朝倉の事件③
優衣は大変なショックを受けた。
同時に、家に帰るのが恐くなった。
あんな男が隣に住んでいる家に帰るなんて…。
あの男にだけは、もう二度と会いたくない。
恐い…。でも、それだけじゃない。悔しい!
婦人科の五月先生から事実を聞かされた時は、大変なショックを受けたが、その後無性に悔しさがこみ上げてきた。
「あの男、許せない! 訴えてやる!」優衣は泣き叫んだ。
しかし、五月先生と話しているうちに、次第に冷静になった。
五月先生は言った。
「もし訴えても、いろいろ難しいでしょうね…。まず、あなたがその男を家に上げた事が、不利な証拠になってしまうわ。それであなたが、男を誘惑したという話に相手の弁護士にすり替えられたら、かえってあなたの今後の人生に差し障る事になってしまう…」
「そんな!」優衣は泣きそうになった。
「優衣さん。今、あなたがその男を訴えるのは、良い判断とは思えないわ。警察も今の段階では、もし仮に逮捕してくれても不起訴になるかもしれないわね。でもね、きっとその男には天罰が下るわ。だから、もう少しだけ、我慢して待っていましょう。その間、あなたの思いは、何でも私や美咲に話せばいい。いつでも聞くし、助けるから。一緒に頑張って乗り越えましょう」
五月先生は言ってくれた。
…だから悔しいけど、今は黙って我慢しよう。
そして、辛くて耐えられなくなったら、五月先生や美咲先生が話を聞いて励まし、力になってくれる。
きっと、五月先生の言うとおり、朝倉には天罰が下り、酷い目に遭うわ。それを信じよう。
…でも、この真実をお母さんには言えない。
お母さんは、毎日私のために一生懸命に頑張って働いてくれている。
そんなお母さんを悲しませたくない。
…強くなろう。もう二度と、こんな目に遭わずにすむように、心も体も鍛えなきゃ。
優衣は、美咲先生の道場に通いだした。
朝倉は、あの日の事が忘れられなかった。
優衣のドリンクに睡眠薬を入れ、眠らせた上で犯行に及んだわけだが、こんなに簡単に行くとは思わなかった。簡単すぎて拍子抜けしたくらいだ。
優衣はその後も何も気付いていないようだ。もっとも、最近は用心の為に、こっちからも近づかないようにしているのだが。
…そのうち、ストレスボールの使い心地を聞くという名目で、また自宅にお邪魔するか…
朝倉は、その日が待ちきれないように感じた。だが、油断は禁物だ。しばらくは我慢しよう。
ある夜の事、朝倉は不思議な体験をした。
優衣の住むアパートの隣室に戻ろうとして、アパートの外階段の前まで来た瞬間、何者かに背後からスタンガンで襲われ、手錠、目隠し、猿ぐつわ状態で車に押し込まれ、麻酔薬を打たれて連れ去られたのだ。
そして気付くと、白いタイル張りの部屋で椅子に縛り付けられていた。
そして、目の前にある紙の文字を読まされた。
「お前の反抗は2番のストーカー行為、及びレイプだ。当然ながら、去勢の刑に値する。さあ、どうするかね」
「賠償金を払って自首します。だから、どうか助けて下さい!」
「よしわかった。だが、約束を破ったら即、実刑だから覚悟しておけよ」
すぐ背後から黒い布で目隠しをされ、麻酔薬を注射された。
朝倉はすぐにまた眠りに落ちた。
目覚めると近所の公園のベンチに寝ていた。
…夢だったのだろうか…。
だが、ズボンの前の右ポケットに賠償金の金額と現金受け渡し方法が記されたメモが入っていた…
当然、朝倉は自首などしなかった。
まさか自分が痴漢やストーカー、レイプまでしていたなどと世間に知られては、職も社会的地位もすべて失う事になる。
母は悲しむだろう。そもそも、母には決して知られてはならない。そんな事を母は受け止められないだろう。
賠償金? いやいや、有り得ないだろう。
朝倉はアパートを引き払った。
自首はしなかったが、とにかく危険を感じて山下優衣からは遠ざかった。
朝倉は推測した。
あの時自分を連れ去って脅した相手が、一体どうやって犯行を知ったのか。
優衣が実は気付いていて、あいつらに話した可能性だってある。
もうこのアパートにはいられない…
しかし、あくまで山下優衣から遠ざかっただけであった。
ほんの一週間もすると、悪い虫が疼きだした。
そしてまた、別のターゲットへの痴漢行為が始まった。
用心の為、今度は優衣の帰宅コースとは大分離れた真逆の方角を狙って犯行を行った。
二週間ほど、何人かの好みの(おとなしそうな)女子高生に狙いを定め、待ち伏せして背後から抱き着き、胸の辺りを撫でまわした。
少女が叫ぶ瞬間、大急ぎで手を引っ込めUターンして横道に逃げ隠れた。
しかし、優衣ほどの好みのルックスの少女にはなかなかお目にかからなかったので、犯行はこの程度でとどめられた。
ところが、ついに優衣に匹敵する好みの少女に出会ってしまった。
次に見つけたのは、得意先の会社の近所にあるパティシエ専門学校の女生徒の山田千歳だった。
朝倉はとりあえず、ストーカーの前段階として、背後から抱き着く行為を実行しようと考えていた。
その時の感触で、本当にストーカーしたいほどの相手かどうかがわかるのだ。
千歳は学校やバイト帰りに、家での勉強の為に、お菓子作りの為の食材やフルーツを買いこみ、急いで帰路につく毎日であった。
バイト先は学校と目と鼻の先にあるベーカリーカフェで、ケーキも売っている店だった。
千歳を狙うのは、学校や店のある地点から駅までの道中に限った。
何故なら、自宅最寄り駅の付近で食材を買い込むので、その後は両腕に荷物を多く抱えている事があり、犯行が難しくなるからである。
学校帰りには例によって、友人達と賑やかにお喋りしながら歩いているので近づけないが、千歳は真面目なので、自宅でお菓子作りの練習を欠かさない為、友人に誘われてもめったに寄り道をしなかった。その為、カフェなどの前で友人と別れて以降、一人で夜道を歩くことが多いのである。
今日はまさしく学校がある日だった。
学校からカフェのある賑やかな通りを過ぎ、駅に行くには近道がある。小さな公園を横切るのである。ここで、朝倉は木陰に隠れて待ち伏せした。
千歳が急ぎ足でやって来るのが見えた。
隠れている木陰の横を通り過ぎて駅方面の左に曲ったら、犯行に及ぼう。
振り向かれても背を向けて走って戻り右に曲がれば、灌木が茂っており、その向うには木立があるから、そこに潜り込めば見つからないだろう。
千歳は朝倉の隠れている木の横を通りすぎた。五メートル程の距離が出来た。
よし、今だ!
不意に朝倉はスタンガンで襲われ、目隠しをされて車に乗せられ、麻酔薬を打たれて連れ去られた…。
三日後の夜十時頃、人気の無いビルの屋上に朝倉の姿があった。
ここは、朝倉が勤める健康器具販売会社の入っている雑居ビルの屋上である。
朝倉は途方に暮れていた。
ここから飛び降りれば、全ては終わる。
もう生きていても仕方がない。
恋愛も、将来の幸せも、夢も希望もない。
結婚も、母に孫の顔を見せてあげることも叶わなくなった。
でも、その理由を母には決して言えない。
被害届を出す事もできない。
そんな事をすれば、全てがバレる。
働く意欲も無くなった。
だけど…。
これまでに一度も飛び降りたことなどないし、当然ながら死んだこともない。
それがどれほどの苦痛なのか、わからない。
恐い事だけは確かだ。
母は悲しむだろう。
本当に申し訳ない。
でも、このまま生き続けていても、去勢の事実は隠しきれない。
そして、その原因となった痴漢、ストーカー、レイプがバレる。
母を悲しませ、絶望させることだろう。
会社をはじめとする社会生活の全てで、恥ずかしい思いを、一生する事になる。
そんな地獄のような日々を送る事を考えただけで、堪えられない。
でも、いざとなると死ぬのは恐い。
朝倉は五階建てビルの屋上から地面を見下ろした。
足がすくむ。
恐い。
お母さん…、ママ、助けて!