#020『適当という名の最適解』《Buffer Amber》
私が卒業した学校の古い校舎には、なんと表現したらいいのかわからない、匂いがありました。
古い建物の中の、古い匂い。図書室とか、講堂とか、物置にも、そんな匂いがありました。
もしかしたら、あれは「時間の匂い」だったのかもしれません。
その匂いが、私はいまも大好きです。
今回のお話とは、全然関係ないですけれど。
北校舎のある、とある学校が舞台です。
不器用な二人の物語を、愉しんでいただけると、幸いです。
『適当という名の最適解』
放課後の校舎は、喧騒と静寂が入り混じる。
開け放たれた窓から届く野球部の金属バットの音や、吹奏楽部の不揃いなチューニング音は、北校舎の二階の奥に進むにつれて遠ざかっていく。
薄暗い廊下の突き当たりにあるその部屋だけは、学校という生態系から切り離されたような独特の沈黙を保っていた。
「化学準備室」
色褪せた木札を睨みつけ、私、高校二年生の松下理奈は、苛立ちのままに引き戸を勢いよく開けた。
ガラ、ガラガラッ!
建付けの悪い軋み音が、私の怒りを代弁するように響き渡る。
「先生! また今日の委員会、無断欠席ですか!?」
踏み込んだ瞬間、微かに漏れ出すエタノールの薬品臭と大型水槽の湿った苔の匂い。そして、安っぽいインスタントコーヒーが焦げたような香りが鼻を突いた。
「ん……ああ、松下か。声が大きいぞ。メダカが驚いて産卵をやめちまう」
部屋の奥。化学天秤が並ぶべきスペースを不法占拠しているパイプベッドの上から、のっそりとした声が響く。
この人は、うちの高校で生物と化学を教え、環境委員会の顧問も務める佐伯先生だ。初夏だというのにしわくちゃの白衣を羽織り、寝癖をボリボリと掻きながら身を起こした。うっすらと生えた無精髭に、常に半分閉じているかのような眠そうな目。
どこからどう見ても「やる気なし」を絵に描いたような大人である。
「メダカより委員会の崩壊のほうが大問題です! 来月のエコフェスの展示企画、今日も収拾がつかなくて解散したんですよ!」
私は木製テーブルにバンッと両手を突いた。ざらりとした木目が手のひらに触れる。ちょっと痛い。
「前回出てたやつだろ」
「先生が顔を出さないから、一年生と三年生が完全に揉めちゃったんじゃないですか!」
私は言葉を切って、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「一年生は最新のVRで『バーチャル・ビオトープ』をやりたいって譲らないし、三年生は伝統の『巨大苔テラリウム』を作るべきだって怒り出すし……。間に挟まれた私、胃に穴が開きそうだったんですから!」
先生は大きな欠伸を一つすると、ベッドを降りて擦り減った健康サンダルをペタペタと鳴らした。
「揉めるのは元気な証拠だ。若いっていいねえ」
「他人事みたいに言わないでください!」
「胃が痛いのか? なら、これでも飲んどけ。カモミールだ。自律神経に効くぞ」
先生はコップ代わりにしている500ミリリットルのビーカーに電気ポットの湯を注ぎ、ティーバッグを無造作に投げ入れた。
渡されたビーカーからは、薄いガラス越しにじんわりとした熱が伝わってくる。
一口飲むと、青臭い香りと共に微かに埃っぽい味が舌に残った。決しておいしいとは言えないが、張り詰めていた神経が少しだけ解きほぐされていく気がした。
こんなもので騙されてたまるものか。
「……で? 先生はなにをしていたんですか」
「なにをって、寝てたよ」
さらりと、とんでもないことを先生は口にした。
「ふざけないでください。顧問なんですから、上からガツンと『これをやれ』って指示を出してくれれば、あんな無駄な言い争い、すぐに終わる話なのに」
「あのな、松下。俺は教師であって、猛獣使いじゃないんだ」
猛獣使いって……。私たちはライオンか?
「それに、上から押さえつけて出来上がった展示なんて、表面を取り繕っただけのハリボテだろ。見てて全然面白くないしな」
「面白いかどうかの話じゃありません。効率の話です。先生のやり方は、ただの『適当』じゃないですか」
痛烈な批判を浴びせても、先生は全く堪えた様子がない。ズルズルとコーヒーを啜り、「熱っつ」と小さく呟くだけだ。
「松下。おまえは、あの水槽を見たことがあるか?」
先生が顎でしゃくった先には、窓際に置かれた九十センチの大型ガラス水槽があった。ブクブクというフィルターの低音だけが響いている。中には色鮮やかな熱帯魚ではなく、地味な川魚やヤマトヌマエビ、無造作に伸びた水草が生い茂っていた。
「いま、見ました」
我ながら失礼な言葉遣いだが、知ったことではない。私は本気で怒っているのだ。
「あの水槽な、ここ一ヶ月、俺は餌をやってないし、水替えもしてないんだ」
「えっ、それって完全に虐待……」
「よく見てみろ」
不審に思いながら近づく。ガラス越しに見る水は、一ヶ月も放置されているとは思えないほど透き通っていた。
魚たちは水草についた微小な苔を啄み、エビは底の砂利の間に落ちた有機物を忙しなく拾って食べている。水草は窓からの光で適度に光合成を行い、絶妙なバランスで小さな生態系が完成していた。
「自然界っていうのはな、外から過剰に手を加えると、かえってバランスが崩れるんだ。人間が良かれと思って入れた薬品や過剰な餌が、一気に水質を悪化させる。一番の正解は、環境の土台だけ整えてやって、あとは『放置』すること。あいつら自身に、どうやって生きていくか、どうやって折り合いをつけるかを考えさせるんだよ」
先生の眠そうな目が、水槽の光を反射して一瞬だけ鋭く光ったような気がした。
「でも、それは魚の話です。人間は違います」
「同じ生物だよ。恒常性ってやつだ。集団にもそれは働く。ぶつかり合って、泥水みたいに濁る時期もあるだろうが、そのうち必ず沈殿物が底に落ちて、水は澄んでくる」
そう言うと、先生は「あー、コーヒーの粉が切れた」と唐突に言い出し、小銭入れだけを掴んで歩き出した。
「ちょっと、先生! 話はまだ……!」
「俺がいたら、おまえら俺に頼るだろ? それは俺にとって死ぬほど面倒くさいんだよ。だから、勝手にやってくれ。戸締まり頼むぞ」
無責任な言葉を残し、先生はペタペタと足音を立てて去ってしまった。あとに残されたのは、私と、ブクブクと音を立てる水槽、そしてカモミールティーだけだった。
「……信じられない。本当に適当なんだから」
内から沸き起こる怒りを鎮めるために、私は深いため息を吐いた。
まったく、なんであんなに適当な人が先生をしているんだ。おかげでこっちは胃に穴が開きそうだ。うら若き17歳が胃潰瘍で血を吐くなんてありえないでしょ!
あー、イライラする。
そのまま、どっかと事務椅子に腰を下ろす。古いスプリングが軋む。
静寂が戻った準備室で手持ち無沙汰になり、ふと先生の事務机に目をやった。
乱雑に積まれたプリントの山に埋もれるようにして、一冊の大学ノートが開かれたまま置かれている。
風が窓から吹き込み、ページがパラリと捲れた。ふと、見慣れた単語が飛び込んでくる。
『環境委員会 エコフェスティバル企画案に関する考察』
思わず身を乗り出した。そこにはミミズがのたくったような汚い字で、びっしりとメモが書き込まれている。
『一年生のVR案:技術的負荷高し。しかし表現力はピカイチ』
『三年生のテラリウム案:予算内に収まる現実的解。だが視覚的インパクトに欠ける』
ここまでは現状そのままだ。だが、その次のページを見た瞬間、私の心臓がドクンと跳ねた。二つの案を繋ぐように太い矢印が引かれ、こう書かれていたのだ。
『VR空間内でテラリウムの成長過程を投影し、現実の展示物とリンクさせるハイブリッド型展示。これが最適解か。ただし、俺から提案すると三年生のプライドを傷つける。松下あたりが気づいて、上手く誘導するのがベスト』
「…………」
私はノートを持ったまま絶句した。
ただ面倒くさいから逃げているだけだと思っていた。でも、違った。一年生のやりたいことも、三年生のこだわるポイントも、どう融合させるかという「答え」さえも、先生は最初から持っていたのだ。
あえて口出しをしなかった理由。そして、先ほど急に席を外した理由。
私はゆっくりと水槽に目を向けた。透き通った水の中で、小さな生き物たちが自分たちの力で生きている。
……なんだ。あの水槽と同じじゃないか。
私の胸の奥で、カモミールティーのぬるい温かさとは違う、じんわりとした熱いものが込み上げてきた。あの無精髭で眠そうな目で、先生はずっと私たちのことを観察していたのだ。
私はノートをそっと閉じ、小さく息を吐き出した。
ブクブクという水槽の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。
十分後。
廊下の向こうからサンダルの音が近づき、ガラガラと引き戸が開く。先生が缶コーヒーを片手に戻ってきた。雨上がりの土の匂いがふわりと流れ込む。
「おっ、まだいたのか松下。戸締まりしとけって言っただろ」
「……先生」
私はノートをそっと元の位置に戻し、立ち上がった。
「なんだ、まだ文句があるのか?」
文句なら、ある……。だけど……。
「いえ。……みんなをまとめる方法、なんとなく思いつきました」
先生は少しだけ目を見開き、プシュッと缶のプルタブを開けた。
「一年生のVRを使って、三年生のテラリウムの未来の姿を映像化するんです。過去を三年生が作り、現在を二年生が。そして未来を一年生が作る。それならそれぞれの意見を潰さずに、一つの大きな展示にできます」
真っ直ぐに見て伝えると、先生はコーヒーを一口飲み、「ふぅん」と気の無い返事をした。
「悪くないんじゃないか? ま、おまえがそう決めたなら勝手にやれよ。俺は予算申請の書類に判子を押すくらいしかしないからな」
まったく、この人は……。
「先生って、本当に性格悪いですよね」
私の刺のある言葉に、彼は「心外だな」と肩をすくめた。
「手を出さないくせに、一番おいしいところを持っていく『最適解』を最初から用意してるんですから。先生のその『適当』は、ただの『適当という名の最適解』じゃないですか」
図星を突かれたのか、彼は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「……なんでもかんでもお膳立てしてやるのは、俺にとっては面倒くさいんだよ。手のかかるガキ共が、勝手に育っていくのを見るほうがよっぽど楽だからな」
面倒くさいと先生はまた言った。
でも、口を出さずに見守ることの方が、よっぽど忍耐が要るはずだ。「面倒くさい」なんていう言葉を、私たちへの不器用な愛情の隠れ蓑にしているのだから。
大人って本当に面倒くさい。いや、メンドくさいのはこの人か。
仕方ないな。
「わかりました。あとは私に任せてください」
「最初から任せている」
もう、この人ときたら……。
「……でも、書類の判子くらいはちゃんと仕事してくださいね。副会長さんはそういうの厳しいですから」
「あの生徒会長がいれば、大丈夫だろ」
「そうですね。——では、書類は明日持ってきます」
私が準備室を出ようとした時、古びたインターホンが鳴った。受話器を持つのも面倒なのか、先生はスピーカーにする。
『佐伯先生、進路指導の書類、今日の午前中が締め切りですが、まだ提出されていませんよね!』
ヒステリックな教頭先生の声が響く。彼は「げっ」と露骨に嫌な顔をした。
「今日は一日実験の準備が忙しく……」
得意の言い訳をしてそそくさと通信を切った。
「……教頭先生の自主性には任せないんですか?」
小声でからかうと、恨めしそうな目で睨まれた。
「教頭という生物には、ホメオスタシスが働かないんだよ。あーあ、面倒くさい」
ため息をつく白衣の背中を見て、私はクスッと笑い、廊下へと出た。
閉まりかけた引き戸の隙間から、いつもの水槽のブクブクという音が微かに漏れ聞こえる。
私は小さく深呼吸をした。胸の中にあったモヤモヤはすっかり消え去っている。
初夏の夕暮れの空気が、いまはとても清々しく感じられた。
汚泥で汚れ切っていた私たち環境委員会も、あの透明な水槽のように、きっと上手くいく。
上手くいくはずだ。だって……。
私は青いスカートを翻した。足取りも軽く、みんなが待つ教室へと歩き出す。
いっちょう、がんばるか。先生のためにも。




