前編「カメラ」と「クラリネット」
部活から帰ったころには、外はもう暗くなっていた。
文音は自分の部屋へ入ると、制服のままベッドへ腰を下ろしてスマートフォンを開いた。
吹奏楽部のグループには明日の練習についていくつか連絡が来ている。
集合時間を確認し、そのあとに続いていた雑談を流し読みしてから画面を閉じた。
宿題をする気にはまだならなかった。
机の前に座り、なんとなく引き出しを開ける。
筆記用具や使いかけの便箋に混じって、少し黄みがかった封筒が何枚か入っていた。
家に昔からある、ごく普通の封筒だった。
一枚取り出して眺めているうち、ふと思った。
宛名も住所も書かず、切手も貼らずに手紙を出したら、どうなるのだろう。
たぶん、どこにも届かない。
回収した人を困らせるだけかもしれない。
それでも少しやってみたくなって、文音は便箋を一枚取り出した。
今日も雪が降ったこと、部活で先生の話を聞き逃して友達に教えてもらったこと、最近読んだ本が思ったより面白かったこと。
特に意味もなく、思いついたことを順番に書いた。
名前は書かなかった。封筒にも何も書かない。
翌朝、登校途中にポストの前で足を止め、そのまま手紙を入れた。
からん、と小さな音がする。
「ほんとに入れちゃった」
誰に言うでもなく呟き、文音は学校へ向かった。
昼前、ポストの中身を回収していた郵便局員は、その封筒を見つけて手を止めた。
宛名も差出人もなく、切手も貼られていない。
少し黄みがかった、ごく普通の封筒だった。
「......久しぶりに見たな」
東五十表郵便局へ戻ると、男は封筒を自分の机へ置いた。
机の端には、長く使われているらしい手押しのスタンプと、薄い木箱が置かれている。
木箱の蓋を開けると、中には液体のインクが浅く入っていた。
青にも緑にも見え、少し角度が変われば紫がかっているようにも見える。
男は特に気にする様子もなくスタンプにインクをつけ、封筒の隅へ押した。
見たこともない文字のような模様が残る。
それを確認すると、男はいつもの仕事へ戻った。
玄里村の冬は雪が多い。
もう一人の文音は、毎朝早めに家を出る。
学校まで遠いうえ、雪が積もれば歩くのにも時間がかかる。
遅刻しないようにしているうち、教室へ着くのはたいてい一番か二番になった。
その朝もまだ人の少ない教室で、友達が来るまで本を読んで過ごした。
部活には入っていない。
入りたいと思う部活も特になかったし、友達も多くはないが、それで困ったこともなかった。
放課後になれば、たまに友達と一緒に帰る以外はまっすぐ家へ向かう。
その日も雪の積もった田んぼの横を通り、除雪された道を歩いて帰った。
「ただいま」
「おかえり。そうだ、文音に手紙来てるよ」
「手紙?」
居間のテーブルに一通の封筒が置かれていた。
手に取って裏返してみても、名前も住所もなく、切手すら貼られていない。
あるのは隅に押された妙な模様だけで、文字のようにも見えるが読めなかった。
「......誰から?」
「知らない。郵便局のおじさんが、文音宛てだって持ってきたの」
「これでなんで私宛てって分かるの?」
「お母さんに聞かれても」
もっともだった。
文音は封筒を自分の部屋へ持っていき、机に座って開けた。
中には便箋が一枚入っていたが、書かれていることは拍子抜けするほど普通だった。
雪が降ったこと、学校で先生の話を聞き逃したこと、最近読んだ本が面白かったこと。
名前も住所もなく、誰なのか分かるようなことは何も書かれていない。
最後まで読んで便箋を裏返してみたが、何もなかった。
「......誰?」
捨てることもできたが、なぜか捨てなかった。
机の端に置いたまま数日が過ぎ、その間に何度か読み返した。
内容そのものは大したことがない。
ただ、誰が何のために送ってきたのか分からないことだけが妙に気になった。
四日目の夜、文音は便箋を取り出した。
『手紙、届きました。』
自分のところも雪が多いこと、自分も本を読むのが好きなことを書き、最後に『面白かった本って、何?』と付け足した。
そこで初めて、送り先を知らないことに気づいた。
翌日の放課後、届いた手紙と自分の返事を持って東五十表郵便局へ向かった。
小さな郵便局で、子どものころからほとんど変わっていない。
窓口の向こうには、昔から知っているおじさんがいた。
「この手紙、おじさんが持ってきたんだよね?」
「ああ」
「返事書いたんだけど、名前も住所も分かんないから出せない」
文音は最初に届いた手紙を見せた。
「どこに送ればいいの?」
おじさんは元の手紙を見て、それから文音の返事を見た。
「この人のところに決まってるだろう?」
「それで届くの?」
「届くよ」
「住所知らないのに?」
「知らなくても大丈夫だ」
おじさんは返事を受け取り、机の端にあった古いスタンプを手に取った。
薄い木箱を開ける。
中のインクは、今日は青灰色に見えた。
「あ、それ。この手紙についてるやつ」
「ああ」
おじさんがスタンプを押すと、文音の封筒にも同じ模様が残った。
「はい、預かった」
「......ほんとに届く?」
「届くって」
半信半疑のまま帰ったが、数日後、本当に返事が届いた。
それから手紙のやり取りが始まった。
最初のうちは一通届くたびに驚いたが、何度か繰り返すうち、それも日常の一部になった。
毎日ではない。数日で返ってくることもあれば、少し間が空くこともある。
本の話、学校の話、家であったこと。
そんなものを互いに書いた。
何通か交わすうち、相手が自分と同じくらいの歳で、吹奏楽部に入っていることが分かった。
楽器はクラリネット。ただし、始めたのは最近らしい。
『なんでクラリネット始めたの?』
そう尋ねたときだけ、少し長い返事が来た。
母親と喧嘩をした日のことだった。
腹を立てたまま帰っている途中、どこかから妙な音が聞こえてきたらしい。
見ると、知らない人が黒くて細長い楽器を吹いていた。
『ブオッていうか、ギャッていうか。とにかく全然きれいじゃなかった。』
家へ帰ってからスマートフォンで「黒い 縦長 楽器」と調べ、クラリネットという名前を知った。
学校にも吹奏楽部があることを思い出し、翌日、見に行った。
『あんなに下手な人でも吹けるなら、私にもできると思った。』
ところが実際に持たせてもらうと、音すら出なかった。
何度やっても息ばかり抜け、ようやく出た音は、帰り道で聞いたものと同じくらいひどかった。
『それがめちゃくちゃ悔しかった。何回か練習見に行って、そのまま入った。最初に見た人が誰だったのかは知らないけど、あの人よりは絶対うまくなりたい。』
文音はそこまで読んで、少し笑った。
ずいぶん変な理由で部活に入る人もいるものだと思った。
文音自身も少し前、母親に「何か夢中になれるものないの?」と言われて腹を立てたことがあった。
翌日にはいつもの道を歩いて帰り、家に着くころにはほとんど忘れていた。
それだけだった。
手紙を重ねるうち、書けないことがあるのにも気づいた。
自分の名前を書き、相手の名前を尋ねた手紙を持っていった日だけ、おじさんはスタンプを押さなかった。
「これはだめだな」
「なんで?」
「書いちゃいけないことが書いてある」
「読んだの?」
「読んでないよ」
「じゃあなんで分かるの?」
「分かるんだよ」
名前に関する部分をなくすと、今度はいつものようにスタンプが押された。
理由を聞いても、おじさんはそれ以上教えてくれなかった。
そこで次の手紙に、『名前書けないみたいだから、何か呼び方決めない?』と書いた。
数日後に届いた返事には、本の話や学校の話に混じって、その質問への答えもあった。
『じゃあ、文ちゃんね? 文通の「文」。』
その下には続けて、『私のことも文ちゃんって呼んで。』と書かれていた。
それから二人の手紙は「文ちゃんへ」で始まるようになった。
本当の名前は知らないままだったが、それで困ることもなかった。
冬の間も文通は続いた。
向こうの文ちゃんは、クラリネットでうまく音が出れば喜び、失敗すれば愚痴を書いた。
文音は読んだ本や学校であったことを書く。
すべての手紙に特別なことが書かれているわけではなく、むしろほとんどはどうでもいい話だった。
そんなある日、届いた手紙の最後に一行あった。
『そっちはどんなところ?』文音は窓の外を見た。
庭には雪が積もり、その向こうには白くなった屋根が並んでいる。
もっと遠くには山が見えた。
文章で説明するより、見せた方が早い。写真を送ろう。
そう考えたところで、祖父のカメラを思い出した。
祖父が亡くなってから、押し入れにしまわれたままになっているフィルムカメラだった。
探してみると、古い黒いケースの中にちゃんと残っていた。
居間へ持っていくと、祖母がすぐに気づいた。
「それ、じいちゃんのだねぇ」
「まだ使えるかな」
「どうだろうねぇ」
ケースには説明書も残っていた。
文音はそれを読みながらフィルムを入れ、翌日からカメラを持って歩くようになった。
最初に撮ったのは、いつもの通学路から見える雪山だった。
次に田んぼを撮り、雪の上の足跡を撮った。
スマートフォンと違い、その場では撮れた写真を確認できない。
一本を撮り終えたところで、自分では現像できないことにも気づいた。
夕食のあと、文音は少し迷ってから母親へフィルムを差し出した。
「お母さん。これ、写真にしたいんだけど」
「フィルム? どうしたの、それ」
「じいちゃんのカメラ使った」
母親は少し驚いた。
「いつの間に?」
「ちょっと前から」
母親はフィルムを受け取って眺めた。
「隣町の店、まだ現像やってたと思う。今度行くとき出してくるよ」
「お願い」
戻ってきた写真は、想像していたよりずっとひどかった。
暗かったり、傾いていたり、山を撮ったはずなのに空ばかり写っていたりする。
「......下手」
一枚ずつ見ていくと、雪の上を足跡が続いている写真があった。
少し暗く、足跡も真ん中からずれている。
それでも文音は、その一枚だけ少し長く見た。
「......これ、好きかも」
文ちゃんに送るなら、これがいい。
翌日、手紙と一緒に郵便局へ持っていった。
ところが、おじさんは写真を見るなり首を振った。
「これは送れないな」
「なんで?」
「写真はだめだ」
「人なんて写ってないよ。雪と足跡だけ」
「それでもだめ」
結局、写真を抜けば手紙は送れた。
納得できなかった文音は、別のものならどうだろうと撮り始めた。
景色が駄目なら物を、外が駄目なら家の中を撮った。
それでも文ちゃんへ送れる写真は一枚も見つからなかった。
けれど、何本かフィルムを使うころには、送れる写真を探すことより、カメラを持って歩くことの方が楽しくなっていた。
朝の霜も、雪解け水に映る空も、夕方の電線も、前ならそのまま通り過ぎていたものが気になる。
シャッターを押す前に少し位置を変えたり、近づいたりするようにもなった。
フィルムを撮り終えるたび、母親に現像を頼んだ。
最初は「また?」と驚いていた母親も、そのうち何も言わず受け取るようになった。
ある日、庭でカメラを構えていると、祖母が声をかけた。
「最近よく使ってるねぇ」
「うん」
「じいちゃん喜ぶねぇ」
文音はカメラから目を離した。
「......そうかな」
「そりゃそうだよ」
祖母はそれだけ言って家へ戻った。
文音はもう一度、庭木にカメラを向けた。
枝先に残った雪を覗き、少しだけ横へ動く。
さっきより、こっちの方がいい気がした。シャッターを押した。
しばらくして、母親が押し入れを整理しているときに古いアルバムを出してきた。
文音も何となく一冊を開いてみる。
母親が高校生だったころの写真が並んでいた。
何枚かめくったところで、手が止まった。
「......あれ?」
写真の端に、見覚えのある男がいた。
東五十表郵便局のおじさんだった。
「これ、お母さん高校生のとき?」
「そうだよ」
「おじさん、今と同じ顔だった」
「そう?」
「全然変わってない」
母親は写真を覗き込んだが、特に驚かなかった。
「昔からあんな感じだった気がするけど」
翌日、文音は手紙を持って郵便局へ行った。
「昨日、お母さんの昔の写真見た」
「へえ」
「おじさん写ってた」
「そうか」
「今と同じ顔だった」
おじさんは手紙にスタンプを押しながら言った。
「おれ結構写真写りいいだろ?」
「そこじゃないんだけど......」
「はい、預かった」
結局、それ以上の答えはなかった。
郵便局を出ると、冬の初めには道の両脇を埋めていた雪がずいぶん低くなっていた。
文音の鞄には祖父のカメラが入っている。
文ちゃんへ送れる写真は、結局一枚も見つかっていない。
それでも、もうカメラを置いていこうとは思わなかった。
帰り道、雪解け水の溜まった場所で文音は足を止めた。
水面に、薄い空が映っている。
文音は鞄からカメラを取り出した。




