調査開始
朝倉義和という人物が、自身が勤務する、健康器具販売会社の入っている雑居ビルの屋上から落下し、死亡したというニュースが、町中に広がった。
「最近、この町で自殺が続くわね」多嘉恵さんがため息をついた。
「この人、自殺なの?」芳田が新聞から目を上げた。
「そうらしいわよ。だって屋上の現場に靴が揃えてあって、『お父さん、お母さん、ごめんなさい』って書かれたメモも見つかったっていうから…」
「何で、この人自殺したの?」圭助がマグネシウムウォーターに氷を混ぜながら聞いた。
「わからないのよ。でもね、関係あるかどうかわからないけど、この人、去勢手術を受けていたのよ」
「え? ゲイだったってこと?」
「いいえ、お母さんの話では、絶対にそんな事はないってよ」
「多嘉恵さん、お母さんを知ってるのかね」神原がちょっと多嘉恵さんを見た。
「いえ、知らないんだけどね。佐田さんの友人が知り合いらしくって、それで聞いたのよ」
また聞きのまた聞きってわけだ。
「お母さんはどうしても納得出来ないらしくて、警察に他殺の疑いで調査してほしいって言いに行ったんだって」
「ほう、それで?」
「でも、明らかに自殺だし、犯罪に繋がる証拠も見当たらないからって、受けてもらえなかったらしいのよ」
「そりゃそうだろう。明らかに自分で飛び降りたんだから」芳田が新聞を折り畳んだ。
「かりに自殺だとしても、自殺せざるを得なく仕向けられるってこともあるだろう」
神原は流石に探偵だけあって、ひねった事を言いだした。
「そんな事言ったら、どの自殺者もそうだよ。皆、何かしら辛い事があって死を選んだんだからね」
「しかし、限りなく殺人に近い自殺って線も確かにあるんだよ」
「まあ、確かに似たような題材を扱った事はあるが…。未だ私にはどうもよくわからんがね…。殺人教唆ならぬ自殺教唆みたいなもんかね」
「他人にそそのかされて自殺するなんて、一体どんな状況なんだろ。僕みたいな凡人には想像もつかないな」
圭助が椅子の背にもたれかかって、天井を仰いだ。
「多嘉恵さん、そのお母さんはどうしているかね」
「茫然自失って感じよ。何も手につかず、部屋にこもったきりだって」
「気の毒にな…」
一週間ほど経ったある日の夕飯時、多嘉恵さんは再び朝倉の件を話題にした。
「あれからまた佐田さんに聞いたんだけどね。自殺した朝倉って人のお母さんが、『息子は殺されたんだ。絶対に犯人を見つけて死刑にしてやる!』って息巻いてるらしいわよ」
「ほう。まあ、お母さんにしてみれば、大切な息子が去勢を苦に自殺なんて、納得いかないだろうからなあ」
芳田が勝手に死因を決めつけて、ハンバーグの塊を口に放り込んだ。
「考えてみれば、気の毒よね。なんの落ち度もない健康な男性が、理不尽な目にあって苦悩の末、死を選んだなんてね」
多嘉恵さんが味噌汁をすすり、その味に満足そうに頷いた。
「本当に、何の落ち度もない男だったのかね? 理不尽なのかね?」
神原が多嘉恵さんの言葉に突っ込みを入れた。
「神原、何が言いたいんだい」芳田が聞いた。
「いや、ただの俺の憶測にすぎないんだが。仮にだよ、仮にその男に秘密があって、罪を犯していたとする。その罰として去勢されたのだとしたら、全体の辻褄が合うと思うんだよ」
「辻褄、合うかなあ…」
「だって、秘密はバラしたくないから、被害届は出せない。去勢されたことは、誰にも知られたくない。恥辱と絶望にまみれて苦しみ、死を選ぶ。これしか道はないじゃないか」
「まあ、全てを捨てて、山にこもって仙人のように余生を送る…って手もあるけどね」芳田がハンバーグの塊を飲み込みながら言った。
神奈川県警刑事部捜査第一課の刑事である、山本正二郎はずっと気になっていた。捜査は打ち切られ、自殺で処理された案件だったが、どう考えても変なのだ。
時田と朝倉、全く接点のない二人の男性が、相次いで自殺した。
しかし二人には去勢という共通点があった。
どう考えても、この二人の死には関連性がある。
二人とも、去勢によって人生に絶望したに違いないのだ。
「山本さん、もう捜査は打ち切られたんですから。他にも事件は毎日起こっているんです。いつまでもこだわりすぎですよ」若い吉田刑事は言った。
「だけど、絶対に何かあるよ。なんで去勢手術を行った病院が、特定できなかったんだ。なんで、二人は去勢なんて事になったんだ」
「確かに、変ですよね」
山本は毎日曜日の午前中、ボランティアで、区民会館の道場で地域の子供達に柔道を教えている。
今日は、柔道大会の日で、パシフィコ横浜にて複数の道場の子供達が集まり、技を競い合うのだ。
「山本さん、ご無沙汰してます」
山本は試合会場の入り口で声をかけられた。
「やあ、美咲先生。こちらこそご無沙汰してました。どうですか、最近は」
「ええ、お蔭さまで何とかやってます。最近、痴漢にあってから入会する女子が増えましてね。本当に許せませんわ。痴漢ほど卑劣な行為はありません。とにかく彼女達にはみっちり技を仕込んで、痴漢なんてコテンパンにやっつけられるくらい、強くなってもらわないとね」
「ハハ、相変わらずですね」
中村美咲は、山本の柔道仲間である。お互い、正義感が強いという点で似ている為、気が合うのだった。
「山本」背後から、また声をかけられた。神原だった。
「なんだ。お前か」
「なんだ、はないだろう。せっかく会いに来てやったのに」
「お前がただ俺に会いに来る、なんてはずないだろ。なんかまた、事件の調査かい」
「男が二人、去勢されて死んだんだが、何か知ってるか」
「いや、知らん。捜査もすでに打ち切られてる。自殺案件だからな」
「そんな事言って、どうせお前も気になって調べてるんだろ? お互い協力し合おうぜ。時田はフリーター、朝倉は健康器具の販売員だったそうじゃないか。家には行ってみたのか?」
「時田はお前の家の近所だから、知ってるだろ? …そう言えば、ちょっと変なんだが、朝倉は実家で両親と一緒に住んでるはずなのに、一ケ月だけ安アパートを借りてるんだ」
「なに? それは何処だ」神原は食いついた。
「広本町だ。朝倉の会社も実家も、広本町とはどちらも方角が全く違う。なんの目的があったのかわからん」
「相変わらず、捜査が杜撰だな」
「自殺だからさ。殺人だったら、こんな事はないさ」
ピンポンが鳴った。
山下優衣がドアチェーンを掛けたまま細く開けると、三十代半ばくらいの痩せた男が立っていた。
「こんばんは。私は神原という探偵です。お隣に住んでいた朝倉さんについて、少しお話しを伺えますか」
探偵…? 優衣は警戒した。
「あの…。何の話でしょうか。お隣さんについては、挨拶程度の知り合いだったんで、よく知らないんですけど…」
「そうですか。もし、何かお気付きの事があれば、ぜひ連絡下さい。名刺をお渡ししておきますので、よろしくお願いします。では…」
神原は、優衣の細く開けているドアごしに部屋の中を一瞬チラッと見た後、去って行った。
結衣の頭越しに、薄暗がりの部屋の横の壁に柔道着が吊ってあるのを確認した神原は、アパートからの帰路、山本刑事に電話した。
「山本、ちょっと聞きたいことがあるんだが…」
「探偵に教えられる情報は限られてるぜ」山本が応えた。
「この間、パシフィコ横浜で俺が声をかける前に話していた女性について教えてもらえないか」
「多嘉恵さん、お願いがあるんだが…」
「あら、なあに、神原さん」
「多嘉恵さんは魅力的だから、痴漢に会う心配があるだろ? だから…」
「もう! 馬鹿な事言わないで。おばさんをからかわないでよ! 変な事言うと、晩ご飯抜きだからね」
「ごめん、ごめん。前言撤回。とにかく、一ケ月だけでいいから、柔道を習ってくれないか」
「え~っ! なにそれ」
「多嘉恵さんにしかできない大切な任務なんだよ。もちろん授業料はこっちで払う。やってくれたら、回転しないお寿司ご馳走するよ」
「もう、仕方ないわね。いいわ。どうすればいいのか教えて」
それから一週間が経った。
神原がキッチンに入ってきて、料理をしている多嘉恵さんの側の壁に寄り掛かった。
「多嘉恵さん、柔道は上達した?」
「たった一回習っただけで上手くなったら、世話ないわよ。それにしても、美咲先生が中村さんの妹で、同じ医院のカウンセラーだなんて、全然知らなかったわ」
「ほう、そうなんだ」
「美咲先生はね、すごく生徒思いの良い先生でね、みんなすごく慕ってるのよ。中高生が多くてね、稽古の後は一時間くらい、悩み相談にのってらっしゃるのよ」
「どんな悩み相談なの」
「まあ、恋の悩みも多いけど、痴漢とか、ストーカーとかそういうのも結構あるかも」
「ひょっとして、山下優衣って子、いる?」
「あら、神原さん。なんで知ってるの?」
「山下優衣さんは、悩み相談してた?」
「私が入る前に、してたって聞いたわ。なんでも、痴漢とかストーカーとかで悩んでたって」
「ありがとう」神原は満足そうに礼を言って、フライパンの中で湯気を立てている、グリーン野菜の中華炒めの中からオクラを一個つまみ食いした。




