心を空に
五月も中旬となり、鳳空院の周囲の田圃でも田植えの季節であった。
良く晴れた空のもと、田圃には紺の単衣に赤いタスキをし、白い手拭いを頭に巻き、新品の菅笠をかぶった早乙女たちが田植えをおこなっていた。
尼寺の山門の手前にある茶屋「松葉屋」の奥の部屋で、左腿の上に右足をのせ、右かかとを腹によせ、右腿の上に左足にのせる『結跏趺坐』で座り、手を法界定印で結ぶ若者がいた。
これは寺社役同心の松田半九郎だ。
その背後に警策という樫の棒をもった美貌の尼僧・秋芳尼が佇んでいる。
「半九郎殿、この線香が燃え落ちるまで、ゆっくりと息を吐き出して、そのあとは自然にまかせた呼吸をしてください……」
「はい、わかりました、秋芳尼殿!」
「座禅とは、自分のこと――自我をなるべく考えないことです。なにがあっても、黙っているのです。心を空にして、自我以外の存在を感じるのですよ……」
「むむむ……心を空に……ですか……」
「これ以上、しゃべってはなりません」
「………………」
二人の横に火の点った線香があり、それが燃焼するまでの一時間ほど精神統一の修行を続けるのだ。
なぜ、松田半九郎が秋芳尼に座禅修行をつけてもらっているかというと、前回、『赤目の辻斬り』事件で竜胆を救ってくれた礼にと、秋芳尼が特別に『練丹法』の初歩を教えてくれることになった。それがこの座禅だ。
しかし、茶屋で留守番をしていた浅茅が水を汲みにでかけてしまい、半九郎は見目麗しい秋芳尼と人通りのない茶屋で二人きりの修行となってしまった。
胸の鼓動が高鳴り、心を無にすることが難しい。
――うぅぅぅ……まさか秋芳尼殿と二人きりになるとは…おいやではないだろうか……俺は生まれつき三白眼で目つきが悪いと人に言われる……しかし、その方が同心として睨みが利くと岸兄にいわれたが、今は恨めしい……いや、男子たるもの、己の面貌を気にするなど軟弱の極みだ……いや、いかんいかん……座禅の最中であった……心を空っぽにするのだったな…………
すると、右肩を警策でポンポンと触れた。半九郎は右肩を差し出した。
――まあ……煩悩じみた思案ばかりしていたので当然か……しかし、禅僧とちがい、秋芳尼殿の細腕では痛くないであろうなあ……
そこへ、ビシリと警策の一撃が入った。
嫋やかな細腕の尼僧とは思えぬほどの痛みが走り、涙目になる。
「ううう……ありがとうございます……」
「ほほほほほ……これは文殊菩薩様の励ましです。姿勢をただし、参禅に集中してくださいね……」
「はい……肩の痛みの中に、何か別のものが目覚めるような気がします……」
「あらまあ……それは目覚めないほうがいいかもしれませんねえ……ともかく、何があっても座禅に集中するのですよ……心を空に」
「はい……心を空に……」
森閑とする茶屋の一室の外に、「エッホ、エッホ」という男の掛け声が聞こえてきた。
人通りの少ない寺の前の往還を、駕籠かきがやってきて、茶屋の前で止まったのだ、垂れ布をあげて中から坂口宗右衛門が出てきた。
松田半九郎の伯父であり、寺社役同心としての先輩である。
薄目をあけた松田半九郎はすわ、何事と叫びそうになった。
が、尼僧に何があっても黙って座禅するように言われたばかりだ。
じっと耐えた……
「これ、伴内……伴内はおるか!」
「あらまあ……坂口殿、いかがなされましたか?」
「これはこれは、秋芳尼殿……実は奥多摩で大蜘蛛の妖怪が出現し、村を襲っては大暴れしておりまする……」
「まあ……蜘蛛妖怪が……なんということでしょう……」
「八王子の代官・戸須田様から要請があり、寺社奉行所を通して妖怪退治人を集めておるんですわい……して、伴内と紅羽たちは何処へ?」
「伴内は金剛さんと炭小屋の仕事で籠りきり……紅羽たちは近くの田圃で田植えの手伝いをしております……」
「ええい、なんと間が悪い……おっ、そこにおるのは新九郎ではないか……これ、半九郎。紅羽たちを探してまいれ……」
坂口宗右衛門は座禅にとりくむ甥っ子ににじりより、わめき散らす。
「うぅぅぅ……わかりましたから、伯父上……そう、耳のそばで騒がないでください……耳が痛い……」
「何をいうか、急に坊主の真似事なんぞしおってからに……お主にはとうてい似合わぬぞ?」
「ほっといてください……それより、紅羽・竜胆・黄蝶を呼んでくるので、待っていてください」
松田半九郎は草鞋をはいて、吾作の田圃へ走り出した。
「あらまあ……半九郎殿は座禅や瞑想などには、とんと縁のない御仁なのですねえ……」
非凡の容貌を持つ尼僧がくすりと笑みをうかべた。




