31話 フェルメール
※本話の美術館シーンは、来館者が少ない時間帯を想定して描いておりますが、
会話しながら鑑賞シーンは"物語の演出"としてご覧いただけたら幸いです。
結城はドキドキしていた。
初めての美術館。
人生で初めての、ちゃんとしたデート。
本当は手を繋いで廻ってみたい。
いつか手が繋げたらいいのにな……なんて考えながら澪桜の後ろ姿を見つめていた。
受付から戻って来た澪桜が結城にチケットを渡す。
「ほい! 結城さんの分ね!」
「あ、ありがとうございます」
心が弾み、待ちきれない様子の澪桜は言う。
「いよいよだね! 楽しみ! 行こう結城さん!」
「はい! お供します!」
まだ二、三人しか居ない来場者の中、ゆったりと一枚一枚絵画を閲覧していく。
音声解説などの貸出もあるみたいだよと、結城は澪桜に声をかけたが、笑って首を振った。
(安達さんなりの楽しみ方があるんだろうな。できたら俺も共感したい)
澪桜の視線になるべく集中しながら、結城はついて行った。
すると一つの絵画の前で澪桜が立ち止まる。
どうやら気に入ったようだ。
絵画の前で後ろ手に腕を組み、決して絵画に近づかないように配慮しながら、前傾姿勢で真剣に見つめる澪桜。
「うわぁ……この絨毯、汚れまで再現してある。相当汚れてたんだねぇ……ほら見て」
視線だけで結城に見て欲しい部分を指した。大きな瞳が強く結城を射抜く。少し緊張しながらも、澪桜の隣に並んで同じところを見つめた。
「……あ! 本当だ……すごいなぁこんな所まで再現するなんて。むしろ綺麗に描くものですよね……普通は」
うんうんと頷く結城。
「……この画家はきっとそこら辺まで写実的に描く事に拘りがある人だったんだろうねぇ。すごいね。ドレスのベルベットも油絵で再現してる」
「……確かに。どういう技法なんだろう」
「ね。私はペンしか使えないから全く理解不能。そしてこういう絨毯だけど、当時はかなりの貴重品だから洗うっていう概念なかったらしいよ。長年汚れっぱなしだろうねぇ」
「ええ!? そうなんですか!?」
「うん。昔読んだ本にはそう書いてあった。でも本当かどうかは分かんないけどね。私の知識は諸説あります!信用しないように」
「自信満々に言うことじゃない」
冗談を言いながらも、小声で豆知識を踏まえて、独特ではあるが絵画の楽しみ方を丁寧に教えてくれる澪桜。
結城は澪桜の説明にどんどんハマっていった。
「……俺正直こんなに美術館楽しめると思ってなかった。絵の歴史とか、この時代背景はこうですよとか言われてもピンと来ないしさ。でも安達さんの話聴きながら見るのすごく楽しい。汚れの再現なんて他の人あんまり見てないですよ……多分」
先程までの絵画の説明を反芻して、思わず頬を緩ませてしまった。そんな結城に釣られて澪桜も笑みを返す。
「……私達ってもしかして楽しみ方間違えてる?でもまあいいか!楽しいから。……あ、結城さん。この絵見て、すごい」
順路に沿って歩んでいた足が止まる。
あまり誰にも立ち止まられないまま、ひっそりと佇むシンプルな果実の写実画。
「……ん? 何が凄いんですか?」
「この斜めの位置から見てみ?」
結城はいわれるがまま、澪桜の視点で見つめる。
目を凝らして斜めから見てみると、筆の跡がくっきりと凸凹を作って波打っていた。
「筆の跡」
微かに、結城の唇から言葉が漏れた。
「そう! ……すごいね。450年前の筆跡だよ? この人が生きていた証。この人がどんな風に筆を走らせたのかが、こんなにハッキリ残されているなんてロマンだなぁ。時を超えて彼は現代も、生き続けてるんだよねぇ。何て愛おしいんだろう……」
誰の目にも止まらなかった、ただの果物の絵を、穏やかに、大切そうにいつまでも澪桜は眺めていた。
(そんな風な見方が出来る安達さんが……俺は愛おしいよ)
結城は静かに目を細める。
「さて。次に行こうか」
「そうですね」
順路通りに、ゆっくり閲覧していく2人。
様々な時代の絵画に触れ、感性を刺激される結城と澪桜。
そしてとうとう───
主役とも言える、フェルメールの絵画にたどり着く。
青の代表作。
真っ暗な壁、ワインレッドの柱。そして四方からのスポットライト。
およそ縦44cm、横29cm程の控えめな大きさのその絵画は、静寂を纏い、異質なまでの存在感で佇んでいた。
圧倒的な美しさに二人はただ、息を飲む。
「……素晴らしい」
澪桜が呟いた。
しばらくそのまま息を忘れているように止まる。
「……これは俺でも知ってる。……綺麗ですね」
「……うん」
二人は学芸員以外誰もいない、静寂に包まれる館内で一枚の絵画をゆっくりと眺めていた。
「今何を思ってますか?」
静かに澪桜へ視線を向ける。先程のような解説が聞けることを期待して。
だけど、今回は少し違った。
澪桜の視線が、まつ毛が揺れる。少しだけ呼吸を整えて。
「……この青はね、フェルメールブルーって言ってね。当時金より貴重品だった絵の具で描かれてるんだよ。ラピスラズリでできた絵の具なんだって」
絵画を見つめながら薄く開く唇。
無機質な館内で姿勢よく立つ姿が
何故かとても艶やかに見えた。
「へぇ……お金持ちだったんですね」
つい、彼女に見入ってしまっていた結城は、澪桜の視線が動くと同時に、思わず目を泳がせて取り繕う。
「………副業と彼自身の経済力のおかげだったのかな? ………この絵、本当にフェルメールの理想を形にした絵だといいねぇ」
澪桜は細い声でぽつりと呟く。
「え?」
「……この絵画のモデル、諸説あるんだけど、実在しなかったらいいなぁって」
絵画から結城に視線を滑らせて微笑んだ。
「……どうして?」
意味が分からず、聞き返す。
隣に立つ澪桜の大きな瞳は、真っ直ぐ絵画を映していた。
微かに揺れる。
「奥さんの気持ち考えたら……辛いから。もしフェルメールが奥さんとは違う人を愛していたとしたら……こんなに美しく描けるほど、他の誰かを想っていたとしたら……奥さんはきっと耐えられないよね。……私は人を好きになったことないから分からないけど、辛いだろうなって」
澪桜は冴えるような青を見つめ……物思いにふける。
閲覧者がいないからこそ、贅沢に独占し続ける二人。
「……うん、それは辛すぎるよ」
想像して……一人で辛くなってしまう結城。
澪桜に他に好きな人ができたらなんて
考えたくない。
更に澪桜は続けた。
「だから、この絵が本当に、理想の女性を描いた絵だといいなと思って。……だってこんなにも美しい絵画だからね」
切なさを浮かべ、優しく絵に微笑みかける。
そんな彼女の表情から結城は目が離せなくなった。
「……安達さん」
低く、呟く。
「ん?」
色素の薄い、クォーツのような瞳が、真っ直ぐに澪桜を捕える。
「俺は……裏切りませんよ」
無音の中、響く微かな声。
「……はは。なんだい? それ」
眉を下げて笑う、首を傾げる澪桜へ、意味を重ねるように、もう一度伝えた。
「俺は、安達さんを裏切らない。……友達としてね」
真剣な眼差しで。
本当は違うのに。
臆病な結城は……本心を"友達"の中に隠す。
アーモンド型の瞳を一瞬見開き、澪桜は直ぐに柔らかな表情を浮かべた。
「うん。……私も結城さんを裏切ったりしないよ……友達として」
二人は互いに笑みを深め、もう一度名残惜しむように絵画へと視線を戻す。
───青の絵画の前で静かに、誓い合った。




