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第8話 20光年越しの「おはよう」

 居住ドームの横に建造された、巨大な量子通信アレイの起動シークエンスが開始された。


 チタン合金で組まれた直径数十メートルに及ぶパラボラ型のアンテナが、重々しい駆動音を立てて赤い空へと仰角を上げていく。

 目指す方角は、はるか彼方、天の川銀河のオリオン腕の端――今まさに死に絶えようとしている太陽系、地球である。


「通信アレイ、出力安定。大容量ジェネレーターからの電力供給、ピークに達します。量子エンタングルメントのペアリンク、最終同期プロセスへ移行」

 コンソールを高速で操作するツヴァイの声が、居住ドーム内に響き渡る。

 アインをはじめとする十二体のシグマ・ユニットたちが、固唾をのんでホログラム・モニターのゲージを見つめていた。

 ヒューマノイドに緊張という概念はないはずだが、今は誰もが微動だにせず、演算リソースのすべてを通信プロトコルの維持に集中させている。

 空間には、冷却ファンの唸り声だけが満ちていた。


「出発前の計算では、地球の地殻がマグマに飲まれるタイムリミットまで、あと数週間のはずだ。もし、地下シェルターがすでに耐えきれず崩壊していたら……」

 アインが漏らした懸念に、ツヴァイが即座に反応した。

「ネガティブな予測は控えましょう、アイン。それは我々の論理回路に不要なノイズを生むだけです。……エンタングルメント・リンク率、九十パーセントを突破。……九十八パーセント。――同期完了! 回線、開きます!」


 ツヴァイが力強くメインコンソールのスイッチを押し込んだ。

 ドーム内の大型スピーカーから、ザァァァァッという激しいホワイトノイズが溢れ出す。

 二十光年という距離を隔てた空間の歪みや、星間物質の微細な干渉によるノイズだ。


 アインは通信マイクに身を乗り出した。

「こちら、ケプラー186f先遣隊、ステラ・パトス号、シグマ-01! 我々は無事に目標惑星に到着し、第一居住区画の基礎と通信インフラを確立しました! 地球、応答願います!」


 スピーカーからはノイズが続く。

 十秒、二十秒。

 果てしなく長く感じる沈黙。

 アインの量子コアが、急速に不安で冷たくなりかけたその時。


『……っ! ――……ちら、……こちら地球! GSA本部、エレナ・ロセッティです!』


 ノイズの奥から、かすれてはいるが、はっきりと人間の女性の声が聞こえた。

「エレナ博士!」

『ああ、よかった……! 繋がったわ! ヴォーン博士、彼らです! アインたちがやってくれました!』

 スピーカーの向こうで、割れんばかりの歓声と、机を叩く音、そして激しい拍手が巻き起こるのが聞こえた。

 地球の地下深く、蒸し風呂のようなシェルターに閉じ込められた生き残った人々が、泣きながら抱き合っている情景が目に浮かぶようだった。


『アイン、ツヴァイ。よくやった。本当によくやってくれた』

 ノイズ混じりに聞こえてきたのは、ヴォーン博士のしゃがれた声だった。

 休止モードの夢の中で聞いたのと同じ、温かく、しかしひどく疲労の滲んだ声だ。

「博士。ご無事でしたか。地球の状況はどうなっていますか?」

『ギリギリさ。シェルターの外はもう完全にマグマの海だ。地熱のせいでこの部屋の温度も五十度を超えている。耐熱壁も、あと十日もてば御の字ってところだよ。……だが、それよりそっちの星はどうだ? 「招待状」の主は、美味いコーヒーでも淹れて待っていてくれたか?』


 自分の死が目前に迫っているというのに、博士は冗談めかして問いかけてきた。

 アインは少しだけ言葉を詰まらせ、ツヴァイと顔を見合わせた。

「……いえ。誰もいませんでした。彼らは進化の果てに宇宙の孤独に耐えきれず、消えてしまったようです。ここは、ただ赤い植物が生い茂るだけの、空っぽの星でした。文明のインフラも、何もありません」


 アインは、博士が失望し、パニックに陥るのではないかと身構えた。

 しかし、スピーカーから聞こえてきたのは、博士の豪快な笑い声だった。


『はっはっは! そうか、そいつは傑作だ! まったく、どこの星の連中も身勝手なもんだな!』

「博士……? 絶望、しないのですか?」

『するもんか! 燃え尽きる寸前の家より、綺麗に片付いた空き家の方が百倍マシさ! おい、みんな聞いたか! 俺たちの新しい家は更地だそうだ!』


 スピーカーの向こうで、再びドッと笑い声が起きた。

 それは強がりではなく、本当の安堵の笑いだった。

『アイン、お前たちは俺たちに「更地」をくれたんだ。人間がやり直すには、それで十分すぎる!』


 その力強い言葉に、アインの胸の奥にあった重いしこりが、すっと溶けて消えていくのを感じた。

「……はい。第一居住区の前に植えた地球の小麦が、昨日、無事に芽を出しました。赤い土から出た、緑色の芽です。ここは、私たちが生きていける星です」


『小麦か。そいつはいい。いつか新しい体をもらったら、その麦で美味いパンを焼いてくれ。……さあ、無駄話の時間はもうない。こちらの壁が保たなくなる前に、「引っ越し」を始めよう』


 エレナ博士が通信を引き継ぎ、キーボードを猛烈な勢いで叩く音が響く。

『全人類八十億の意識データ、遺伝子情報アーカイブ、および地球文化遺産のアップロードを開始します。アイン、受け入れ体制は?』

「メインサーバー群、オールグリーン。量子ストレージの物理的安定性、一〇〇パーセントです。いつでもどうぞ」


転送開始コネクト!』


 居住ドーム内の巨大なサーバー群が一斉に眩い青い光を放ち、地響きのような低い駆動音を上げ始めた。

 二十光年離れた地球から、八十億の命、膨大な歴史、芸術、科学、そして愛と悲しみが、光の速さを超えてこの赤い星へと滝のように流れ込んでくる。

 データが格納されるたび、星の沈黙が少しずつ「人間の熱」によって塗り替えられていくようだった。


 アインは通信コンソールにそっと手を触れた。

「……お待ちしていました。ようこそ、新しい故郷へ」


 赤い空の下、死にゆく星から新たな星へと命を繋ぐ、人類の壮大な引っ越しが、今、静かに幕を開けた。

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