第9球 一人って、結構こわい
大会、前日。
最後の調整ってことで、いつもより念入りに練習した。で、自分でもちょっと驚いてる。
俺……結構、仕上がってきたんじゃないか?
トップスピン。最初はぼてぼて落ちてただけだったのが、今はちゃんと、ネットを越えて、山なりで相手コートに入る。回転もそれなりだけどにかかってる。まだフラットほどの自信はないけどつなぐ分には、十分使えそうだ。
スライスも、だいぶマシになった。切りすぎてアウトしてた癖が、少しずつ抜けてきた。低く滑らせる感覚がなんとなく分かってきた気がする。手加減がうまくなったのかも。気がするだけかもしれないけど。
ファーストサーブは悪くない。むしろ、今のところ俺の武器のひとつだ。打ち下ろすだけ、っていうシンプルさが、俺のスタイルに合ってる。入れば速い。問題は確率だけど、まあぼちぼち上がってきてる。
で、セカンドサーブ。……これは、相変わらず要改善。
アンダーサーブで、とりあえず入れる。それしかできない。ちゃんとしたセカンドは、まだ全然。
でもまあ、これは長い目で見よう。一週間や二週間でどうにかなるもんじゃない。
今は、できることをやるのが優先だ。そしてやれることはやった。あとは本番だ。
*
練習を終えて、ラケットをしまってたら。
「千両く〜ん」
なっちゃん部長が、こっちに歩いてきた。後ろに、かぐら先輩と、むぎ先輩もいる。
「明日、いよいよ初陣でしょ?」
「あ、はい。藤ヶ谷オープンジュニアっていう、グレード4のやつです」
言うと、なっちゃん部長は、にっと笑って、俺の背中をバシッと叩いた。痛い。相変わらず力が強い。
「いいねぇ。初めての試合は、緊張するけど、楽しいよ。思いっきりやってきな」
「うっす」
「千両くーん、ガツンといってきなよー」
かぐら先輩が、ラケットを振る真似をしながら言った。ハードヒッターの先輩らしい、豪快な激励だ。
「相手が誰でも、ビビらず、ドカーンって。フラット得意でしょ? それで押してきなー」
「は、はい!」
「あ、あの」
むぎ先輩が、おずおずと、小さい声で言った。
「お、応援、してるから。け、怪我、しないようにね」
「ありがとうございます、むぎ先輩!」
むぎ先輩は、ちょっと顔を赤くして、こくこく頷いた。声は小さいけど、優しい先輩だ。
……なんか。じーんと、来た。
俺、入部してまだ三週間とかなのに。みんなこんなに、気にかけてくれて。野球部のときも、先輩はいい人多かったけど。なんか、ここの人たち、距離が近いっていうか、あったかいんだよな。
*
「千両」
最後に声をかけてきたのは、稲葉コーチだった。
妙な圧はあるんだけどいつもの落ち着いた声。
「明日、結果は気にするな」
え。
「初めての試合だ。勝っても負けても、それは経験になる。大事なのは、お前が今までやってきたことをコートで出せるかどうかだ。勝ち負けはその結果でしかない」
「……はい」
「お前のテニスを、やってこい」
お前の、テニス。
なんか、その言い方が、ぐっと来た。俺の、テニス。両手フォアの、俺のテニス。
「あと、一つだけ」
コーチが、少しだけ、声のトーンを落とした。
「無理はするな。勝ちたい気持ちが先に立って、身体を痛めるような打ち方をするのが、一番よくない。お前の身体は、お前だけのもんじゃない。長く、テニスを続けるためにも、無茶はするな。いいな」
……はい。
コーチ、いつもこれ言うな。怪我のこと。
なんでそんなに気にするんだろ、ってちょっと思うけど。でも本気で言ってくれてるのは分かる。だからちゃんと頷いた。
「分かりました。無理は、しません」
コーチは、満足そうに頷いて、ふっと笑った。
「よし。じゃあ、今日は早く帰って、ちゃんと寝ろ。寝不足が一番の敵だぞ」
「うっす!」
*
家に帰って、晩ご飯のとき。
「母ちゃん、俺さ、明日、テニスの大会なんだ」
俺がそう言うと、母さんは、味噌汁をよそる手を止めて、顔を上げた。
「あら、もう大会に出るの? 始めたばっかりじゃない」
「うん。まあ、一番下のクラスの、初心者でも出られるやつだけど。それでも、ちゃんとした試合」
「へえ……」
母さんは、ちょっと、目を細めた。なんか、嬉しそうな、変な顔。
「じゃあ、明日、お弁当作らなきゃね」
「えっ、いいの?」
「当たり前でしょ。大事な初試合なんだから。何がいい? 唐揚げ?」
「唐揚げ! 入れて入れて!」
「はいはい」
母さんは、笑って、また味噌汁をよそい始めた。
……サンキュー、母さん。
なんか、口には出せなかったけど。心の中で、そう思った。
*
その夜。布団に入って目を閉じても、なかなか寝付けなかった。明日のことを考えると、わくわくと、ちょっとの不安が、ぐるぐるする。
みんなが応援してくれてる。なっちゃん部長も、かぐら先輩も、むぎ先輩も。稲葉コーチも。母さんも、唐揚げ作ってくれる。
俺、一人じゃない。
……そう思ったら、少し安心した。
明日は初めての試合だ。練習してきたこと全部出してやる――。
*
そして大会当日。
「ほー。これが、藤ヶ谷オープンジュニアか」
会場に着いて、俺は思わず声に出していた。
藤ヶ谷市の市営のテニスコート。同じ市内に住んでるのに俺ここ来るの初めてだわ。家からチャリで二十分くらいの場所にこんなでかいテニス施設があったとは――。
コートがいくつも並んでる。屋外コートに、屋根付きのコートも。でその全部に選手がいる。
……ってか。めっちゃ人いるな。
テニスやってる人、こんなにいるのかよ! 受付の前には列ができてるし、コートの周りにはアップしてる選手がうじゃうじゃいる。みんな、ジャージとか、テニスウェアとか着て、ラケット持って。
んでもってなんていうか――みんな、上手そう。
素振りしてる子も、軽くボール打ってる子も、その辺を走ってる子も。なんか動きがこなれてる。「テニスやってます」って空気が全身から出てる感じ。当たり前か。みんなわざわざ大会に出るくらいなんだから。
……あれ。俺、場違いじゃね?
ついこの前ラケット握ったばっかの初心者が、こんなとこに混ざっていいのか?
そう思ったらなんか急に……緊張してきた。
手のひらに、じわっと汗を感じる。やばい、心臓の音がうるさい。キョロキョロしちゃう。落ち着かない。誰か知ってる顔いないかな、って探しちゃう。でもいるわけない。だって俺、一人で来たんだから。
うわ。なんだこれ。練習のときは、あんなにワクワクしてたのに。いざ会場来たら、急に、こんな。
*
「千両君」
声がした。
ぱっと振り向いたら――藤崎が、いた。
いつもの落ち着いた顔で。バッグを肩にかけてこっちに歩いてくる。
「……っ、藤崎!」
俺、たぶん、めちゃくちゃ嬉しそうな声出した。自分でも分かるくらいテンション上がってる。
「来てくれたのか! ありがとう、マジで!」
「……そんな大きな声出さないの。目立つでしょ」
まわりが少し見てる。
藤崎はちょっと呆れたみたいに言った。でも来てくれたのがすごく嬉しい。
「いいのよ、別に。あなたのサポートは私の仕事だし。それに相手の選手の偵察もしておきたいから。今後のために」
仕事。偵察。……いや。
でも、そんなこと言って、わざわざ休みの日に、こんなとこまで来てくれてさ。
藤崎、やっぱめっちゃいい人だよな。口ではあれこれ言うけど。
「……なあ、藤崎」
「何」
「俺さ。なんか、心細くて」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。でも、出ちゃった。
「会場来たら、急に、不安になってさ。なんか、こう……」
うまく言えない。
「野球やってたときはさ。試合でも、隣にチームのみんながいたんだよ。ベンチに仲間がいて。守ってるときも、九人、一緒にいて。だから緊張しても一人じゃなかった」
でも。
「テニスって一人なんだな。コートに立つのは――俺だけ。さっき気づいた。なんか思ったより、こわいわ。これ」
言い切って、ちょっとうつむいた。
情けないかな。優勝目指すとか言っといて。会場来ただけでビビってる。
藤崎は、しばらく黙ってた。
それから、ちょっと意外そうに言った。
「……千両君も、そんなこと言うのね」
ん?
「もっとこう、『こんなのへっちゃらだぜ!』みたいな。何も考えてなさそうに、突っ込んでいくタイプだと思ってた」
「いや、俺だって、ビビるときはビビるって」
「ふうん」
藤崎は、少しだけ、表情を緩めた。
「でも、まあ。そういうの、悪くないと思う」
え?
「試合前の緊張や不安を感じるのは、本気だからよ。人ってどうでもいいことには緊張しない、不安にならない。あなたが今、そう感じているのは、ちゃんと本気で勝ちたいって思ってる証拠」
……お。
「だから、その不安は、抱えたままでいい。無理に消そうとしなくていいの。それより」
藤崎は、受付のほうを指さした。
「とりあえず、受付を済ませなさい。それから軽くジョギングでもして、身体を温める。試合前のアップは大事よ。身体が動けば、不安も少しは抜ける」
「……うっし」
なんだろう。
藤崎の顔、見てたら。あの、落ち着いた、いつも通りの顔を見てたら。
なんか、安心してきた。
まだ心臓はうるさい。でもさっきの地に足がつかない感じは薄くなった。一人じゃない。少なくとも、藤崎が見てくれてる。
「よし、いってくる」
俺は、受付に向かって、歩き出した。
*
「あのっ。選手の、千両利士です」
受付のテーブルにいた、係のおじさんに名乗った。
「はい、千両君ね。ええと……」
おじさんが、名簿をめくった。
「あった。こちら、ドロー表です」
ドロー表。あ、これが、組み合わせ表ってやつか。藤崎が言ってたな。
「千両君は……ここね。第四コート、第一試合。相手は、田中一君」
田中一。知らない名前だ。当たり前か。
「試合開始は、九時半から。アナウンスがありますから、遅れないように来てくださいね」
「はいっ! ありがとうございます!」
俺は、頭を下げて、受付を離れた。
*
コートの脇に張り出してある、でっかいドロー表の前で足を止めた。
……うわ。なんだこれ。
名前が、いっぱい並んでる。横線と縦線でつながってるトーナメント表、ってやつだ。野球の大会でもよく見るやつ。でもその時は学校の名前だけしかなくて、今のように俺の名前なんてなかった。
「千両利士」が、一番下のほうにあった。で、その隣が「田中一」。これが一回戦の相手。
で――勝ったら、その上の人と。また勝ったらさらに上の人と。
優勝するには一、二、三……うわ。何回勝たなきゃいけないんだ。一回や二回じゃ、全然足りない。トーナメントの頂点まで、ずーっと何回も勝ち続けないと。
しかも、この名前のひとつひとつが、さっき見た、あの「上手そうな」選手たちなわけだろ。
……優勝って、めちゃくちゃ、遠いな。
藤崎が「そう簡単にはいかない」って言ってた意味が、このドロー表を見て、ようやく、肌で分かった気がする。
それに遠いのは当たり前だ。だって、今日始まったばっかなんだから。今日のこの一回戦が、その第一歩だ。
ずっと先の優勝を見て足がすくむより、まず目の前の一勝。田中一。こいつに、勝つ。
それだけ、考えればいい。
会場に着いたときの、あの足がすくむような緊張はもうなくなってた。
よし。
俺は、ぐっと、ラケットを握り直した。
さあ、ここからだ。
練習してきた成果、ぜんぶ、出すぞ。
【作者あとがき】
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