白隠禅師
「ほう……そうなのか……たしか、古代中国の練丹術が日本にわたってきて、練丹法になったのであったな」
「はい、それならば、お教えできます……盤渓寺は禅寺臨済宗の本場・鎌倉五山の霊力のたかい僧侶を選抜して鍛え上げた退魔僧の修行場。
白隠禅師というお方が練丹法を臨済宗に広めたのです」
「白隠禅師……それはたしか、寺田殿がいっていた禅の師匠・東嶺円慈和尚の師匠の名であったな……そういえば、下手くそな達磨画を描く絵師でも同じ名の者がいたなあ……」
「いえ、同じ人です……白隠禅師は正式に絵をならった画僧ではなく、仏道を教えるための手段として描いていたからでしょう……」
白隠慧鶴禅師はこの時――天明元(1781)年五月中旬より十三年前に亡くなった禅僧だ。
だが、今も臨済宗十四派は彼を中興の祖としており、座禅のおりには白隠著の『座禅和讃』を読むならわしがある。
駿河国原宿(今の静岡県沼津市原)の長沢家で生まれた白隠は、八、九歳のころ、母親に連れられていった寺で、僧侶の説法を聞き、地獄の恐ろしさを聞いて衝撃を受ける。
それ以来、トラウマとなり、薪で炊く当時のお風呂・五右衛門風呂に入ると、湯煙が逆巻き、湧き上がる泡ぶくが地獄の茹で釜に見えてしまい、泣け叫んだという。
この地獄のトラウマを克服するために、沼津の松蔭寺に十五歳で仏道に入門。
その後、禅匠をめぐり諸国行脚の修行をおこなった。
白隠禅師は戦国時代から江戸初期まで生きていた僧侶であり、平均寿命が五十歳といわれた時代において、七十歳を超えても視力が衰えず、歯が一本も欠けず、さらに若者と山谷を歩き回っても平気な人だったという。
そんな健康な肉体を維持した白隠禅師であるが、意外にも若い頃は正反対であったという。
二十代半ばの頃に修行のしすぎで禅病にかかり、神経衰弱と肺結核におかされた病弱な体となった。
この頃の京都白河に、白幽仙人という道士がいたと知り、そこで『内観の秘法』と『軟酥の法』という養生法を教わった。
それを熱心に修法し、三年後には薬や鍼灸をつかわずに病気から回復したといわれている。
そして彼は白幽仙人から一字もらって、白隠と名乗るようになった。
ちなみに白隠禅師が『夜船閑話』を著し、その中で『内観法』と『軟酥の法』を記している。
「ふ~~む……その『内観法』と『軟酥の法』というのが練丹法か……しかし、白隠禅師はそのおかげで健康になり、歳をとっても、若々しく健康な体をもっていたのだな……すごいものだ」
「おそらくは……清国の気功法が白幽仙人という道士から白隠禅師に伝わり、臨済宗に広まり、練丹法となり、盤渓寺で妖怪悪霊退治の法術として発展したのだと思われます……」
「思われる、とは他人行儀だな……天摩流も白隠禅師から受け継いだのではないのか?」
「いえ、別の経路で……しかし、白隠禅師とはしょうしょう関わりがあります……しかし、これ以上は……」
「お、おう……これ以上は訊かぬ。ありがとう…………黄蝶、そろそろ紅羽の口から手を放していいぞ」
その言葉で黄蝶が紅羽の顔から手を放す。
紅羽が深呼吸して、「ひどいよっ!!」と愚痴った。
「まあ、そういうな……さっそく奥多摩の土隠山へ行こう!!」
松田半九郎が晴々した顔で元気よく、草鞋を踏みしめて街道を進んだ。三女忍も遅れじとついていく。
「……なんだかなあ……急に出てきて仕切り始めちゃったよ……三白眼の旦那は……」
「しかし、盤渓寺退魔僧との無益な戦いは終いになったしのう……」
「そうなのです、無駄な喧嘩はよくないのですよ!」
「まあ、そうかもね……関所も女だけより、男が……しかも寺社役同心がいると、すぐ通してくれるし、便利かも」
『出女に入り鉄砲』の時代、女だけの旅は手形があっても関所でいらぬ詮索を受けてしまうのだ。
先頭を歩く松田半九郎が立ち止まって、ジト目で男装剣士を凝視。
「……紅羽、聞こえておるぞ……便利って……言い方」
「あはっ……ごめんちゃ、松田の旦那」
舌を出す紅羽を竜胆と黄蝶がからかう。
「それにしても、早乙女の仕事でもらった新品の菅笠に破れ目ができちゃったよ……」
「破れ笠侍・紅羽なのですね!」
「なにそれ、ヤダァァァ~~カッコ悪いよ……」
「なんだか渡世人みたいな仇名じゃのう……」
街道の上空は曇り空であったが、途切れ途切れに晴れ間が差しこんできた。
その後は順調に旅がつづき、宿場町まであと一里という、一里塚が見えた。周囲には青梅の木が多くみえた。
一説によると、平将門がこの地の金剛寺で、梅の木に棒を差し込むと、その木だけ梅の実が赤く熟さず、青いままだった。
それで青梅という地名をつけたという。
また、平将門が建立した金剛寺には、将門誓いの梅が存在する。
夕暮れ前にたくさんの灯と、炊事の煙が見える青梅の宿場が遠目にみえた。
今夜は寺社役同心の坂口宗右衛門が手配した宿屋「環屋」に泊まる予定だ。
町のほうから、紺絣の単衣を着て、赤いタスキに白い手ぬぐいと菅笠を被った早乙女の一団が歩いてきた。
「おお……早乙女かあ……あたしたちも昨日までしてたよね……」
「疲れてクタクタの様子なのですね……おうちか宿に帰るのでしょうか」
十七、八歳のそばかすの娘が先頭を歩く紅羽に声をかけた。
「もうし……お武家さま……わたくしはおふみと申します……青梅の宿場はどこでしょうか?」
「えっ!? ……どこも何も、あなた方が歩いてきた方角にありますよ?」
「そんなっ!!」
おふみという娘と仲間の七人の早乙女たちが振り返る。
町の灯火をみて、安堵感ではなく、困惑と恐怖におびえる表情を浮かべた。
「私たちは半刻(一時間)以上も……あの灯の見える宿場を目指して歩いているのです……」
「ですが、いつまで経っても、たどり着けないのですよ……」
「なんだってぇ!?」
紅羽たち一行が目を見開いた。




