後編「文音」と「文音」
春になっても、手紙は途切れなかった。
雪が消え、通学路の景色が変わっても、文音はときどき東五十表郵便局へ手紙を持っていった。
以前のように、届くたびに不思議がったり、おじさんのスタンプを眺めたりすることはもうない。
手紙を書いて持っていけば届く。
それがいつの間にか当たり前になっていた。
文ちゃんから届く手紙にも、相変わらずクラリネットの話が混じっていた。
ただ、以前のような「音が出た」「失敗した」という話は少なくなっている。
『新入生が入ってきた。クラリネットにも一人来たんだけど、経験者だった。私より普通にうまい。納得いかない。』
高校二年生になった文ちゃんには、初めて後輩ができていた。
文音はそれを読んで笑い、『先輩なのに負けてるじゃん。』と返した。
数日後に届いた手紙には、『分かってるから言わないで。』と書かれていた。
文音の方も、二年生になるころには、カメラを持ち歩くのがすっかり普通になっていた。
毎日ではないが、朝の光がきれいだったり、帰り道で気になるものを見つけたりすると鞄から取り出す。もう文ちゃんへ送れる写真を探してはいなかった。
写真が送れないことも、とっくに気にしなくなっていた。
現像した写真は箱に入れて残していた。
最初のころの写真と最近のものを並べれば、自分でも少し違いが分かる。
母親も気づいていたらしく、ある日、出来上がった写真を文音へ渡しながら一枚だけ抜き出した。
「これ、いいね」
夕方の田んぼを撮った写真だった。
「ほんと?」
「うん。お母さんは好き」
文音は受け取ってもう一度見てから、「じゃあ、あげる」と母親へ差し出した。
同じ写真がもう一枚あるからと言うと、母親は冷蔵庫の横へ貼った。
それだけのことだったが、文音は次のフィルムをカメラへ入れるとき、いつもより少し機嫌がよかった。
手紙の中身も、少しずつ変わっていった。
一年生のころは本や学校の愚痴ばかりだったのに、文ちゃんの手紙には部活の友達の話が増えた。
練習のあとに何人かで寄り道をしたこと、休日に演奏会を聴きに行ったこと、スマートフォンのグループで夜遅くまで話して母親に怒られたこと。
文音の手紙には写真の話が増えた。
新しいフィルムを買うために小遣いを残すようになったこと、隣町のカメラ店へ初めて自分で行ったこと、店の人に教えてもらったことを試して失敗したこと。
それぞれの手紙に、相手の知らない人や出来事が少しずつ増えていった。
それでも、ときどき妙に似た話が混じることがあった。
『小さいころ、雪の日に長靴の中までびしょびしょにして、お母さんに怒られたことある?』
文音にも覚えがあった。
祖母がストーブの前に靴下を並べてくれたことまで思い出したので、『ある。私も怒られた。』と返した。
それ以上、気にすることはなかった。
似たようなことは、その後もたまにあった。
子どものころに苦手だった食べ物や、家に昔からあるもの、祖父との思い出。
聞けば「私も」と思うことがある一方で、知らない話もどんどん増えていく。
季節が何度か変わり、二人は高校三年生になった。
進路希望を書く時期になると、文音は以前ほど迷わなかった。
写真を仕事にできるのかは分からない。
自分がそこまで上手なのかも分からない。
それでも、もっと勉強してみたかった。
夕食のあと、文音は両親にパンフレットを見せた。
「ここ、行きたい」
写真を学べる専門学校だった。
母親はパンフレットを開き、「写真?」と聞いた。
「うん」
「仕事にしたいの?」
文音は少し考えてから答えた。
「まだ分かんない。でも、ちゃんと勉強したい」
母親はしばらくページをめくってから、父親へパンフレットを渡した。
「じゃあ、まず見に行ってみたら?」
「いいの?」
「見に行くくらいいいでしょ」
それで話は進み始めた。
しばらくして届いた文ちゃんの手紙にも、進路のことが書かれていた。
文ちゃんは大学へ行くつもりだった。
クラリネットを仕事にするわけではないらしい。
『大学にも吹奏楽あるところ多いみたい。クラリネットは続けたい。』
最初に聞いたときは、知らない誰かの下手な音に腹を立てて始めた楽器だった。
文音はそのことを思い出し、『まだ、最初の人に勝ちたいの?』と書いて送った。
返事には、『その人のこと忘れてた。』と書いてあった。
文音は声を出して笑った。
それから卒業までの時間は、思っていたより早く過ぎていった。
文音は専門学校への進学を決め、文ちゃんも大学へ進むことになった。
受験の話や卒業の準備が増え、手紙の間隔が少し空くこともあったが、文通そのものは続いていた。
卒業してからも、一度は普通に手紙が届いた。
『卒業したね。なんか変な感じ。大学始まったらまた書くね。』
文音も返事を書いた。
専門学校が始まるのが楽しみなこと、新しいカメラが欲しいけれど高くて迷っていること、春になったら撮りたいものがいくつかあること。
最後に、『私もまた書くね。』そう書いて、いつもの封筒へ入れた。
郵便局のおじさんは、いつものようにスタンプを押した。
「はい、預かった」
「お願い」
何も変わらなかった。
だから文音は、その手紙もいつものように届くと思っていた。
数日後、家へ帰ると、自分が出した封筒が戻っていた。
隅には、おじさんが押したあの模様がある。
その近くには、見慣れない文字があった。
――宛先不明。
文音はしばらく、その文字を見ていた。
封筒は間違いなく自分が出したもので、中には『私もまた書くね。』と書いた手紙がそのまま入っている。
おじさんのスタンプも、いつもと同じように押されていた。
翌日の放課後、文音はその封筒を持って東五十表郵便局へ行った。
おじさんはいつもと変わらず窓口にいて、差し出された封筒を見ると「ああ」と受け取った。
「ねぇおじさん。手紙、届かなかったんだけど......」
「そうか」
「なんで?」
おじさんは封筒を裏返し、押されているスタンプを確認した。
「届かなくなったからだろうな」
「そっか......」
理由が分かったわけではなかった。
それでも文音は、もう一度出してほしいとは言わなかった。
返された封筒を鞄へしまい、そのまま郵便局を出た。
家へ帰ると、返ってきた手紙を机の引き出しへ入れた。
そこには、これまで文ちゃんから届いた手紙がまとめてしまってある。
一番下には、宛名も住所もなかった最初の一通も残っていた。
文音は少しだけそれを眺めてから、返ってきた手紙を重ねて引き出しを閉めた。
春になり、専門学校へ通い始めると生活は大きく変わった。
教室には自分よりずっとカメラに詳しい人がいて、使っている機材も撮るものも違う。
最初の授業で写真を見せ合ったときには、自分では思いつかないような写真がいくつもあった。
隣の席の子が、文音の写真を一枚指した。
雪解け水に空が映っている写真だった。
「これ、文音が撮ったの?」
「うん」
「私これ好き」
「ほんと?」
「うん。こういうの撮るんだね」
文音は改めて写真を見た。
高校へ通っていたころ、帰り道で何となく足を止めて撮ったものだった。
「こういうの、よく撮るかも」
「今度一緒に撮りに行こうよ」
「行く」
文ちゃんに景色を見せたくて持ち出した祖父のカメラは、今も鞄の中にある。
結局、文ちゃんへ送れる写真は一枚も見つからなかった。
それでも撮った写真はずいぶん増えたし、これから撮ってみたいものも増えていた。
次の授業が始まると、文音は写真をしまって前を向いた。
そのころ、もう一人の文音にも新しい生活が始まっていた。
大学は高校よりずっと人が多く、最初のうちは教室を探すだけでも面倒だった。
スマートフォンには新しい連絡先が増え、いくつものグループに入った。
吹奏楽も見に行き、少し迷った末に入ることにした。
クラリネットを仕事にするつもりはなかったが、だからといってやめる理由もなかった。
大学生活が始まってしばらく経っても、文ちゃんからの返事は来なかった。
けれど、すぐには気にしなかった。
受験のころには手紙の間隔が空くこともあったし、新しい学校が始まれば向こうも忙しいのだろうと思った。
そのうち自分から近況を書こうと思い、いつもの少し黄みがかった封筒を取り出した。
大学が始まったこと、人が多くて疲れること、吹奏楽に入ってまたクラリネットを吹いていることを書き、最後に『そっちも忙しい? 落ち着いたらまた書いて。』と付け足した。
いつものように出した手紙は、数日後、そのまま戻ってきた。
封筒には「宛先不明」と記されていた。
文音はその日のうちに、戻ってきた封筒を持って東五十表郵便局へ向かった。
「おじさん、大変!!」
「どうした?」
「手紙、届かなくなっちゃった!! どうしよう、なんで?」
文音が戻ってきた封筒を窓口へ置くと、おじさんはそれを見て「届かなくなったからだろうな」と言った。
「意味分かんないよ! この前までは平気だったじゃん!!」
「そうだなぁ」
「おじさんが届けてるんでしょ!? いいから早く届けてよ、この手紙!!」
「無茶言うなよ......」
「もう一回スタンプ押したら届くかもしれないじゃん」
「変わらないよ」
「なんで!」
「俺に言われてもなぁ......」
文音はそれからもしばらく粘ったが、おじさんの返事は変わらなかった。
やがて勢いもなくなり、手元の封筒を見ながら小さな声で聞いた。
「......ほんとに無理?」
「無理みたいだな」
「......そっかぁ......」
文音は封筒を鞄へしまって「じゃあね、おじさん」と郵便局を出た。
外へ出たところでスマートフォンが鳴った。
吹奏楽の友達から『今日来る?』と連絡が来ている。
文音は『行く。ちょっと遅れる!』と返し、そのまま練習へ向かった。
郵便局の中からその後ろ姿を見送っていたおじさんは、小さく呟いた。
「同じだけど同じじゃない、か......」
それから時計を見て、「やべ、配達」と慌てて立ち上がった。
机の上には、いつものスタンプが置かれている。
おじさんはそれを片づけ、いつもの仕事へ戻った。
数日後、文音は大学の練習室でクラリネットを吹いていた。
途中で音を外して「あー、もう一回!」と言えば、「そこ今日三回目じゃない?」と笑われる。
それでも「今度はいける!」と構え直した。
最初にクラリネットを吹いたときは、まともな音すら出なかった。
あの帰り道で下手な演奏をしていた人が誰だったのかは結局知らないし、その人より上手くなったのかどうかも分からない。
今となっては、もうどうでもよかった。
息を吸って、もう一度吹く。今度はきれいに音が出た。
同じころ、もう一人の文音は専門学校の友達と歩いていた。
授業が終わったあと、二人で少し遠回りをして帰っている途中だった。
「文音、また止まった」
「ちょっと待って」
「今度は何?」
「これ」
文音が指したのは、道端に咲いている小さな花だった。
友達は「普通の花じゃない?」と首を傾げたが、文音は「うん。でも撮りたい」としゃがみ込んだ。
ファインダーを覗き、少し位置を変える。
光の入り方が変わったところでシャッターを押すと、文音は満足して立ち上がった。
「お待たせ」
「長いよ。次止まったら置いてくからね」
「それは困る」
二人は笑いながら、また歩き出した。
文音は次に何を撮ろうか考えながら歩き、もう一人の文音は次の練習で吹く曲を考えていた。
二人の手紙はもう届かない。
けれど、明日になれば、文音はまたカメラを持って出かける。
文音はまた、クラリネットを吹く。




