煮るだけの簡易調理が続いており、清掃も行き届かず……」
セバスチャンが申し訳なさそうに言う。
私は腕まくりをした。
料理人として、いや、食を愛する者として、不衛生な厨房だけは絶対に許せない!
「掃除です! 料理の前に、まずは大掃除よ!」
「は、はい?」
「美味しい料理は清潔な場所から生まれるんです! そこの君も、ジャガイモ置いて手伝って!」
私は呆気にとられる使用人たちに指示を飛ばし、自ら雑巾とブラシを手にした。
頑固な油汚れには、アルカリ性の灰汁を使う。
錆びた包丁は研ぎ直し、鍋はピカピカになるまで磨き上げる。
二時間後。
厨房は見違えるように輝いていた。
空気も澄んで、これなら最高の料理が作れそうだ。
「さて、本番はこれからね」
私は食材庫から、今日のためのメインディッシュを取り出した。
辺境特産の魔獣『オークキング』のロース肉だ。
筋肉質で臭みが強いと言われているが、下処理さえ間違えなければ、牛をも凌ぐ最高級の豚肉になる。
しかもこの肉、脂身のサシが素晴らしい。
今日のメニューは、これしかない。
疲れた男たちの胃袋をガツンと満たし、かつ明日への活力を与える最強のスタミナ料理。
『厚切りトンカツ』だ。
まな板の上に、三センチはある分厚い肉塊を置く。
まずは筋切りだ。
赤身と脂身の境目に包丁を入れ、加熱した時の反り返りを防ぐ。
そしてここからが重要。
私はミートハンマー(肉叩き)を構えた。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
リズミカルに肉を叩く。
繊維を壊し、肉質を柔らかくするのだ。
ストレス発散にもなって一石二鳥である。
柔らかくなった肉に塩コショウを振り、小麦粉を薄くまぶす。
余分な粉はしっかり落とすのがコツだ。
次に溶き卵にくぐらせ、最後にたっぷりの生パン粉を纏わせる。
このパン粉も、厨房にあった古くなったパンを私が手でおろして作った特製だ。
市販の乾燥パン粉とは違い、ふんわりとした食感を生む。
鍋には、たっぷりのラードを溶かしてある。
温度は百六十度。少し低めだ。
これほど分厚い肉だ。いきなり高温で揚げると、中は生焼け、外は丸焦げになってしまう。
静かに、肉を油の海へと沈める。
――シュワワワワ……。
穏やかな泡が肉を包み込む。
じっくり、ゆっくり。
肉の中心まで熱が伝わるのを待つ。
この待ち時間が、美味しくなるための魔法の時間だ。
五分ほど揚げたら、一度取り出して休ませる。余熱で中まで火を通すのだ。
そして最後に、百八十度の高温油へ再投入!
――バチバチバチッ!
激しい音が厨房に響く。
衣の水分を一気に飛ばし、カラッと仕上げる。
きつね色が、より深い黄金色へと変わっていく。
「よし!」
油から引き上げると、サクッという乾いた音がナイフ越しに伝わってきた。
包丁を入れる。
ザクッ、ザクッ。
断面からは、透明な肉汁がじわりと滲み出し、薄ピンク色の肉が顔を覗かせた。
完璧な火入れだ。
付け合わせは、山盛りの千切りキャベツ。
ソースは、野菜と果実を煮詰めた黒い『ウスターソース』に、炒った胡麻をたっぷりとすり潰したものを合わせる。
香ばしい胡麻の香りが、食欲を刺激する。
◇
食堂の長テーブルには、ギルバート様と、毒見役を兼ねた執事のセバスチャンが座っていた。
私が大皿を運ぶと、二人の目が点になる。
「……なんだ、この茶色い岩のような塊は」
ギルバート様が怪訝そうに言った。
確かに、三センチの厚みは威圧感があるかもしれない。
「『厚切りトンカツ』です。オークキングの肉を最高に美味しく食べる方法ですよ」
「オークだと? あれは筋張っていて臭い肉だぞ」
セバスチャンが信じられないといった顔をする。
「まあ、騙されたと思って食べてみてください。まずは何もつけずに、お塩だけでどうぞ」
私は小皿に盛った岩塩を勧めた。
ギルバート様はナイフを入れる。
力を入れていないのに、肉がスッと切れたことに彼は目を見張った。
一切れをフォークに刺し、口へ運ぶ。
ザクゥッ……!
静かな食堂に、衣が砕ける音が響き渡った。
次の瞬間、ギルバート様の動きが止まった。
「……ッ!?」
彼はカッと目を見開き、もぐもぐと口を動かしたあと、信じられないものを見る目で皿の上の肉を凝視した。
「柔らかい……! これが本当にオークの肉か? 歯がいらないほど柔らかく、噛み締めた瞬間に脂の甘みが爆発する!」
「はい、低温でじっくり火を通しましたから」
「臭みなど微塵もない。衣の香ばしさと脂の甘みが混ざり合い……飲み込むのが惜しいほどだ」
彼は恍惚とした表情で、次はすり胡麻ソースをたっぷりとつけて頬張った。
「ぬぐっ……! この黒いソースは何だ! 酸味とスパイスの香りが、脂っこさを完全に消し去っている! いくらでも腹に入るぞ!」
横で見ていたセバスチャンも、恐る恐る口にして――数秒後には、老執事の仮面を脱ぎ捨てていた。
「う、美味い! なんという滋味! 長年仕えてきましたが、これほど柔らかい肉料理は初めてです!」
「ご飯もありますよ。キャベツと一緒に食べると消化にもいいんです」
私が炊きたてのご飯と、シャキシャキのキャベツを勧めると、男たちの理性のタガが外れた。
「飯だ! 飯をくれ! このソースのついたカツで、白飯をかき込みたい!」
「キャベツが……ただの葉っぱが、この肉の脂と混ざるとご馳走になりますな!」
普段は冷徹な『魔王』と呼ばれる辺境伯と、厳格な執事が、子供のようにソースを口の端につけて夢中で食べている。
その様子を、配膳を手伝っていたメイドや下働きの少年たちが、ゴクリと唾を飲んで見つめていた。
ギルバート様はふと顔を上げ、周囲の使用人たちの視線に気づいた。
彼らの目が、飢えた狼のようになっていることに。
「……セシリア。厨房にはまだ肉があるか?」
「ええ、山ほど揚げてありますよ。使用人の皆さんの分も」
「そうか」
彼は満足そうに頷き、ナプキンで口を拭った。
「お前たちも食え。これは命令だ。……この城の主として、これほど美味いものを独り占めするのは気が引ける」
「へ、陛下……いや、閣下ぁぁぁ!」
「一生ついていきます!」
使用人たちが歓声を上げ、厨房へと雪崩れ込んでいく。
厨房からはすぐに「うめぇぇぇ!」「なんだこれは!」という絶叫にも似た歓喜の声が聞こえてきた。
ギルバート様は、空になった皿を見つめ、どこか憑き物が落ちたような穏やかな顔で私を見た。
その赤い瞳が、熱っぽく潤んでいる。
「セシリア」
「はい、おかわりですか?」
「違う。……いや、おかわりも欲しいが」
彼は立ち上がり、私の手を取った。
大きくて温かい手だ。剣ダコのある硬い掌が、私の指を包み込む。
「礼を言う。この城に、こんなに明るい声が響いたのは何年ぶりだろうか。お前が来てくれて、本当によかった」
真剣な眼差しで見つめられ、私はドキリと胸が高鳴った。
え、何この雰囲気。
まさか、愛の告白?
「だからセシリア。……俺の給金のすべてを預ける。いや、領地の予算を握ってもいい。一生、俺にこの『トンカツ』を作ってくれ」
「……はい?」
「金ならいくらでも出す。お前の体重と同じ重さの金貨を積んでもいい。だからどこへも行くな」
ああ、うん。
やっぱり胃袋の話ね。知ってた。
でもまあ、悪い気はしない。
自分の料理をこんなに美味しそうに食べてくれる人がいるなら、料理人として本望だわ。
「ふふっ。金貨はいりませんけど、美味しい食材はこれからも調達してくださいね?」
「約束する。ドラゴンの肉だろうが、深海の魚だろうが、お前が望むなら俺が狩ってこよう」
こうして私は、ヴォルグ辺境伯邸の『胃袋の支配者』として、確固たる地位を築くことになったのだった。
でもギルバート様、私の手を握る力がちょっと強すぎません?
それ、食欲だけの熱意じゃない気がするんですけど……まあ、気のせいか。
明日はどんな料理で、この魔王城を陥落させてやろうかしら。
私は空になったお皿を見ながら、ニヤリと笑った。




