九話
翌朝から、村井家では祝言に向けた支度が静かに始まった。
けれどそれは知代にとっては、どこか他人の家で行われていることのようだった。
白木の膳と器をもう一揃い借りるため、花が裏の路地を回って近所の料理屋へ足を運び、徳之助は帳場に腰を据えて、祝い膳と祝儀袋の手配を番頭に指示していた。
お静はお静で、納戸の引き出しを開けては、使い回しの懐剣や角隠しの布を取り出し、何かと間に合わせで済まそうとしていた。
祝言の準備といっても、嫁入り道具を新調するでもなければ、大掛かりな支度をするでもない。
婚礼の化粧も、家にある白粉と紅で済ませる予定で、髪も花に結ってもらえばよいとされた。衣装は店の売れ残りの着物、帯も母の遺した古いもので事足りる。
「女中ひとり減ると思えば、悪くない出費だわ」
お静がそう呟いたのを、知代は耳の奥で聞いた。けれど、何も言わなかった。
どこか遠くで進んでいる支度。
自分のことであるのに、触れると壊れてしまいそうで、指の先ひとつ動かせなかった。
花が繕ってくれた袋物が、縁側の陽に干されている。台所では、お赤飯に入れる小豆が水に浸されていた。
知代はそのすべてを、薄い硝子の向こうから眺めるようにして見ていた。
――ほんとうに、私は嫁ぐのだろうか。
――あの人の妻になるのだろうか。
夕暮れが近づくころ、知代はお静に頭を下げ、買い物の名目で家を出た。
胸の中には、ひとつだけ確かな目的があった。
路地を抜け、細い小道を曲がって旧道に出ると、赤く染まり始めた西の空が目に入った。
足早に歩きながら、時折、道行く人の肩越しに家々の軒先をうかがう。
ちょうど、逓信省からの帰り道らしい、見慣れた姿が豆腐屋の前で足を止めているのが見えた。
「……茉莉花!」
知代が声をかけると、彼女は振り返り、手にした包みを落としかけた。
「知代!びっくりしたわ。どうしたの? こんな時間に」
肩で息をしている知代の様子に、茉莉花はすぐにただならぬものを感じた。
二人は連れ立って裏道へ入り、誰にも聞かれぬよう、町外れの小さな神社の石段に腰を下ろした。
「……結婚することになったの」
知代の声は、風に紛れるように小さかった。
「……え……」
茉莉花は固まったまま、目を大きく見開いた。
「誰と? 急に?」
「ええ。……大蔵省の文官の方よ。島田さんっていうの。もとは美世子との縁談だったのだけど」
その言葉に茉莉花の表情が曇る。
そして、知代は四日後に嫁ぐこと、何も考える暇もなく流されてしまったことなどすべてを語った。
茉莉花は、長く息を吐き、そして言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「……それは、あんまりだわ。急すぎる。しかも……選ばれた理由があなたじゃなくてもよかったっていうなら、なおさら」
その声には、怒りよりも、深い悲しみがにじんでいた。けれど、次の瞬間、彼女はまっすぐに知代を見た。
「でも、師範学校に行けるんでしょう?それだけは、喜ぶべきだわ。知代、あなたの夢は、まだ諦めるべきじゃないもの」
知代の目に、ふっと揺れるものが浮かぶ。
夢。
その言葉が、今はどこか遠い他人のもののように聞こえた。
「……あの本、返すわ」
知代は鞄から、例の洋書を取り出した。
「いまのうちに、返しておかなくちゃと思って……」
けれど茉莉花は、首を横に振った。
「いいの。持っていて。たまに、それを開いて、私のことを思い出してくれたら、それでいいの。それに、旦那様がどんな人か分からないけど、許してくれるなら、私、仕事帰りにでも会いに行くから。必ずね」
知代の手の中に、そっと本を戻す。その手を、二人はぎゅっと握り合った。
夕暮れの中、指先が名残を惜しむように離れた。